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昨日・一昨日の鬼のようなスピード比べ、かなり緩やかに火村はワープロを叩いていた。浅いキーが沈みこんでたてる音はもうまばらで、この数日を費やした論文が完成に近づいていることを示している。実際、参考資料の名とそこから抜粋してきた引用文の確認と文法のチェックも既に終わっていた。残りは簡単な誤字脱字チェック程度だけだった。 火村は左手に重ね持っていた数枚の紙をテーブルに置き、随分短くなったくわえ煙草をその手で口からはずした。右手では相変わらず上下キーを押さえている。下降していくワープロ画面から一度目を離し、灰皿の隅で煙草をもみ消した。シルバーの安っぽい灰皿には、山と積まれたキャメルの残骸。いくら愛煙家を自称しているとはいえ、今日は吸い過ぎのようだ。 溜め息をついて両腕を上げ、大きく伸びをする。ちらりと視界の端に引っかかったのは有栖川有栖の顔。 有栖川がこの北白川の下宿に遊びに来て早3日。すぐ終わらせるからという当てもない言葉を信じ、彼は大人しく座っている。昨日の午後はどこかの書店にでも出かけたようで、2冊の新書を買って来ていたが、それ以外は黙って斜め後ろで本を読んでいた。健気だ。実に健気な恋人だ。 凝り固まっている肩を軽く回し、もう少しもう少しだけ待ってくれと火村は内心、呟く。さあ、と気合いを入れ直した時、タイミングを見計らったように有栖川が呼んだ。 「ひーむら」 「ひ」と「む」の間に甘えを隠している。何となく嫌な予感がしたが、これまでの不義理もあり、答えないわけにはいかない。論文を書いたりレポートを添削する時にだけかけている眼鏡を外し、振り返る。レンズ越しではない有栖川の顔が、すぐ正面。 有栖川は手に何か持っていた。半透明の入れ物だ。薬品やビタミン剤でも入っていそうな、高さ15センチメートル程の広口ビンである。ラベルが張ってあるのだが、細かくて文字が判別できない。外したばかりの眼鏡を再び耳にかけた。 「P、H、I、L、T、R、E……Philtre」 スペルを追って思わず息を飲んだ。 「媚薬、か」 うめくような声がもれる。 「ご名答」 有栖川は目を細め、ビンをしゃかしゃかと楽しげに振った。 同じ英語でも、Philterという米名の方がやや一般的な、いわゆる惚れ薬だ。Love Potionともいうが、Love Drugが効果としては近い。 ここ数日の疲れがどっと来た。構ってやれなかったのは確かに火村の落ち度だ。しかし何もそんなものを持ち出さなくても。いや、そもそも有栖川はどこでそれを仕入れてきたのだろう。 苦悩する火村の目の前で、有栖川は思わせぶりにくるくるとビンの蓋を回し、中から白い錠剤を取り出した。そして飴玉を放り投げるように、ためらいもなくそのまま口に含む。 「おい、アリ…」 火村の咎める言葉をさえぎって、プラスティックのビンが畳に叩きつけられる。有栖川は立ち上がり、距離を縮めてきた。 「あ、ありす?」 無言で眼鏡を持っていかれた。反射的に閉じた目を開いた時には、唇が重なっていた。キス、いやこれは口移し。薬を舌で押し込められる。けれど伝わる熱が心地良すぎて押し返せない。 重力とは違う重みが肩にかかり、横たわる頃にはもう薬を口から出すことはできなくなっていた。やっと解放された唇をぬぐい、火村はのしかかった有栖川を見上げる。 「どういうつもりだ」 またがったまま、有栖川が笑う。 「さあ?」 テーブルに手を伸ばして眼鏡を置き、有栖川は悠然と自分のシャツのボタンを外し始めた。 「せっかくやからふたりで狂わんとな」 「お前、飲んだのか」 続いて火村のボタンも外しにかかる有栖川を、火村は止めることも出来ずにいる。 「いや、飲んでへん」 あらわになった鎖骨に唇が落とされた。同時に、シャツからのぞいた肌と肌が触れる。 「オレはもうとっくに、火村に狂わされとるんやから」 口移しではなく重ねられた唇が、熱い。 |