彷徨うのは闇夜





 徐々に橙へと、その色を変える空があった。
 下に広がるのは木々の緑生い茂る大地。そこには夕暮れ時の日が差し込み、斑にその色を変えていた。肌に感じる陽射しは柔らかで、それは、やがて訪れる夜の冷たさを暗示している。
 惑星ラグオル地表。
 その一大陸である広大な土地にある、巨大な木々が群生する「森」と呼ばれる地帯。そこに訪れた夕刻の変化。陽射しにも染まらぬ赤の髪を首の後ろで結ぶ女性――ミリニアにもその変化は届いている。
 だが、彼女の置かれている状況は、たそがれていられるほどに悠長ではなかった。
 硬質のものが長く擦れるような、「ギャ」とも「ギュ」ともつかぬ音。
「ノイリス! 五時の方向に新しいの二体!」
 若干の幼さを残した声質が、張り詰める鋭さを持って紡がれる。
 ミリニアが、その声と共に己がブラウンの眼を向ける先には、ノイリスと呼ばれた細身の男が立っていた。
 そしてノイリスの背面――ちょうどノイリスの死角の位置には、人の高さほどに直立した巨大なモグラを肉食の猛獣に変化させたような、ずんぐりとした怪物が立っている。
 見れば背面だけではない。ノイリスの前方、両側面、そして後方。あわせて八体の怪物が彼を遠巻きに囲んで、近づいている。
「ミリニアさん、そちらはお願いしますねぇ」
 ノイリスが落ち着いた口調でミリニアに返答した。
「言っとくけど、全部は抑えられないからね!」
 ミリニアがその右肩に担ぐ筒状の物体を、ノイリスの後方にいる巨大な直立モグラ、ブーマと呼ばれるエネミーに向ける。
 次の瞬間、空間に先ほどの何かが擦れるような音がミリニアから轟いた。肩にした筒状の射撃武器、フォトンランチャーの砲声だ。
 放たれたボール大の高圧フォトン弾が、ノイリスの後ろに迫っていた二匹をなぎ倒す。
 しかしなんとか転倒はさせたものの、とどめを刺すまでにはいたっていない。このままでは再び体勢を立て直しノイリスに向かっていくだろう。
「ノイリス! もうあんまりもたないよ!?」
 ミリニアの呼びかけに、それまで瞑想したまま立ち尽くしていたように見えたノイリスが俄かに声を張った。
 思い描くのは青。絶対零度の烈風だ。
 続く凛とした張りのある声質は、空間を支配するが如く。
「絶!」
 ノイリスの声に呼応したかのように、彼を中心に氷柱の陣が瞬時に広がり、迫り来るブーマは次々と巨大な氷柱に刺し貫かれてゆく。
 ノイリスの発動したテクニックの一撃によって、濃厚な赤を氷柱に滴らせながら、八体ブーマは全て絶命していた。
「……凄い威力ね」
 言いながらミリニアは、ノイリスのほうへと近づいていく。
 きりっとした顔とはやや不釣合いに、ミリニアが着込んでいるのは軍用の野戦スーツに、その上から光沢のないブッシュカラーのアーマーである。先ほどブーマをなぎ倒した、筒状のフォトンランチャーは肩から背負っている。左手にはカスタムバリアと呼ばれる、薄緑のフォトンがベース型に展開されたシールドをつけ、腰にはホルスターと、その中に収まる黒塗りの拳銃が添えられていた。
 寄ってくるミリニアの神妙な声音に対し、愉快そうな声音でノイリスが答える。
「その分、かなり集中が必要なのは難点なのですけれどねぇ」
 そう言って、ミリニアに薄く微笑みかける。
 ノイリスの耳にややかかる程度の長さに整えられた髪は、染めているのだろう鮮やかな緑色だ。その髪からでる耳は人間のものとは明らかに違い、横に長く、先の尖った形をしている。右にのみ、ピアスをつけたその耳は、彼がニューマンと呼ばれる人工の種族である証だ。体には鮮やかな黄色に赤いラメというふざけた色の入った、戦闘用対刃ローブを着込み、水色のフレームを着けている。頭にはローブと同じく黄色と赤の三角帽子をかぶるその姿は、明らかに森の自然から浮いていた。右手にはフォトンのシールドを任意に展開する防御装置が着けられているだけで、武器らしいものは装備していない。
「新しいテクニックを試したいなんて言うから手伝ったけど、私の出番ほとんどなかったみたいね」
 そうぼやくミリニアの背中やや後ろ辺りには、機械でできた鳥の翼のような物が対で浮いていた。それらは『マグ』と呼ばれる人工知能搭載の生体可変装甲であり、ミリニア達のような政府公認の厄介ごと請負人「ハンターズ」と呼ばれる者たちの間では、一般的に利用されている戦闘補助用の機械だ。
 ミリニアのマグは特に射撃の弾道計算を補正する機能と、精神安定機能を強化しており、このような機能の強化方法は個人によって千差万別である。
 ノイリスの背中にも、同様にマグが浮いていた。ノイリスのものは黄色い竜の落とし子のような、生物じみた形をしている。
「いえいえ、お陰で助かりましたよ」
 感謝の言葉も、ノイリスの声は明らかに軽薄そうな声音であった。
 まったく……、と呆れながらも、ミリニアがブラウンの双眸を空へと向ける。夕刻になりひときわ大きくなった太陽が、こちらをじっと見ているようだ。
「そろそろ日が暮れるね……。ノイリス、まだ探索するの?」
 その言葉にノイリスは、片方の口元だけを吊り上げるという奇妙な笑みを浮かべ、ミリニアに向かって問いに答える。
「そうですねぇ、もう少し続けましょう。だいぶ作戦区域から離れてしまいましたし、まさか夜が怖いって年頃でもないでしょう?」
「できれば周りがはっきり見えてるほうがいいんだけどね……」
「大丈夫ですよぉ。危険なことはしませんから」
「あなたの場合、根拠が無いでしょ」
 言われたノイリスは、ただ軽く笑うと、歩を進めだした。
 ミリニアはその背中を追いかけながら、考えを巡らせていく。
 それは、目の前のノイリスについてだ。
 <道化>のノイリス――ハンターズ内での彼のあだ名である。
 変わった服装や装備を好み、人を食った言葉で常におどけたような態度を取るから付けられたと、本人に聞かされたことがあった。
 数ヶ月前からコンビを組むようになって以来、何度も行動を共にしたが、ミリニアは近頃その道化らしさに変化を感じている。
 彼は本来、後方から『テクニック』と呼ばれる魔法のような科学的事象を起こし、敵をまとめてなぎ払うなどの戦闘スタイルを得意とする『フォース』と呼ばれる職についている。だがハンターズのレベルを表す四つの位階の中で、上から二番目に位置する「マスター熟練者」クラスに達しているノイリスの体力は、従来のフォースとは比べ物にならぬほど向上しており、加えてノイリスは少し前から無手での体術を特に鍛えていた。避ける前衛としてミリニアの前に立つことは、二人のコンビでは珍しいことではない。
(……でも、前はこんなに積極的じゃなかったはずよね)
 歩きながらミリニアは、さらに疑問について思考する。
 ノイリスはもともと、<超慎重屋ヘカトンケアフル>と影で揶揄されるほどに、石橋を叩いて叩いて、結果渡らぬことがあっても良しとする性格であったはずだ。加えて彼は自らに迫る危険を、空気の澱みのようにはっきりと感じるらしく、初めて自分と出会ったときもその卓抜した能力で余計な戦闘を回避し、目的地のセントラルドームまで自分を導いてくれたものだ。
 だが今や彼は、自ら率先してその危険に進んでいくようになっていた。
 死ぬほどの危険に向かっていくわけではない。しかし、先ほどの戦闘のような、なんとかこなせる程度の危機感には立ち向かっていくのだ。それは言い換えれば彼が危険の度合いを詳しく判断できるようになった証であり、事実度重なる戦闘によって彼の戦闘力は飛躍的に向上された。積極的になったおかげで、ハンターズの最高位、到達者たるハイ・マスタークラスに目前へと迫ったパートナーを、未だマスターなって日が浅いミリニアが歓迎こそすれ嫌がる理由は無い。
 だが……
 ミリニアには、ノイリスが急に積極的に己を鍛えだした理由がわからなかった。
(相棒とは言ってても、最近はゆっくり話もしてなかったもんね……)
 自分たちは、気安い仲のはずだった。
 何度も危機を乗り越えてきた彼とならば、何でも話し合えると。
 そう思っていた。
 けれども、いざとなると躊躇している自分がいることに気がつき、ミリニアは自分への落胆を感じる。
 ノイリスの変化は、自分にも関係していることなのだ。
(いつかは言わなきゃいけないことなんだけどね……)
 決定的な言葉を紡ぎだすのは、いつだって困難だ。
 ミリニアが思考の深みにはまりかけた時、ノイリスの足が止まった。
「ミリニアさん、どうかしましたか?」
 意識を視覚に戻してみれば、ノイリスがやや不思議そうな表情でこちらを見ている。いつの間にか立ち止まっていたみたいだ。
「あっ……ごめん。ちょっと――」
 考えごとをしていた。
 そうミリニアは言おうとして、内心苦笑する。此処はどこだ? 凶暴化した原生生物の徘徊する大森林にいながら、考えごとに気をとられるなんて。
 自分はやはり、ハンターズとして失格なのではないか。
「――なんでもないの。先を急ぎましょ」
 無理に明るく笑っておく。ノイリスは訝しげな視線を向けるが、すぐにいつもの薄い笑みに戻っていく。
「死角をお任せしてるんですから、しっかり頼みますよ」
「あなたの場合、死角だなんていっても気配で感じちゃうんじゃないの?」
 ミリニアの皮肉も、空気を取り繕うため。
「そうでもないですよ。漠然と危険なのは解かっても、レーダーみたいに詳しく解かるわけじゃないですから」
「いまいち不便ね」
「私は道具じゃないですからねぇ。便利なばかりではいられませんよ」
 そう言いながら、ノイリスはいつもの皮肉げな笑みを浮かべて、正面に向き直る。
「とにかく、しっかりお願いしますよぉ。相棒さん」
「……そうね」
 ミリニアは砂を噛んだような違和感を覚えた。
 けれど何なのか解からぬままに、飲み込んでおく。
「……おや?」
 突如ノイリスから浮かび上がる疑問符に、ミリニアは立ち止まる。ノイリスは再びミリニアに向き直っていた。
「ミリニアさん、ちょっとレーダーを広域化してみてください」
「どうしたの急に?」
 疑問を上げながらも、ミリニアは言われたとおり素早く手元の端末を操作。瞬時に浮かび上がった周囲の地図には、いつも通り己を示す赤い反応と、あらかじめ登録しておいた、ノイリスを示す黄色い反応。
「少し離れた北の方に、反応がありませんか?」
 言われたままに地図をスライドさせていくと、四つの反応が一箇所に集まっている区画があった。
 画面を覗き込みながらノイリスが確認する。
「私の操作だけでは不安だったので、確認してもらったのですが、どうやら間違っていなかったようですね」
「いい加減機械の操作にも慣れなきゃダメでしょ……でも、これって他のハンターズってことだよね?」
「ここに写っていて、なおかつ四人組となれば、間違いないでしょうね」
 ミリニアたちの使っている広域マップは、パイオニア2がラグオルに到着して依頼、ハンターズたちのラグオル探索の努力によって作り出されたものであり、端末から送られた信号を衛星高度から解析して現在位置を地図上で示すという代物である。周辺にいる同系統の信号も同時に表示する機能は、離れ離れになったパーティや行方不明者探索にも大いに使われるハンターズの切り札の一つである。
  「でしょうね。まあ、会って情報交換とか取り引きするのも悪くないと思いますよ」
「そんなにすんなりいくとは思えないけど……」
 ミリニアが不服そうに顔をしかめる。
 ハンターズ同士であっても、よほどの知り合いや、チームと呼ばれる少人数のギルドでなければ、情報の交換や道具の取引などは行われないのが通常の対応であるからだ。
 相棒の様子にこっそりとため息をつきながら、ミリニアは後に続いた。




 徐々に反応が近づいていく頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
 木々の隙間からでは星の明かりも届かず、その暗さは闇と呼ぶにふさわしい。
 それでも、ミリニアとノイリスの武装から放たれるフォトン光が、ぼんやりと装備者の姿を浮かび上がらせている。こうしていれば当然隠行の効果はなくなるが、二人のように射撃とテクニック中心の戦闘スタイルでは、お互いの位置を確認することは大切なことだ。
 高い木々と深い茂みが、二人の行く先を遮っている。反応だけをみれば向こう側にハンターズが四人いるはずだ。若干だが話し声のようなものも聞こえてくる。
「何かあるといいのですけれどねぇ」
 ノイリスが茂みを静かに掻き分けながら、囁くような声でぼやいた。
「ホント、ここまで来て無駄足だったら怒るわよ?」
「そんなの私に怒らないで下さいよぉ」
「あれー? 行きたいって言ったのは、誰だっけ?」
「はいはい、責任はとりますって」
「ふーん。相手が強盗とか詐欺泥棒でも、責任取れるの?」
 ミリニアは皮肉たっぷりに、ノイリスを試す。
 ハンターズのなかでも、強盗やアイテム交換時に詐欺を働くものが少数だがいるのは事実だ。
「……強盗だと、楽しいんですけどね」
 ノイリスがいっそう小さく呟いた。その声は茂みのざわつきにかき消されて、ミリニアには届かない。
「え? なんて言った?」
「いえ、そんな時は泣いて謝って逃げましょうかねぇ」
「それ、果てしなく無責任っぽい……」
 そう言っているうちに、二人は茂みを抜けようとする。
「あ、やっと抜け――」
 言いかけた瞬間、ミリニアは強い力で茂みに引き戻された。
 一瞬の出来事に叫び声を上げそうになり、何事かと目をやる。
 見ればノイリスが口元に指を当てて沈黙を要求していた。さすがにそこで声を上げるほどミリニアも素人ではない。
 ノイリスはいつに無く真剣な表情で、鋭い視線で茂みの外、話し声のするほうを凝視している。先ほどまでのおどけた調子は一切ない。
 茂みの影からうっすらと見えるのは、四人の男たちであった。
 それぞれ完全武装の状態であるが、臨戦体勢のためかフォトン装備を全展開している。暗闇の中、ほとんどはっきりとその姿が浮かび上がっていた。装備の統一感のなさや立ち振る舞い、背中に浮くマグなどから、一目で彼らがハンターズだとミリニアにも解かる。
 話し声や仕種から、少々柄の悪そうな感じはするが、ここまで自分たちが茂みの音を鳴らしながら近づいても、彼らは気がつかなかったようである。大きな声で会話しながら佇む彼らの物腰からも、さほどレベルは高くないように見えた。
 なのにノイリスは、何をそんなに警戒しているのか。
 もどかしくしていると、手元の通信端末にメールが届く。
 差出人は隣にいるノイリスであった。
 横目でノイリスを眺めながらも、ミリニアは受信欄を開いく。
『危険度特大。転送を』
 簡潔な内容。
 だが即座にミリニアは行動した。
 自分の手首辺りに備わっている端末を起動。衛星軌道上にある転送装置と回線を直結し、自らの座標を認証。転送に必要な量子レベルの身体情報測定と解析をはじめる。
 そのスピードは一般のハンターズが行う接続よりも圧倒的に速い。
 自分なら、直ぐにでも転送用の力場を生成できる。
 そうミリニアが考えた瞬間、おぞましい音が耳をつんざいた。
 金切り声と呼ばれる、甲高い叫び。
 男たちは瞬時に音のしたほうへと身構える。反応はそこそこ早く、まるで声がすることを待ち構えていたかのようだ。
 そのまま、数秒の沈黙が、辺りを支配する。
(……何も起こらない?)
 そう思った瞬間、信じがたい光景がミリニアの前に広がった。
 辺りを支配していた暗闇が軽く揺らめいたかと思うと、猛烈な勢いで、一塊の闇となって男たちに迫っていく。
 発生した闇に最も近かった男の武器が放つ薄紅色のフォトン光の中で、驚愕の表情を浮かべたままの頬を、闇が軽く撫でたように見える。
 次の瞬間には、男の人体から頭部が消失していた。
 盛大な赤の放流が舞い上がり、闇夜に怒号と銃撃音が一気に溢れ出す。
 フォトンの弾は闇にかすりもせず、飛び交う光の中を闇の塊が蠢いていく。闇に抱かれたと思った瞬間、千切れる男の四肢。骨の砕ける音。
 男たちに闇が触れるたび、血飛沫が上がり、一人、一人と絶命していく。
「くそったれぇ!」
 叫び声と共に、軌跡を残してフォトンソードがひるがえった。
 最後の男が、裂ぱくの気合と共に放つ大剣の一撃だ。
 あたると思われた瞬間、闇はそれを飛んで避わし、流れるように男へのしかかった。
 男の口から、搾り出すような悲鳴が聞こえてくる。
「――アさん。ミリニアさん! 転送を!」
 ノイリスの声で、ミリニアは、自分がすでに転送の準備を終えていることに気がつく。いつの間にか惨劇に魅入られていたようだ。
 ミリニアは慌てて転送用の力場を展開した。
 闇の固まりにのしかかられた男が、潰れるような断末魔と、何かが押し壊される音を体から上げ、絶命した。
 無造作に死体を打ち捨てた闇の塊は、すでに気づいていたのかミリニア達に向かって蠢き始める。そのスピードは恐ろしく速い。
(――間に合わない!?)
 ミリニアがそう考えた瞬間、隣りで大きく明かりが揺らめいた。
 思い描くのは赤。巡る焔の舞踏。
「烈!」
 掛け声と同時、ノイリスを中心に火焔の陣が広がっていく。
 テクニックの展開とほぼ同時、ようやく二人の目の前に、森を僅かに照らす赤色の円陣が煌き始める。
 こちらに迫っていた闇は炎に躊躇したのか、動きを止めることに成功していた。
 突如現われた明かりに照らされて、闇の姿が刹那の刻だけ、垣間見える。
 丸まった背。異様に長い腕と五指。筋肉の発達した足。
 そして、漆黒色の肌と……流れるように長い頭髪。
 そう見えたと思うと、闇は即座にテクニックの効果範囲外に飛び退き周囲に溶け込んだ。
「今のうちに逃げますよ!」
 ノイリスは言うなりすぐに円陣に飛び込み、一瞬で姿が掻き消える。転送が行われたのだ。
 ミリニアも即座に続く。
 転送が開始されて意識がブラックアウトする数刻の間。あっという間に数歩の間合いに迫る闇の塊から、光陣に照らされた、狂える鬼のような顔がのぞく。
 ミリニアには、闇の顔がこちらを向いて――泣いているように見えた。
 転送が終了しミリニアの姿が掻き消え、同時に赤い光陣が森から消失する。
 森は再び闇に包まれる。




 周囲は高層ビルの明かりと、各所で明滅する電飾。道路には道を照らす街灯などが整然と並んでいる。夜の闇など、もはやそれらを目立たせる飾りでしかないかのようだ。
 それらを見上げるようにして、ノイリスは一人歩いていた。
 細身の赤い綿パンに、上は薄手の青いジャケットを羽織っている。ジャケットから覗く下はフィットした長袖のボーダーシャツで、色は灰と緑。頭にはやはり赤の三角帽を被っている。
 長距離惑星間移民船「パイオニア2」。ノイリスの居る街並みは、その想像もつかないほど巨大な移民船内部の居住区域に存在している。このしっかりとした道路ですら、分厚い外壁を隔てた外は絶対の真空域だ。
 だがこの街並みは、そんなことは微塵も感じさせないほど完璧に日常を形作っている。
 意図的に、そして意識的に、人々は感じないようにしているのかもしれない。
 自分たちの足元がどういったものであるのか、忘れようとしているのだ。
 それはまるで、この街の夜が駆逐されたように、不安を消し去ろうとしているかの如く。
 闇への畏怖を忘れるかのように。
 照らされた道の中を、ノイリスはただただ感慨もなく、歩いていく。

 ラグオル地表の森で、蠢く謎の闇の襲撃から辛くも逃げ切ったノイリスとミリニアは、ミリニアの主張により事の次第をハンターズギルドに報告することにした。
 二人が帰還したときにはパイオニア2の時刻は早朝であったが、当然ラグオルと時刻が一致しているわけではなく、ハンターズは皆慣れっこである。
 ただいつもと違ったのは、早朝にも関わらずギルドが満員であったことだ。
 なんでも二人がラグオルに行っている間、夜のうちに政府高官が何者かによって襲撃されたらしく、軍や政府は対応に大顕わの様子であった。マスター以上に請負が制限されたクエストですでに事件の犯人捜査依頼が出ており、その受付などでハンターズがごった返しているのだ。
 近頃は治安の悪化を思わせる重大事件が頻発したため、今回の事件はメディアに報道管制が敷かれているようで一般住民は平静であるが、この様子ではやがては住民に知れ渡るのも時間の問題といえた。
 人ごみを掻き分けなんとか報告を終えた二人は、いったん解散して、再び待ち合わせることにしていた。
 場所は行政区画などの中心街に程近い場所で、高官襲撃事件の現場近くである。

 やがてノイリスの歩く先に、待ち合わせ場所が見えてきた。
 少し大きな荷車に飛び出した屋根のついた、この区画ではあまり見かけることのない移動屋台。それは超高ビルに挟まれて、何だか余計に小さく見えた。カウンターには赤髪の女性、ミリニアが一人で座っている。
 ミリニアは薄色のデニムパンツに、茶色のラバーコートを着込んでいた。
 足音を察したのか、ミリニアがノイリスの方に振り向く。
 ノイリスを見とめると、その眉間に小さくしわが寄った。
 ノイリスの予想通りの表情である。
「遅い!」
 開口一番の怒鳴り声だ。
「何十分待たせたと思ってるの!」
 ミリニアの立腹に、ノイリスは用意しておいた言い訳をしておく。
「すいません。調べ物が長くなりまして、遅くなってしまいました」
 言いながらノイリスはミリニアに近づく。
「そんな言い訳は、何も言わないのと一緒ね」
 声には、小さいがはっきりとした怒気を含んでいる。結い上げられた赤い髪がまるで、彼女の背後に立ち昇る炎のようにも見える。
烈火ヴァーミリオン>ミリニア――感情が噴出しやすく、怒りっぽい性格が反映されてのことだろう。ミリニアはマスターとなって、周囲のハンターズから一人前と認められる慣例として、仲間内からそんなあだ名を貰っていた。
 もちろん、ミリニア自身はあだ名を言われた時も怒ったらしいが。
「いやいや、申し訳もないです」
 言いながら、ノイリスは緑と白のストライプが入った筒状の帽子を軽く叩く。
 彼女のあだ名は言いえて妙だ。火に油を注ぐようなことはしたら、永遠と怒鳴られるだけだ。
 ただ、いつもならここで畳み掛けて怒鳴るところであるが、ミリニアはそうしなかった。
「まあいいわ。一応調べ物をしてきてくれたわけだし」
「おや、珍しいですね?」
「代わりにここ、奢りね」
「えぇ!?」
「おやじさん、彼と私に飲み物をちょうだい」
 おう、という声と共に、なぜかのれんに隠れている屋台の奥から、ゴトゴトと物音が聞こえる。
 準備の音だろう。
「ミリニアさん、私ちょっと新しいテクニックを購入したせいで、手持ちが厳しいんですけどねぇ……」
 ノイリスの困り顔に多少の溜飲を下げ、ミリニアは正面へと向き直った。
「お金に困ってるのは私も一緒よ」
「いえ、それはいつものことでしょう?」
 ミリニアは愛用する非フォトン式拳銃の弾丸が高価で、一発で二万メセタもする。平均的なクエスト報酬の2倍だ。それなのに何故か使う機会が多くて、彼女は常に貧窮していた。
「言うわね……そのために稼ぐのよ。それでノイリス、政府高官襲撃事件の話、何か解かった?」
「ええ、多少は調べがつきましたよ」
 ノイリスが待ち合わせに遅れたのは、事件を調べていたからであった。半日かけて調べた事件の概要は、次のようなものである。
 この行政区画の一画にあるビルで、会談をしていた高官たちが何者かわからぬ輩に襲撃を受けた。ワーカークラスのハンターズが護衛についていたが、それらを全員気絶させての犯行であるらしい。幸いにして死者は無し。ただ、ハンターズはほとんど無傷であるのに対し、高官たちは例外なく裂傷を負わせられている。
 ゆえに、マスタークラス以上のハンターズに限りこの依頼が出されているのである。
「一番問題なのは、犯人が窓から侵入したらしいってことなんですよねぇ」
 地上70メートル強――会議が行われていた場所である。
「私も軍部の知り合いに聞いたけど、現場の電子セキュリティは完璧。軍部も犯人は誰か見当もつかないらしいわ……なんでも、秘密の会議だったみたいよ」
 父が軍人であったミリニアは、軍部に知り合いも多いらしい。時折今のように軍部経由の情報を貰ってくることがある。
「犯人は何者なんでしょうねぇ?」
 ノイリスの質問と同時、都合よくのれん奥の音が小さくなる。ノイリスは続けて話し出した。
「秘密の会合を知ることが出来て、地上70メートルの場所に窓から侵入し、護衛を沈黙させて、高官を狙った……想像がつきます?」
「犯人はスパイダーマンか何かかもね」
「なんですそれは?」
「なんでもない。でも、この依頼も、届出が異様に早いしね」
 ミリニアが訝しげに呟く。
「まあ、大方不安になった政府高官の誰かが依頼したんでしょうねぇ。何せワーカークラスが護衛についていたのに、それを全員気絶させて襲撃したって言うんですからねぇ」
「でも、他のマスターの友人に聞いても、未だにめぼしい情報が一切無いみたい……」
「マスタークラスが揃いも揃ってですか……情けない話ですねぇ」
 ノイリスが腕を組む。
「でもチャンスですよ。この仕事を達成したら、報酬は30万メセタですからねぇ」
 すでにノイリスは乗り気だった。異例の高報酬である。装備の新調も、マグの餌も思うがままだ。近頃は殲滅や戦闘主体のクエストばかりで、こういった捜査はひさしぶりだったが、軍部とコネがあるミリニアと組めばそれも可能かもしれない。
「おう、お待たせだ!」
 その時、野太い声と共にのれん奥から太いアンドロイドの腕が伸びてくる。
 手にはお盆と、上に二つのコップが乗っているが、まるで小皿とミニチュアにしか見えないほどに、アンドロイドの腕は太い。
 とりあえず二人がコップを手にとると、再びのれんの奥に腕が引っ込められる。
「……まあ、とりあえず景気づけにね」
「そうですね」
 そういって二人でコップを鳴らし、ノイリスはそのまま口元に近づけた。
 その時、鼻に届く臭いに気づく。
「って……これお酒ですか!?」
 ノイリスが慌てて横を見ると、ミリニアはすでに飲み始めていた。
「そー、焼酎。今日は飲むのよ」
「何でそうなるんですか――っていうか、焼酎!?」
「そういう気分だからいいの! もちろん付き合うわよね?」
「いや、できれば私は遠慮したいのですけど……」
 ノイリスは帰って個人的な調べ物をしたかった。だが、目の前のミリニアは簡単には帰してくれそうも無い。
「私の時間を何十分も無駄にしたんだから、その代償は払うべきよね?」
「えっと……ここの代金だけで勘弁してもらえませんか?」
「だったら、勘定するまで居なさい」
 ミリニアは睨むようにノイリスを見据えている。見ればいつもは白くあるはずの顔が、すでに赤く染まっている。ノイリスが来る前から始めていたのかもしれない。
「それでこのクエスト、本腰入れるの?」
 何故か、試すような口調でミリニアが問いかける。
「それは……いいですよぉ。面白そうですし、少し犯人にも興味がありますし」
「……そう」
 そう言って急に沈黙するミリニアに違和感を覚えるが、ノイリスはちびりと酒を口にする。
 彼は普段滅多に酒を口にしない。理由は簡単で、アルコールは判断力が鈍るからだ。
 口に含めば、舌に僅かな刺激が広がっていく。喉に通せば、胸が次第に熱くなっていく。やがては脳に回る。脳が回る。
 やはり、何度飲んでも慣れない。ノイリスはそう感じていた。
 対してミリニアは、勢いで酒に誘ってしまったことを僅かに後悔していた。
 何から言いだすべきか、迷っているうちにタイミングを失ったので、ひたすら飲んでみたのだが、いい言葉は浮かんでこない。
 酒の力を借りるというのは、ハンターズの友人たちがよく使っていた手だ。だが実際試すのはこれが初めてで、次第に感情のコントロールがなくなってくるのが、なんとなくだが解かる。
 ミリニア自身、元々感情の抑制が効くほうではない。だが感情が爆発しても、心のどこかでは常に冷静な自分が居るものだ。
 けれど、今はその領域まで靄にかかりつつある。
 ミリニアは危険を感じながら、膨れ上がる感情を抑えきれない。
「ミリニアさん、そんなに早く飲んだら危ないですよぉ?」
 ノイリスの声が聞こえた。
 勘定のことを心配しているのだろうか? 人の気も知らないで。
「ノイリスぅ、あのねぇ、聞きたいことがあったのぉ」
「あー……すでに手遅れでしたか」
「手遅れって何!? 嫁入り前の乙女に向かって!」
「いや、そういう意味じゃありませんってば……いったいどうしたんですか今日は」
 いつもそうだ。ノイリスは優しくない。相棒だっていいながら、私の気持ちなんて気にもかけてくれてない。
 そう思うと、ミリニアは何だか泣きたくなった。
「だってぇ……最近のノイリス、へ、変なんだもの……いつも変なんだけどぉ、もっと変、でしょぉ?」
「でしょぉ? って本人に向かって言われても……」
 聞きたかったことが渦巻き始める。
 ミリニアは、すでに思考のコントロールを失っていた。
「どうしたのかなぁって思ってぇ、ずっと聞きたかったんだけどぉ、本当はのいりすもぉ、こんな聞き方困るよねぇ……でも、でも、相棒なのに何にも出来ないってぇ、ダメでしょぉ? 何か悩みがあるならぁ、いつでも聞けるんだよぉ? あたしだってぇ、いつまでも助けられてばかりじゃないんだし……それに、それにね。私も悩んでることがあってね、やっぱりこれ聞いてもらうのはノイリスしかいないのぉ。ずっと困ってたのに、ノイリスはクエストばかりでぇ……ちょっと寂しかったんだからぁ」
 怒涛の勢いで話しているうちに、ちょっぴり涙が、溢れてしまったみたいだ。
 ノイリスのほうを見ると、姿かたちが滲んで見える。
 彼はビックリしてるみたいだった。その顔に少し満足して、涙を拭うと、ミリニアはコップを傾ける。
 ……空だった。
「おやじさぁん! もう一杯!」
 叩きつけるようにコップを置きながら、ミリニアは叫ぶ。
 おう、という声が響き、再び物音が聞こえる。
「いや、ミリニアさん、止めときましょうよ。明日は朝から情報を集めるんですよ? ほら、涙拭いて……っていうか何で屋台で飲んだくれてんですか……」
 そう言いながらすぐ、自分の気持ちをはぐらかす。そう思うと、ミリニアは一気に腹が立った。
「いいから、あんたは質問に答えなしゃい!」
 そのまま勢いで掴みかかる。
 ミリニアの為すがままにがくがく揺らされながら、ノイリスがぼやいた。
「……怒り上戸で泣き上戸って、どんな性格なんでしょうねぇ」
 答えるものは当然居なかった。




 散々暴れ散らしたあげく、ミリニアは寝てしまった。
 夜もすっかり更けて、辺りの電灯もあらかた消えて、どこからかは治安部のものだろうか、サイレンなども聞こえてくる。
 ノイリスはため息を一つつくと、こっちに寄りかかっていたミリニアの腕を引き剥がして、屋台のカウンターにもたれさせた。すでにほどけてしまった赤い髪が、覆い被さるようにミリニアを包む。
「まったく……どうしたものですかねぇ」
 ノイリスは困った顔を作り、一人思案する。酔っ払いのたわ言であったが、ミリニアは思いのほか自分を心配してくれていたようだ。
 思えば、ミリニアとこんなふうに話をするのは初めてだったかもしれない。
 ミリニアの言うように、自分が前と変わっていることは、ノイリスも気がついている。ミリニアには、自分が坑道で巻き込まれた事の詳細を話してはいない。さらにそれ以来、ミリニアの父親探しにもあまり協力できなかったのは事実だ。
 だがどうしても話す気にはならない。
(ミリニアさんが聞いたら、きっと怒るでしょうけどねぇ)
 そう思いノイリスは苦笑を一つ。
 さらにミリニアは彼女自身のことも言っていたが、これはすでにろれつが回っておらず、まったく聞き取れなかった。
 机に突っ伏してすやすや眠っているミリニアを見て、ノイリスは再びため息をつく。
「送って帰るのも一苦労ですねぇこれは……」
「何! それはいかんな!?」
 突然のれんの奥から、今まで沈黙していたアンドロイド店主の怒鳴り声が聞こえる。
「おう、おう、大丈夫だ! 任せておけ!」
 だが、それはノイリスに向けて発せられたものではなかった。
 再び奥から太い腕が現われ、のれんを掻き分ける。奥にいたのはノイリスの幅三倍はあろうかという、無骨なフォルムの茶色いアンドロイドであった。
「客人! すまんが店仕舞いだ」
 見れば店主の体からはたくさんのコードが延び、奥の機器と繋がっている。機械に疎いノイリスには一見してなんの装置か解からなかったが、料理に使いそうなものではないことは一目で知れた。
「おう? そっちの客人はよっぱらいか! いかんな!」
「ちょっと待ってくださいね。いま起こしますから」
 そう言うと、ノイリスはミリニアの頬を軽く叩き始める。だがミリニアは、反応すら示さない。完全な酩酊状態だ。もう食べられない、などとベタなことを言っている。
「困りましたねぇ……」
「客人! 事情は知らんが、無理はいかん。少し休んでいくといい!」
 そう言ってガハハと豪快に笑い、店主はまた店の奥に引っ込んだ。
 言われるままノイリスは再び席につき、先ほどからほとんど減っていない自分の酒に手を伸ばす。
 ミリニアに自分の変化の理由も目的も、話す気は無い。結局最後は、自分一人で決着をつけなければならないから、ミリニアを巻き込むわけには行かない。そう考える自分がいる。
「ノイリスの、アホたれぇ……」
 心臓が僅かに跳ね上がる。
 目をやれば、ミリニアは再び目端から涙を流していた。先ほどのは寝言らしい。
「馬鹿なのは、解かっていますとも……」
 ノイリスは小さく、口を歪ませながら呟いた。
「こんばんは」
 突如として、女性の声が聞こえる。
 ミリニアがいるのとは、反対の方角から挨拶が届いた。
 どこか蟲誘的な韻を残す声質。
 ノイリスが驚き振り向くと、そこには一人の女ニューマンが立っていた。
 物思いにふけっている間に現われたのだろうか。だが先ほどまでは、確かに誰も居なかったはずだ。
 女性は天から落ちてきたとでもいうのだろうか。
 だが、それも不思議ではないと思えるほどに、女性は神秘的とも言える美しさを備えていた。
 夜の闇に栄える銀色の髪は、腰のほどまで長く伸び、その白い肌は、夜の暗闇に溶け消えそうなほどに薄い。だが、美しく整った顔立ちと、赤く印象的な唇、それらを彩る双眸はまるで高級なロードライト・ガーネットがごとき輝きを示し、はっきりとした存在感をもっている。
 女性は動きやすそうな服装に身を包み、それがことさら着込む者の素材のよさを目立たせる。
「隣り、いいかしら?」
 誰もがうらやむ美貌の持ち主だろう。だが、その表情は陰っていて、多少の疲労と、なぜか悲しみを感じさせる目をしていた。
「いいですけど……もう店じまいらしいですよ?」
 女性は小さく微笑むと、言葉を返す。
「いいのよ、店主とは馴染みだから。お隣りの方は……もう寝てるみたいね」
 ノイリスで陰になってよく見えないのだろう。突っ伏すミリニアはその赤く長い髪の毛が覆い被さって、もはや誰だか解からない。目の前の女性と比べるのは……やはり失礼にあたるだろうか?
「ええ、つれて帰らなきゃならないので、困っています」
 ノイリスは皮肉げな笑みを作り、女性に答える。
 すると声に気がついたのか、のれんの奥から店主が現われた。店主は女性に顔を向けると、相変わらずの調子で話し掛けた。
「おう、来たか! こっちはもう終ったぞ!」
「そう…ありがとう」
「安心しろ! 何とかなる!」
「私…これでよかったのかしら…」
「おう? 元気がないな!? 何か食っていけ! 精が出るぞ!」
 言いながら、手際よく他の食器を片づけ始めていた。見れば先ほどのコード類はもう付いていない。やはり調理器具だったのだろうか。
「……ごめんなさい。そんな気分には、なれないみたい」
 未だ進める店主に笑顔を返すと、女性は立ち上がった。
「また来るわ。兄さんも連れて、一緒に…」
「おう、やはりそれがいいな!」
「本当に大変なのはここから。もう振り返れないものね…。だから、兄さんのことはお願い」
「おう! それは任せておけ!」
「あなたも、お邪魔してゴメンなさいね。でも、あんまりひどいことしちゃダメよ、色男さん」
 女性は沈黙していたノイリスに向けて、茶化してきた。
「しませんよぉ。私、紳士ですからねぇ」
 ノイリスがおどけて返すと、女性は微笑みのまま否定も肯定もせず、軽く会釈してその場を去り始める。慣れた雰囲気であった。
 ノイリスはとりあえずきっかり二秒ほど見惚れてから、再びミリニアを起こしにかかることにした。
「ミリニアさん! 起きて下さい! 置いて帰っちゃいますよー?」
 やはり反応は無い。本気で担いで帰ろうか思案し始めたノイリスは、ふと気がついた。
 帰ったはずの女性が立ち止まって、こちらを見ているのだ。先ほどよりもその表情は険しい。
「ミリニア……ウィーバー……?」
 女性の小さな呟きは、ノイリスに届くか届かないかというほどであったが、何とか聞き取る。
 ウィーバーは、確かミリニアの姓。
「……あのー、ミリニアさんのお知り合いなんですか?」
 ノイリスが問いかけると、女性はその美しい顔を逡巡に染める。
 一拍の沈黙の後、ゆっくりと女性が口を開く。
「それは、これからね」
「……どういうことです?」
 問うノイリスには答えず、女性は踵を返す。
「また会えるといいわね。あなたも、色男さん」
 そう言って、銀髪は流れるように夜の闇に消えていった。
「……いや、だから色男じゃなくて紳士なんですけどねぇ」
「客人、無理はするなよ!」
 再び豪快に笑うと、店主は店じまいを本格的に始める。
 残されたノイリスは、自分が紳士か紳士ではないかをたっぷり三十秒ほど考えた後、とりあえずミリニアを担ぐことにした。
 飲み代の勘定が、ギリギリだったからだ。

 ――その夜、別の政府高官が再び襲われていたことを、朝になってノイリスは知ることとなる。


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