<張繍伝・第一章>

 

<建安元(196)年・九月>

 所は宛城内の、奥まった一室。
 新たな決意と野望を持ってこの乱世に漕ぎ出す事を決めたわしは、そこで今後の方策について、賈[言羽]とあらためて相談を重ねていたのである。

「さて、大風呂敷を広げたは良いが、まずは生き残る算段をせねばな」
「御意…」
 わしは地図を広げ、あらためて我が国の四方を見渡してみる。
 北に曹操軍十万余、東に袁術軍五万余、南に劉表軍六万余、西に李[イ寉]軍六万弱。  いずれも特に親密な相手では無い上、翻って我が軍を顧みれば僅かに二万四千…
「…今更だが厳しいな。 賈[言羽]よ、何か策はあるか?」
「はい… やはり当面はいずれかの勢力と同盟を結んで時を稼ぎ、その間に我が軍の充実を図るしか手は無いと考えます」
「ふむ… ではやはり反曹同盟でも組むしかないかな」

 だがそんなわしの呟きに対し、賈[言羽]は穏やかに異を唱えた。
「いえ。ここはむしろ曹操殿と手を結び、李[イ寉]殿を叩くのが上策かと」

「しかし、それは…」
 最も関係が悪い曹操と手を組み、比較的友好的な李[イ寉]を討つ。 そんな賈[言羽]の提案にわしは思わず反射的に口を挟んだ。 が、すぐに思い直し続きを促す。 奴が空論を口に出す者では無いという事は、今更確認するまでも無い事だったからである。
「今仮に反曹同盟を成した所で、頼りにするには非力な上、逆に我が国の勢力を伸ばす余地がなくなるだけになりかねません。ここは曹操殿の威を利用し、当面の安全確保と勢力拡大を両立させるに如くはないと愚考致します。
確かに我々と曹操殿はお世辞にも親密とは申せませんが、決してまだ不倶戴天という程の間柄でもございませぬし」
「ふむ…」


 意外な、だが確かに一理あるそんな賈[言羽]の策に、わしは暫し思案に暮れた。
 そして迷うわしに、更に奴は言葉を継いだ。

「確かに殿が悩まれるように、一筋縄では行かぬ事でありましょう。 ですが、やりようも充分に御座います。
例えば一策としては、曹操殿に殿の御心が自己の富貴と安泰にある、と思って頂くという手があります。  曹操殿とて四方に袁一門等の強敵を抱える身、数万の勢力を場合によっては取り込めるかもしれぬ、という誘惑には心動かされる事でしょう。
また曹操殿が天子様を擁している事を考慮すれば、『逆賊李[イ寉]を討つ為』という大義を掲げる事にも、一定の効果が期待出来るかと。
…何にせよ今手を打つのなら、同盟にまでもって行ける可能性は十分にあると考えます」


 とうとうと、まるで我が思いを見透かしたかの様に策を語る賈[言羽]に、わしは暫し圧倒され… やがてすっと、意外なほど静かに腹は決まり…
「…ふむ、判った。 この件に関してはお前に任せてみよう。 思う通りやってみよ」
「承知致しました。 では私めが年明けを目処に交渉に臨みますので、それまで是非とも曹操殿に殿の『御本心』が伝わる様、御配慮を願います。 なお、とりあえず城内で密偵の疑いが強い者と致しましては…」

 こうして気を取り直して言葉を発したわしは… 賈[言羽]の報告を聞きながら、此奴を手放してくれた段将軍にあらためて心から感謝していた。


 なおこの月、わしは胡車児に命じて無主の地であった新野への進駐を果たした。 どうせ一都市でも二都市でも、守備に不安がある事に変わりは無いのだから、ならば少しでも収入を得られる方が良かろう、という腹である。



<建安元年・十二月>

 君主として過ごした最初の一年が終わろうとしている。 かつて董相国や叔父上に仕えていた時にはあれほど憧れた地位であったのだが、いざなってみれば、まったく労苦ばかり多い気がするものだ。

 なお先日来我が軍は人材の招聘を第一義に進めてきていたが、その成果は着々と挙がりつつあった。
 袁紹軍との戦いで名を馳せた豪傑・趙雲。
 同軍で知略縦横の士として名高かった軍師・田豊。
 更に新野の処士・趙範という三名が、新たに我が幕下に加わったのである。
 それらの招聘や処遇の為に国庫は大分寂しくなりつつあるのだが、実に幸先が良い一年目と言えるだろう。
 
 そしてわしはその最功労者たる賈[言羽]を労うべく、ささやかな内輪の宴を張っていた。


「まずは、全て順調に進んでおるわ。 賈[言羽]よ、全ては其方のおかげよ」
 穏やかに微笑む賈[言羽]の杯に、わしはそっと酒を注ぐ。
「年明け早々にも曹操殿との交渉に当らねばなりませぬ。…お褒めの言葉をかけるのは、それが成功した後の方が良いかも知れませぬぞ」
 そして、そう冗談めかして杯を受ける賈[言羽]の姿は… わしにとって何より頼もしいものであった。

「…賈[言羽]よ」
「はっ?」
「其方も、其方が連れてきた者共も、わしには過ぎた人傑達よ。 わしは大した才のある者では無いが、其方等の主君たるに恥じぬ様に努力して行きたい。
…これからも、よろしく頼むぞ」
「殿…」
 酒のせいか不意に、自然に飛び出したそんなわしの言葉に、賈[言羽]はやや表情を正すと、わしの目を見つめて言葉を紡ぐ。

「殿がその様な御心をお持ちの限り、必ずや天下の器になると、私めは信じております。 …明年の張繍軍に更なる躍進がもたらされん事を祈念し乾杯!」
「うむ… 乾杯!」
 杯を掲げて微笑む賈[言羽]に、わしもゆっくりと杯をかざして応える。
 来年も必ずうまく行くに違いない、そう信じて。

 

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