イッテハイケナイヨ

 

 ――行ってはいけないよ。

 

 ――そっちに行ってはいけないよ

 如何して?

 ――あの柵の向こうに古い家が在るだろう。

 誰か居るの?

 ――ああ。でも行ってはいけないよ。彼処は異形の巣窟なのだよ。

 いぎょう?

 ――行ってはいけない

 

  イッテハイケナイヨ

 

 

 

 ――どうしてだろうか――

 矢張り祖母が死んだからだろうか。

 此の先に行ってみようと思ったのは。

 幼い頃から母親の代わりだった祖母が死んだというのに、牡丹は不思議な安堵感を感じていた。

 悲しくない訳では無い。

 此の家――

 空空しい絵のような実の無い景色。

 

 ――此の家がおかしかったのだ。

 

 牡丹は此の家で産まれた。広葉樹に覆われ隔離された異界に佇む古い館。生まれてから二十年、牡丹は此の家を出ていない。ずっと祖母が面倒を見てきてくれたし、兄姉もいたから淋しい想いなどしたことはなく、平淡と云ったら平淡とも云える生活をしてきた。

 母は病弱な人で、物心ついた頃から記憶の中には夜間着姿の彼女しか無かった。おまけに父は気が付いた時にはもう既に他界していた。それでも祖母、兄妹、それと母の主治医、弁護士、父の元秘書、使用人を入れると、結構な人数と同居している事になる。

 思えば、此の館に住む、牡丹を含めた住人がおかしかったのかもしれない。 

 取り分け不自由を感じずに牡丹は少女時代を過ごした。週に一度は家庭教師が来て小難しい本を読んでいるときの退屈を除けば、何も不満など在有るはずも無かった。

 只、幼い時はあまり感じなかったことだが、成長するにつれ、牡丹は漠然とした恐怖を抱くようになった。

 

 

 

 

  1 卒塔婆守   

 

 

 何処までが庭で何処からが森なのか今も昔も明瞭りとは判らないのである。

 ただ、此方と外を仕切っている一つの結界が、北の門の方角に苔むしていた。

――墓碑が一層。

 叢に埋もれる様に、鏑矢の形をした卒塔婆が立てられている。

 墓が在るというだけで、幼心には怖ろしく、其れを目にする度に胸が凍った様に血の気が引いた。

 牡丹が未だ、家に居る使用人の顔も人数も把握しきってない年頃。ある一人との出会いがあった。

 朧んやりとした好奇心で彼方此方を彷徨い歩いて、手に握った芥子が萎びてきた正午過ぎ。牡丹は思い掛けず其の墓の処まで来てしまった。心臓が薄ら寒く冷えていくのを感じながらも、黴臭い湿った石に近づいた。子供というのは怖がっていながらも其処かでそれを楽しんでいるのだ。その時の牡丹も、じわじわと湧き起こる畏怖感に酔っていたのかもしれない。

 がさりと鳴って草が揺れた。牡丹の肩がびくりと撥ねると、其の目に黒いものが映った。一度大きく鳴った心音は、徐徐にまた冷たく冷えていき、瞳の中の黒いものも段段と人の形となっていった。

「ああ、牡丹だね。今日は」

 黒い服の男は口の端だけ笑い、此方に顔を向けた。

 色の無い様な白い皮膚。細い狐の目をした若い男。

 物の怪だろうか。怪しいこと甚だしい。

 いや、似合いすぎるほどに其の男は此の墓石の風景に溶け込んでいた。

「手に持っているのは芥子かな」

 牡丹は、視覚上のあまりの非日常さに言葉を忘れてしまったというのに、耳からは何時も聞き慣れている音が入ってくることのギャップに、一層現実感が遠のいた。

「私はね、本当は誰にも見つかってはいけないのだけれどね。まぁ、いい。君とは友達になろう。」

 そう、さも当然の様に言って、男は背負っていたうつぶし色の布袋から掌に乗る程度の小箱を取り出した。

 牡丹の右手は糸に吊られた様に持ち上げられ、其の箱を受け取った。

「其れは開けないでおくんだよ。母様に見せても駄目だ。大事に持っておいで」

 そう言うと、黒い男は林の影の黒にと消えていった。

 

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