彼と彼女の確執



 翔にはどうしても一つ、咲と同棲を始めてから気になっている事がある。それは咲の枕の事だ。
 翔と咲は付き合って一年目で、すこし前から翔の家で同棲状態が続いているのだが、それもあと数日で一ヶ月となる。 翔は少々恋愛経験に乏しく、今回の同棲も彼にしてみればにわか雨のような展開である。 だが始まってみれば彼にはおおむね不満は無く、可愛い彼女との甘い生活が続いている。
 ただ同棲を始めて解かったことであるが、咲は自分の枕に異常なまでの愛着を持っているようで、それは時折翔よりも枕のほうが好きなのではないかと彼自身が思うほどである。 咲が実家から持って来たその枕は彼女が物心ついたときから使っていて、 枕カバーは取り替えても中身は替えていないのだという。 一度彼が冗談まじりに捨てようとしたら、ものすごい剣幕で怒られた事もあった。それ以来翔は枕の事には触れずにいる。
「翔君知ってる?小さい頃に聞いたんだけど、人って普通ね、人生の三割くらいは眠っているんだって。 寝てる間はこんな風に枕に頭を預けているよね。だとしたらその枕には、持ち主のいくらかは詰まってるって事じゃないかな?」
 ある夜のこと。咲は翔と寝ているときに、そんな話を切り出した。
「…それでね、人間は寝てるときほとんど無意識なんだって。そのままだと危ないよね。だからこの枕は、私の支えになってくれてるんだね。」
 咲の話に適当に相づちを打ち、彼女の身体に手を伸ばそうとする時、翔にとって咲の枕は邪魔でしかないのだが。
「この枕にはきっと、いろんな私が詰まってるんだろうって、そう思うとなかなか捨てられないんだ…」
 翔は何だか腹が立って、少々無理矢理に咲を振り向かせキスをする。咲は一瞬戸惑った顔をしたが、すぐに翔を受け入れた。

 夜が明けて翔は目を覚ます。咲はすでに起きて朝の準備をしているのだろう、そこにははだけた布団と彼女の枕があるだけだ。 ふと枕を見て翔は、昨夜の咲の話を思い出し小さな苛立ちを覚える。 枕に嫉妬かと翔は情けなくなるが、どうにも枕をずたずたにしたい衝動が湧いてくる。
 翔はもやもやを静めるために自分の煙草に火をつけた。だが少々ふかしたところで苛立ちは収まらず、 あれこれ考えをめぐらせていると、火のついた灰が彼の指から音も無く咲の枕に落ちた。 それを見た翔は一瞬戸惑ったが、一転小さな笑みを浮かべ少しゆっくりと灰を払いのける。枕には小さな焼け跡が残り、 満足した翔は先手を打って咲に謝るふりをしようと、咲の居る台所に向う。
 咲は小さな火傷をしていた。



草書