咲き誇るのは花々





 朝がきていた。
 外に出れば冷ややかな空気の中に潜む、静かな熱気が伝わってくる。
 街は不思議な熱を帯びていた。その雰囲気にギイスは訝しげに肌を震わせながらも、痛む頭を片手で抱え、キャロルの店を出る。その眼は酒と睡魔に濁っている。
 結局一瓶丸ごと飲み明かし、朝まで過ごしてしまっていた。
「あー、朝日が痛え……」
 一人朝焼けの空に向かって呟くが、通りにはまだ誰もいない。
 ギイスは人工の太陽に背を向けると、自分の割り当てられた住居へと向かう。だがハンターズ居住区は比較的低い建物が多く、大通りを歩いても朝日はどこまでもついてきた。
 朝日を避けるように、というわけではないが、気まぐれにギイスは普段通らない薄暗い道を選んで歩くことにした。
 どこにでも裏通りというものはある。治安とはどうあっても良し悪しで分布図を示すし、人の流れこそ人にはコントロール仕切れないものである。加えて狭くて薄暗い通りなどは、どうしても空気がよどみ暗闇が潜む。それはパイオニア2内部でも例外ではなかった。
 だからギイスは、曲がり角に差し掛かった時に一応の警戒をした。
 足音が聞こえてきたからだ。
 相手が先に姿を現すように歩調を調節し、息を潜める。
 しかし、相手もなかなか出てこない。
 同じことを考えているのかもしれない。追いはぎの類ならばギイスはあいにく持ち合わせが無かったが、通り魔の類ならば――可能性は否定できないのだ――備えなければならない。ここはハンターズ専用地区、チンピラまがいでも猛者たちの集う場所である。
 足音に気がつくのが遅かったか。こちらが足を止めれば、向こうも止めてくる。そして、相手のほうが角にはまだ遠い。
 ギイスは先に角に出ることにした。虚をつき、先を取るために。
 角まで後三歩の位置から、一気に前へ出る。
 角を出た瞬間、風切り音がギイスの聴覚を支配した。
 頭のすぐ後ろを、何かが通りすぎるのが圧力で解かる。
(――やっぱ敵か!?)
 ギイスはすぐさま体制を立て直し、相手の方へ体をねじりながら間合いを詰める。
 視線を戻す暇もなく、詰めながら勘を頼りに放った直蹴りは、相手が半身をそらしただけで回避された。
 死角から相手は致命的な一撃を放っているかもしれない。内心冷や汗をたらしながら、反撃の隙を与えまいとギイスは間合いを一気に離す。
 そこでようやく暴漢の姿を確認する。
「ギイスだったのですか」
 ランディだった。
「おや、何をへたり込んでいるのです?」
 グレーボディのアンドロイドは、不思議そうに聞いてくる。ギイスは疲れと頭痛が一気にぶり返すのを感じながら、弱々しく抗議する。
「そっちが疑問なのかよ……」
 ギイスはかろうじて言葉を搾り出した。
「テメエ、何でいきなり殴りかかってきやがった?」
「いきなり角にいる人間が臨戦体制に入ったので、攻撃の意思ありかと判断し対処したのです。ギイス、あなたは暴漢だったのですか?」
「さも疑問そうに聞くな!」
 ギイスは怒鳴ると、盛大にため息をつく。
「なんだかお前といるとため息ばかり出してる気がするな……」
「そうなのですか。ため息は幸せの欠片と申しますから、ギイスは幸せを振りまいているのです。良い事ですね」
「その割には、俺はちっとも幸せになってない気がするんだがな?」
 ギイスが皮肉混じりにそう聞くと、ランディは変わらぬ調子で応じた。
「幸せの定義は人それぞれと言います。自分は幸せだと強く思うことが幸福への近道ではないかと判断します」
「なんだか詐欺の理論だな」
 ギイスは半眼でそう告げてから、家路につこうと歩を進める。
 その肩を、わしりとランディが掴み止めた。
「ギイス、今日は祭典の日ですよ。覚えていますか?」
 ランディが告げてくる。ギイスは真顔で答えた。
「今始めて知ったよ」
「あれほど言っていたではないですか。聞いていなかったのですか?」
「治安部に目つけられてるってのに、悠長に祭りなんぞ行ってられるか! なんでテメエはそんなのうのうとしてられるんだよ」
「私はすでに軍治安部に事情を説明しに行きました。クエスト中の突発事故ということで、注意だけで済ませてもらいましたが?」
「……そういうことは俺にも早く伝えろ!」
 ギイスは肩に乗ったランディの手を弾く。
「今言いましたよ?」
「早くにだつってんだろがぁ!」
 声を荒げ過ぎたのか、ギイスは肩で息をしている。
「ギイス、過度のストレスは健康に毒ですよ?」
「……いつも思うんだが、本当に嫌味で言ってんじゃねえよなぁ」
「私の機能では、そのような会話の機微はまだまだ使用が難しいと判断します」
「なんかそれすらも胡散臭いし」
 ギイスはそう言ってため息をつくと、面倒臭そうに片手を振った。
「ああ、もういい。それで、テメエはこんな所で何してやがった?」
 疑問に対し、ランディは直立のまま答えてくる。
「実は<野良猫>を追いかけてきたのですが、この辺で見失ってしまいまして――」
 ランディの言葉に軽く驚きを覚えながら、ギイスは相手の言葉に割り込む。
「ちょっ、待て待て! まだ追ってたのかよ?」
「はい。昨日あなたと別行動を取った時から、追っていました」
「それで追いつけなかったのか? お前が?」
 ギイスは疑問を口にした。
 ランディはハンターズの最高位を示す『到達者(ハイ・マスター)』レベル。さらに近接戦闘を主体とするハンターである。アンドロイドだからという理由もあるが、機動力、持久力から考えれば、常識的に言って生身の人間が逃げきれるものではない。加えてランディは無手での格闘能力も抜群であるため、フェイントなどでも追撃の回避は困難である。
 だがランディは<野良猫>を見失ったといった。それはどういうことを示すのか――
「ええ、一度は追いつけたのですが、彼女自身かなりの体術の持ち主でして、傷つけずに捕えるのは無理だと判断しました。それと、途中で邪魔が入りまして、それに対応しているうちに逃げられてしまいました」
「邪魔が入ったって、昨日<野良猫>を追っていたあの男二人か?」
「いえ、別口でした。いきなり攻撃はされなかったのですが、手を引けと脅されまして。だから先ほども暴漢かと思いまして」
「……死んだハンターズたちとなんか関係があるのかね」
 そう言うとギイスはしばし黙考し、目を閉じる。やがて開かれた眼には、濃い光が灯っていた。
「……この辺で見失ったってんなら、<野良猫>はこの辺の地理に詳しいのかもしれねえな」
 ギイスは続けて呟く。それは力強い意思の混じった声だ。
「何にしろ、請け負った仕事は真面目にやらなきゃないかんかね。このままじゃちょっと、顔向けできねえしな」
「誰に顔向けするのです?」
 ランディの疑問に、ギイスは小さく笑うともと来た道に向き直る。振り向けば朝日はいつの間にか高々と昇っていた。
 小さく考える素振りを見せた後、
「自分自身に、じゃねえかな」
 そう言ってギイスは歩き始めた。
 裏通りには高くなり始めた太陽から、ゆっくりと陽射しが差し始めていた。




「いざ探すとなると、いねえなぁ」
 ギイスは一人、疲れた声を吐き出す。
「そうですね。やはり二手に分かれるべきでしょうか」
 ランディが疲れなどまったく無いといった口調で答える。
 太陽の高さはすでに昼過ぎを示していた。
 次第に朝から街を支配していた肌に感じる圧力が、もはや無視できないものへとなっている。ハンターズ専用区画とその他全ての居住可能区画を繋ぐメインの表通りには、数日前より用意されていた祭典用の特別な照明――薄い紙の筒の中に、明かりを灯したものだ――が等間隔で通り両脇の高いところに並んでいる。さらに点々とではあるが、通りには屋台や出店も路上に建ち並び始めていた。
 すでに人だかりの始まった表通りを避け、二人は裏通りへと入る。
 喧騒がやけに遠く感じる。ギイスはそんなことを思いながらも探索を続けていく。彼の腰にはポシェットが装備されていた。ランディの頭部にはガラクタを重ね合わせたようなアンテナとスコープがついており、一見すると奇妙な覗き魔である。
 再会の後、ランディの追跡劇の顛末を聞いたギイスは<野良猫>をハンターズだと仮定して、ランディに専用区画を重点的に洗うことを提案した。
 幸いランディの知り合いという人物のツテで、比較的電子的な防壁の甘いハンターズ専用区画の防犯用定点観測装置、いわゆる監視カメラにアクセスして主要な場所は監視してもらっている。もちろん不正なアクセスではあるのだが、誰も彼も法を気にしないので、もはやギイスも悪気すらない。
 ただ監視カメラには必ず死角というものが存在する。だからランディとギイスは、その地点を徹底的に探しまわることにした。ランディはすでに<野良猫>の身体的特徴を記録しており、周囲にいれば解かる索敵装置を組むのは簡単であった。ハンターズ同士がラグオルで使っているレーダーを応用すればいい。頭部のスコープはその索敵装置である。

「こんだけ苦労して、道具も揃えて、これで見つからなかったらお笑いだよまったく」
 ギイスは深く息を吐きながら、ハンターズたちが住まう街の裏路地を歩いていく。両脇を建物で阻まれた狭い道。二人並んで歩くともういっぱいだ。
 すでに専用区画出入り口の警備には話を通し、それらしき人物が通ったら連絡を入れるように頼んである。聞き込み、無人家屋の潜入、種々の手を尽くしているが、手がかりになるようなものは無い。かかった費用は買収や手間賃などを含めてもかなりの額だ。
「クエストの報酬ってのはいつも割に合ってないな」
 ギイスが自分の持ち金を計算し、うめくように言った。
「そうですね、これで祭典に間に合わなかったら、私も残念です」
「相変わらずこだわるなお前。まあ、それまでには見つけようや」
 そう言いながら、裏道を歩いていく。
 左右に並ぶのは、二、三階建ての長屋だ。干された洗濯物。汚れた家屋。割れた窓。ハンターズの誰もが高給取りではない。割り当てられた家の維持費を払えないなら、寂れていくのはむしろ当然であろう。
 澄んだ空の向こうには、行政区の超高層ビル群が建ち並んでいるのが見える。その外壁は遠目から見ても強固であった。
 ギイスはそれら一切を視界に入れながらも、感慨も無く突き進んでいく。ランディはそこから一歩遅れながら、周囲を索敵している。
 やがて、どれくらい経っただろうか。唐突にランディが声を放った。
「ギイス、目標を発見しました」
 ギイスは言われると即座に自分のポシェットを確認し、コードを取り出すとランディの索敵画像を自分の携帯端末に接続する。その間にもランディは続けて報告してきた。
「F−8地点に反応あり。距離は直線で800m」
「いや、F−8とか言われてもわかんねーし。とにかく、どっちだ?」
 そう言われると、ランディは進んでいた方向の右斜め前を指す。
「目標は現在停止中です。場所は……メディカルセンター入所棟の裏側ですね。ところでギイス、そんな面倒なことをせずともこれを被ればいいのでは?」
 ランディはそう言ってスコープを指し示す。
「そんなガラクタは、デリケートな俺にはなつかねーんだよ。それより、お前が後衛で回り込め。俺がまず姿を見せて追い込む」
「了解しました」
 即座に、小気味良い踏み出し音が響いた。
 二人同時に駆け出す。ランディは来た道を逆に、ギイスは前へ。
 メディカルセンター入所棟。そこは大怪我や病気を患ったハンターズたちを入院させるいわば病院だ。医療技術の発達したこの時代、入院の期間は確かに短くなったが、すぐに全ての怪我や病気が治るわけではない。無論、ギイスもお世話になったことがあった。
 少しも息を乱さずに、ギイスは白を基調とした建物へとたどり着く。
 すでに辺りは日が陰り始めていた。
 携帯端末を見れば、ランディも反対側に到着したようだ。反応はまだ、入所棟の裏側にある。
 ギイスは携帯端末の通信機能を展開。ランディとの会話をオープン状態にする。こうする事で、全ての会話が電話のように繋がりっぱなしとなるのだ。トランシーバーの要領でチャンネルを合わせれば、数人が同時に会話を出来る優れものだ。
「ランディ、準備はいいか?」
『良好です』
 クリアーな声が伝わってくる。
「解かってるとは思うが、奴に出会うまでお前は喋るなよ。声が漏れるからな」
『了解しました』
「いざとなったらあれを使うぞ」
『あまり誉められたものではありませんが、仕方ありませんね』
「……では入所棟らしく、オペ開始といくか」
 ギイスはにやりとした顔で言い放つ。画面の向こうからランディが、冷静に応答してきた。
『医者は手術時にオペ開始とは言いませんよ?』
「決め台詞につっこむんじゃねえ!」
 一言怒鳴ってからギイスは進みだす。その顔は心なしか赤らんでいた。
 歩き出すと、すぐに目標との距離が縮んでいった。ランディの反応は少し距離があり、相手の動きに対応できるようにしている。
 やがてすぐに入所棟の裏に出る。入所者の療養を気遣っているのか、植物が多く植えられていて、地面は芝になっている。音が立たないことを幸運に思いながら、ギイスは真剣な顔でゆっくりと壁つたいに歩く。
(反応は……この曲がり角の向こうだな)
 建物の角でギイスは足を止めた。端末を見れば、反応はすでに自分のマークと半分重なっていた。無論気配はまだ消してある。壁に寄りかかったまま、角の向こうを確認しようとした瞬間――
「そこにいるの誰?」
 向こう側から声がかかった。
 予期せぬことに一瞬ギイスは硬直するが、すぐに思いなおし姿を現すことにした。
 ギイスは一歩踏み出しながら、角を抜ける。
 角を抜けた先にいたのは、揃えられた黒い髪に淡く青い眼。低めの身長に夕日を背負いながら、こちらへ不思議と定まらない視点が向けられている。
 その姿は紛れもなく先日ギイスが追った<野良猫>の少女であった。
「こんにちは、ユキちゃん」
「おじちゃん、誰?」
 ユキと呼ばれた少女は、その名前に違和感なく返答してきた。
「……おじちゃんは酷いな」
 ギイスは少しだけヘコみながら、ゆっくりと距離を縮めていく。もちろん、話し掛けることも忘れない。
「俺はギイス、ハンターズさ。総督府の依頼で君を探しに来た」
「ウソだよぉ。おじちゃん、何か企んでるもん」
 心を読まれているような感覚に、ギイスは心臓が跳ね上がるのを感じた。
(この子、超能力者か何かか? さっきから気配を当てたり心を読んだり……)
 疑問を抱えながらも、止まることは出来ない。少女には色々聞かなければならないことがあった。
「君に聞きたいことがあるんだ。君を探していたハンターズが何人も死んでいる。……君がやったのか?」
 真剣な面持ちで聞く。直入過ぎるとは思ったが、これはまず解決しなければならない問題だった。もし本当なら、自分も危ないのだ。
 だが、ユキはまったく違うことを答えてきた。
「ユキもハンターズなんだよ。おじちゃん強いみたいだけど、ユキだって負けないくらいなんだから」
 会話が繋がらない。
「昨日遊んでくれたねずみ色のアンドロイドさんがね、すっごく強かったんだ。おじちゃん知ってる? ハンターズみたいだったけど」
「……君、追われてたっていう自覚無いのか?」
 ギイスは問うが、当の本人は楽しそうに笑いながらお構いなしに話しつづける。
「エネミー相手にしてもつまらないし、久しぶりに他の人に会ったから、楽しかったよ〜」
「聞く気ねーなこいつ……って、今久しぶりに他の人と会ったって言った?」
 ギイスが聞き返すと、今度はあっさりと返答してきた。
「うん、久しぶりだよぉ。だって、いっつも同じ人ばっかりなんだもん。みんなとラグオル行くのも飽きちゃった」
「…………」
 訳が解からないままに、ギイスは目の前の少女を見つめる。彼女を包む雰囲気は確かに、鋭利さと厚みをもつ戦士のそれだ。だが、緊張感というものがまるで無い。会話も繋がらず、まるで小さな子どもだとギイスは感じる。この子が本当にハンターズたちの死と関係があるのだろうか。それとも、彼らの死はただの偶然なのか――
『ギイス、緊急事態です』
 突如、ランディとの回線が開かれた。ギイスは舌打ちしながら、ランディの映像をユキから隠す。
「あー、ナニナニ? 隠し事いけないんだー」
 ユキが興味深々と言った様子で近づいてくる。
『たった今、暴漢に襲われました。先日目標を追っていた男二人組みです。撃退しましたが、まだ危険度は高いと思われます』
「おい、ランディ! どういうこった!?」
 ギイスが問い返していると、いつの間にか端末をユキが覗き込んでいた。
「あー、ねずみ色の人だー! こんにちはー」
 緊迫する空気ぶち壊しでユキが喜んだ。画面に向けて挨拶などしている。
『おや、対象は確保したのですね。可及的速やかにそちらへ合流しますから――』
「ねえおじちゃん、ぼーっとしてると危ないよ」
 ユキにぐっと頭を押さえつけられる。
 瞬間、さっきまで頭のあった所を質量のある何かが通りすぎていくのを感じた。
 膨れ上がる殺気。
 すぐさまユキから飛びのくと、ギイスは何かが飛んできた方を見やる。
 そこには男が一人、立っていた。
 何の変哲も無い一般市民の服を着た、ざん切り頭の中肉中背。ただその眼だけが、濁り澱みきっているのが見て取れた。先ほどの殺気を証明するかのように、片手には大ぶりの金属製ナイフが握られている。
「知っているか? 黒猫は不幸を呼ぶんだ」
 男が抑揚も無く告げる。その声は地の底から響くように低く、聞くものをぞっとさせるには十分な効果があっただろう。
「てめえ……いきなり狙ってきやがったな。いい度胸だ」
 ギイスがうめくように言い放つ。だが男は平然と懐に手を入れ、どこに仕舞っていたのかもう一本大ぶりのナイフを取り出した。いびつな形のグリップをもつ、黒塗りの塗装だ。
「軍部の飼い犬には、吠える暇も与えさせん」
 言いながら男はナイフを両方とも逆手に持ち直した。
(軍部って……訳の解からない奴ばかりだ……パイオニア2はそんなに狂ってんのか?)
 ギイスは内心大きく舌打ちすると、時間稼ぎに問いを放つ。
「軍部? 俺はただのハンターズだ。このユキを依頼で探してんだ」
「他の奴もまやかしで許しを請うた。だが、俺には犬の言葉など解かるはずもない」
「……じゃあ、<野良猫>探しのハンターズを殺したのはお前なんだな?」
 ギイスはさらに問いを放つが、向こうは時間の無駄と判断したのだろう。一気に突進を開始した。
 低い姿勢からギイスに向かって一直線だ。
 ギイスはポシェットから適当に物を引っ掴むと、男に向かって投げる。
 しかし男は首をそらす動作だけで避け、さらに加速して距離を詰めてきた。
「ひゅぅ!」
 男の口から息吹が漏れる。
 伸び上がるような左の斬撃がギイスの首を狙ってきた。ギイスは屈みながらこれを避け、同時に左の蹴りを放つ。
 見事相手の横腹にミートするが、腰の入っていない蹴りは、さしたるダメージを与えなかったのだろう。相手は更に踏み込みながら、右手のナイフを刺すように振り下ろす。
 柔らかいものに突き刺さる鈍い音。
 倒れる姿勢のままとっさにギイスが掲げたポシェットに、しっかりとナイフが貫通していた。
 ギイスはそのままポシェットを相手の左に振り、空いた右脇に痛烈な蹴りを放つ。
 今度はしっかり効いたのか、男はうめき声を上げながらも左の斬撃で地を薙いだ。
 だがすでにギイスは転がって距離を取っていた。隙のない動作で起き上がる。
「これがホントの暴漢だな。何なんだてめえ」
 ギイスがうめくと同時、それまで傍観していたユキが怒るように声を上げた。
「そんなことしちゃダメだよターちゃん。おじちゃんはユキに会いに来てくれた人なんだよ」
「お前は黙っていろ! それにターちゃんはやめろと言っただろ!」
 先ほどの冷静さからは考えられないような慌てぶりで、男はユキに向かって言い放つ。
「だって、タンジェットってみんなから呼ばれてたもん。だからターちゃんだよ〜」
「ほう、ターちゃんねぇ。ジャングルの王者だな。なんか偉そうだぞ」
 ギイスが面白そうに笑う。男はしっかりと怒りに顔を歪めながらも、努めて冷静な口調で反してくる。
「……その口、すぐに塞ぐ」
「出来るかな、そんな武器でよ」
「無手のくせに何を――」
 言いながら男は自分の手元を眺めた。右のナイフには、ポシェットが突き刺さったままだ。
 男が眼をやった瞬間、軽い音と共にポシェットが大きく膨れ上がった。
「なっ!?」
 次の瞬間には、男の上半身は深緑色の粘体に覆われていた。
「特性トリモチ弾。やっぱ上手いこと刺さってたみたいだな」
「何だこれは! くそっ、取れぬ!」
 男が上半身を振り回しながら喚いている。
「取れねえよ。特性だって言ったろう。高かったんだぜそれは。おまけに追跡用にかなりの激臭。ご愁傷様だな」
「くさーい」
 ユキがギイスのとなりで鼻を摘んでいる。男のいる辺りから、腐敗した生ゴミと、すり潰した草を混ぜたごとき臭いがあたりに放たれる。男は息を荒げ、ギイスを睨みつけた。
「貴様……殺してやる!」
 男が突進の姿勢をみせた瞬間、男の左側頭部に何かが飛来した。ブロックだ。
 鈍い音が辺りを支配し、ゆっくりと男は崩れ落ちた。
「いけませんね。そのような発言は」
 夕焼けの方角より、無機質な声が響く。
「発言に注意しないと、殺人未遂で補導されますよ」
「テメエの方がよっぽど危険なことしてるだろ」
 ギイスは現われた灰色のアンドロイド――ランディに声をかける。
「ねずみ色の人だ。こんにちはー」
 ユキがぺこりと頭を下げた。
「こんにちは。しかし、正確には『こんばんは』の時間です」
「そうなんだ。ねずみさん頭いいね!」
「私はネズミではありません。アンドロイドですよ<野良猫>さん」
「わたしだって野良猫じゃないもん! ユキっていうんだよ」
「おいおい、漫才やってる場合じゃねえぞ。見ろ」
 ギイスの言葉に二人が黙ると、辺りがざわついているのが知れた。裏庭の騒ぎに気がついた入所棟の人々がいるようだ。背後にある建物の窓からも、顔を出している人間が幾人かいる。
「どうするよ?」
 ギイスが建物を見上げながらランディに問う。
「とりあえず、離れますか」
「ああ、あの男は治安部にでも――」
 言いながら振り返ると、倒れていたはずの男は居なかった。芝がごっそり抉れていて、無理矢理引き剥がしたのだと知れた。
「あちゃー……逃がしちまったかな」
「では、あちらに五人ほど昏倒させていますので、そちらを連れて行きましょうか」
 ランディがそう言うと、それまで黙っていたユキが話し掛けた。
「……わたしそろそろ帰るね」
 ギイスはぽっかりと口をあけると、ユキに向かって言い返す。
「いやおい、俺の話まったく聞いてなかっただろ。俺は君を連れて行くために来たんだよ」
 ギイスの言葉に、ユキはしばらく考えるように小首を傾げ、数秒の間を置いてから答えを紡いだ。
「ヘズちんが来るかも知れないから、おじちゃん危ないからダメ。じゃあね」
 そう言うと、踵を返して駆け出した。
 虚をつかれ、唖然としているギイスを後目に、建物の角を曲がり際にもう一度笑顔で手を振ってから、ユキは消えていった。
 ランディは手を振り返し、ギイスは開いた口が塞がらない。
「……逃げられた」
「そうですね。とりあえず、治安部と連絡を取りましょう」
 ランディは相変わらずの声のまま答えた。すでに回線を開いて通信を開始している。
「……報酬は?」
「治安部から謝礼くらいは出るかもしれません。だから、そう落ち込まないで下さい」
「何でお前はそんなに平然としてられるんだよ!? 金が入らないかもしれないんだぞ! 丸損じゃねえか! つうか逃げられてるし」
「私は特に金銭には困っておりませんから」
「俺はものすごく困ってるぞぉ!? 追え! 早くレーダーで追え!」
「私のは先ほどの襲撃で壊れました。装備も無いですし、追跡はまた次回ですね」
「だからなんでそんなに冷静なんだよぉぉ」
 喚くギイスには構わず、やがてランディの手配で遠くからサイレンの音が鳴り響く。
 夕焼けは完全に沈み、空はすでに紫と紺の支配下だ。
 祭典の時間が始まる。




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