<張繍伝 第十章>

 

<建安十(205)年>

「張繍ー劉表間の不戦同盟、遂に失効」
「劉表、降伏勧告を黙殺。徹底抗戦の構え」
「張繍本隊、廬江にて大規模な練兵を実施」
 …年明け早々からそんなきな臭い空気が漂う中で幕を開けた、建安十年という年。それは張繍にとり、紛れも無く一つの転機の年であった。
 無論そのうちの一つは、戦についてである。
 

 片や既に全土の過半を征した上、更に五十万の精兵を駆って天下の一統を狙う覇者・張繍。
 片や荊州に確固たる独立国家を築き挙げ、三十万の大兵を擁し独自の道を歩み続ける群雄・劉表。
 両雄の激突が最早必死となった状勢下、諸人はこれより両軍の長きに渡る死闘が繰広げられるであろう事を疑わなかった。
 だが…

 二月、江夏陥落。
 三月、ハヨウ陥落。
 五月、予章無血開城。
 六月に廬陵、七月に江陵、九月に長沙、十月に零陵…

 …そう。これまでの長いまどろみにも似た偽りの平和の中で、黄忠・魏延といった本来は軍の中核を担うべき勇将を、ショウエンの様な将来の国を支えるべき若き才人を、カイエツの様に実際に国を支えてきた逸材を、一人、また一人と削がれ続けてきた劉表軍の内実は、その盤石気な外面とは裏腹に既に朽ちた老木の如きものでしか無く… いざ蓋を開けてみれば、到底千軍万馬の張繍軍に対し、全く敵する術が無いという有様だったのである。

「もう、疲れました。好きにして下され…」
 敗走に次ぐ敗走を重ね、精根尽き果てた劉表が膝を屈したのは同年十一月。
 張繍の前にがっくりと頭を垂れた老人には、最早開戦前に傲然と自国の備えを誇った大人の面影は微塵も無く… かくして乱世の中で長きに渡り別天地を築き上げていた雄国は、開戦から十ヶ月という、あまりといえばあまりにもあっけない早さで消滅したのであった。


 そして、張繍にとってのもう一つの転機。それは唐突に、だが来るべくしてやって来たのである…



<建安十年・十二月 〜前編〜>

 所は長沙城内の奥まった一室。
 厳重に人払いを行なった中、張繍と賈[言羽]はただ静かに向き合っていた。
 二人の密議、その事自体は無論、別段珍しい事でも無い。 だが、両者の間に流れる緊迫した空気は、明らかに常のものでは無かった…

 まず淡々と、これまでの自らの「暴走」の経緯を語った賈[言羽]は、一通り説明を終えると、なおもどこか呆けた様な張繍に対し、静かに二通の書簡を差し出した。
 それは賈[言羽]の指し手… 張繍が今後取り得るであろう、二つの道を象徴的に指し示す物であった。


「まず左側… こちらは、殿に帝位に就かれん事を乞い願うと言う主旨の勧進文で御座います。とりあえず我が軍の主立った文武官のうち話を通した者、四十名余りの連署を得ております。 
…私としては来年初頭にもこれを殿に差し出し、長い長い『劇』を始めたいと考えております」

「そして右側… こちらは、今回の一件に関する顛末書になっております。 私が功に奢った末、如何にして殿を蔑ろにして不逞な計画を進めていたか、またこれまでも数知れぬ程の僭上の沙汰があったか等を事細かに記してありますので、事態を収拾する際にはきっと御役に立つかと。
ぶしつけではありますが、今日は殿にこのどちらかを選んで頂きたく…」


 …まるで日常の政務を報告する様に落ち着き払い、そう「決断」を求めて来る賈[言羽]。 それに対しわしは、あまりに急な展開にただ困惑するばかりであった。
 …いや、本当は急などでは無い事は解っている。 この問題に惑い、決断を逡巡し、今までずっと先送りにし続けてきたのは他でもない、わしだったのだから。
 そして、そんなわしの気持ちを察しているかの様に、奴は言を継いでいく。



<建安十年・十二月 〜中編〜>

「…私の今回の行為が臣下の分を逸脱したものである事、また余りに強引である事は重々承知しております。 ただ、殿の御気持ちを董卓様の『呪縛』から解き放つには、これくらいの衝撃が必要ではないかと愚考し、実行させて頂きました」
 
 そう語る奴の眼… それはわしが今までも何度と無く見てきた、奴が考え抜いた末に見せる迷いの無い眼。 わしは何となくそれを直視出来ぬまま顔をそらすと、阿呆の様にただ押し黙る事しか出来なかった。
 そしてそんなわしを諭すかの様に、賈[言羽]は更に言葉を継いだ。

「殿、何もそう難しく考える必要は御座いません。確かに私めは、太平の世を築く為には名実を正し盤石なる態勢を整えるべきであり、それには殿に帝位に就いて頂くのが最善であると考えております。 ですが他の方法、例えば現状を『既成事実』として推し進めていく方法では、そう出来ぬと思っている訳でも御座いません。
そう、殿に例え劉氏の逆臣となろうとも、天の忠臣になって頂きたいと考えるのは、紛れも無い私の我侭なのです…」

 滾々と、そんな思いの丈を述べ続ける賈[言羽]。
 そしてなおも押し黙るわしに奴はにこりと微笑み… その笑顔のまま、ただ言葉を紡ぎ続けていった。

「正直この一件に関しましては、私個人の願い、即ち私情が色濃いと言わざるを得ぬでしょう。 …ですから殿、此度は私の意見を気に病まれる事、ましてや配慮なさる必要は御座いませぬ。
何と申しましても、事は間違い無く殿の今生は元より、青史に刻まれる御名にも関わる大事で御座います。どうぞ御心のままに、悔いの無き御決断をなさって下さいます様に。
それが私の… 願いです」

 …賈[言羽]はそう述べると、言うべき事は言い終えたとばかりに静かに、その眼を閉じた。
 それに対しわしは、様々な感情で乱れきった心を静めんと深呼吸を繰り返しつつ、必死で考えを巡らしていた。
 どの様な結論を出そうとも、奴の覚悟に対して生半可な答だけは許されぬ。その感情だけが、その時のわしの支えだったかも知れぬ。



<建安十年・十二月 〜後編〜>

 目を閉じ、わしはただ考える。
 …まず頭に浮かぶのは、やはり董相国の無惨な最期と、袁術めの哀れな末路。
 更には、わしに懇々と大義と忠義を説く荀ケ等重臣達の姿が、どこか儚げな陛下の姿が、時には不快な態度を見せる廷臣達の顔が… 様々な思いが次々と浮かび、我が心を掻き乱しては消えていく。  そう、それはやはりいつもの堂々巡り…
 
 …いや、違う。そう、違うのだ! 今考えるべき事は、大事な事はそんな事では無い!
 わしは不意にそんな事に気付くと、何を考えるでもなくごく自然に、奴の手を取っていた。


「賈[言羽]… 大儀であった。 よくぞ此処まで、秘密裏に我が『密命』を果たし続けてくれたな! この張繍、心より礼を申すぞ! 
其方には苦労を掛けてばかりだが、これ程の大事は到底余人に任せ置く事は出来ぬ。引き続き、宜しく頼むぞ…」

 そう、全く馬鹿馬鹿しい程簡単な事であった。地位・名声・大義… ましてや後世の批評家共の言に何程の価値があろう!  わしのこれまで得たもの全ての源泉たる奴と引き換えにどんな物を得たとて、到底引合う筈があろうか!
 あの日、宛城で… 賈[言羽]はわしに夢を託し、わしは奴に全てを賭けたのだ。 そんな大事な事を、身に合わぬ服を着慣れてしまったせいか、わしはとんと忘れていた様だ。 全く、一体何を悩む事があったろう。

 それに、わしと董相国には決定的な違いがあるのだ、一体、何を恐れる事があったろう!
「殿…」と、そう一声呟いたきり俯いてしまった賈[言羽]の手を取ったまま、わしは堪らなく笑い出したい気分に包まれていた。


 そう、董相国には賈[言羽]は居なかった。しかし、わしには奴が居るのだ! 一体、何を恐れる事があろうか!   

 

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