<建安十一(206)年 〜1〜>
袁紹と張繍の死闘を最後に、戦火が絶えてはや五年余。周囲より一足先に戦乱から脱し、次第に往時の繁栄を取り戻しつつある帝都・洛陽は、年明け早々久方ぶりに騒然とした空気に包まれていた。
その理由は、他でもない。
「張繍軍の諸将、陣中にて帝位を勧進」
「張繍、『その任にあらず』とこれを固辞」
そんなまことしやかで不穏な『噂』が、不自然な程の速度で遠く長沙より齎されたが為である。
張繍一党の僭越の沙汰に憤りを隠し得ぬ者、時勢を察し、いち早く『功』を立てんと動き出す者、寄り集まって善後策を協議する者… その遂に来るべくして来た感のある『噂』に対し、洛陽の人士の反応は実に様々であった。
だが何にせよ確かな事は… それが天下の全ての人々に対し、時代が『戦乱の季節』から『政治の季節』に移り変わろうとしている事を知らしめるのに充分過ぎた、という事実。
そう。昨年とはうって変わり、間近に迫りつつある最後の大戦さえ、最早世間の関心の『主役』とはなり得無かったのである。
…そして、張繍当人も漢朝も、この『噂』に対し全く公式な反応を示さぬまま、『表』での最後の戦いはその幕を開けようとしていた。
<建安十一年 〜2〜>
四月。準備万端を整えた張繍は、自ら率いる十七万余の精鋭をもって劉璋領・武陵へと侵攻を開始。
一方、これを敢然と迎え撃つ劉璋軍は、君主劉璋・軍師張松以下、張任・呉蘭・雷同・鄒靖・馬岱・曹仁といった、現状で揃え得る限りの最精鋭十四万余…
それは張繍軍を侮り、自領深くに引きずり込んだ上で決戦を挑もうと皮算用した挙句、結局はずるずると一方的に叩き潰されるだけの結果に終わった劉表軍を鑑としたか、緒戦に自国の命運を賭けて挑まんという、劉璋の並々ならぬ覚悟の程を奈何なく示す布陣であった。
…だが結論から言えば、暗愚の君という世評に見合わぬ決断力を示した劉璋に齎された現実、それは一方的に押し捲られた果ての全軍覆滅という、まさに最悪の結果でしかなかった。
そう。総兵力で圧倒し、局地的戦力で優越し、将帥の力量・経験・名声で、兵卒の練度と士気で自軍を遥かに凌駕する張繍軍に対しては、最早自軍主力の投入ですら、五日での敗北を十日に伸ばす程度の効果しか挙げ得なかったのである。
そして、そんな悪夢の様な結果に呻く劉璋にとって不幸な事に、それは張繍軍のかつて無い大攻勢という真の悪夢の、ほんの始まりに過ぎなかったのである…
<建安十一年 〜3〜>
「さて… ようやく出番が来ましたな。 敵も大軍、せいぜい足元を掬われぬよう、行くとしますか!」
「応!」
「承知! 腕が鳴りますな」
六月。張繍本隊が武陵・永安を相次いで抜き劉璋本隊を本拠・成都から分断したのに呼応し、洛陽より陳宮・高順・紀霊等を主軸とする九万余が南下、一気に荊州北方の掃討戦を開始した。
この動きに対し、最早退路を失った劉璋も必死に軍の建て直しと再結集を図り、新野においては局地的に、陳宮軍をも上回る十万余の結集にさえ成功したのだが… それもこれまでの予備兵力としての鬱憤を晴らすかの如き同軍の猛攻の前に脆くも撃砕されると、ついぞ二度と、同数どころかその半数の軍さえ揃える事は出来無かったのである。
かくして新野が陥ちたのを皮切りに、七月に上庸が、八月には要衝襄陽と劉璋自身の首が、あっけなく地に落ちた。
更には暫しの休息を終えた張繍本隊が西進して江州を、漢中にて機を窺っていた沮授軍八万余が南下して梓潼を抜き… 九月にははや、一瞬の内に丸裸にされた成都があっさりと陥落を余儀なくされた。
開戦より半年。こうして強大だった筈の劉璋軍も、断末魔と共に異様なまでの速度で解体されつつあったのである…
<建安十一年・十月>
「一万九百六十六名、か。四月には三十一万以上を数えた我が軍が、な…」
「…より正確に申し上げれば、昨日の段階では一万九百四十五名に減少しております。
現在、我が軍の士気の低下ぶりには想像を絶するものがあり、今後もかなりの確度で、日に数十名単位の脱走者が出る事態は避けられぬかと…」
所は劉璋軍仮本拠・雲南。そこでは亡き劉璋に成り代わって君主役を務める孫乾に対し、側近の郭攸之が淡々と、その日の情勢報告を行っていた。
無意味に広大な、限り無く蛮地に近い領土と、民兵にすら劣る練度と士気しか持たぬ軍勢一万余。
高定・蘇飛等これまでの戦いに参加していなかった二戦級の武官と、許靖・黄権・李恢等からくも難を逃れた文官達。
辛うじて陥落前の成都から持ち出したものの、いまやその潤沢さも空しい糧秣と軍資金。
それ等が、今や紛れも無く劉璋軍の全てだったのである。
「…で、現在こちらに向かって来るのが張繍本隊十六万か! 全く、事ここに至れば、少しは油断してくれても良いものを…」
「…あ、そういえば一つだけ吉報に近いものが御座いましたよ。成都より長躯出撃した為か、敵の進軍に多少の足並みの乱れがある様でして… まず最初に到着する敵勢は、ほんの三万余に留まる模様です」
「そうか。一時的とはいえ、十六倍の兵力差が三倍にまで縮まるのか! 全く…実に心強いな!」
私は耐え切れない何かを感じ、とうとう笑い出さずにはいられなかった。
歴戦の将兵を、徴兵したての上に数でさえ劣る雑軍で迎え撃つという現状。 三倍だろうが十六倍だろうが、どちらにせよそれは絶望的な事態に過ぎぬというのに、それでも何故か少しだけ気が楽になってしまう自分の文官気質が馬鹿馬鹿しく、消息不明の劉循様の代理とはいえ、遠く徐州から流れてきた自分が一国の采配を振るっている事も馬鹿馬鹿しく、そんな状況にも関わらず、何故か妙な拘りで降伏を潔しとしない自分の生真面目さが馬鹿馬鹿しく… なにより。
(劉備様、御覧になられていますか? どうも天下を狙う野心家の前に最後に立ちはだかるのは、何とこの孫乾らしいですぞ?)
…もう、止まりはしない。こうして私は、ただただ阿呆の様に笑い続けていたのである。
(同刻・張繍軍本営)
「ふむ、どうやら問題なく蜀の険路を踏破したのは我等だけの様だな、夏侯淵?」
「はっ。後続の到着には、どうやらまだ十日程かかる模様ですな。 …待ちますか、殿?」
今回わしが動員したのは、いつもの精鋭たる十将・十六万余。だが今此処に居る我が軍は、わしと夏侯淵の率いる三万四千余。 本来有るべき数に比べれば、ほんの五分の一程に過ぎぬ。
だが… より劣勢である敵に対し、十日も待ち惚けをせねばならぬ理由があろう筈も無い。わしは夏侯淵の問いに、ゆっくりと頭を振った。
「まさかな。こんな蛮地で無為に時を過ごすのは、いささか物好き過ぎようて。 …行けるな?」
「申すまでも無き事。なに、遅れた者が悪いのです。最後の戦いは、我等のみでけりをつけてしまいましょうぞ!」
そしてわしの問いに対し、夏侯淵はとびきり人の悪い笑みを持って応えた。
最後。そう、これが最後である。 この戦いが終われば、少なくとも表立ってわしに従わぬ者はこの国から一掃される。 長い乱世は、遂にこのわしの手によって終止符を打たれる事となるのだ。
十数年前には、夢想だにしなかった。数年前ですら、どこか現実的なものとは思えなかった事だが… それは、紛れも無い現実なのだ。
「(ふふ。わしが天下の覇者になるなど、董相国や叔父上が御覧になれば、さぞや目を丸くするであろうが、な)」
わしはこっそりと苦笑を漏らすと、感傷を振り払う様に全軍に号令を下した。
「よし… 皆、もう一踏ん張りぞ! この戦いで『乱世』そのものに引導を渡してやるのだ! 全軍、突撃〜!」
道なき道を踏破しつつ薄紙の様な敵の防衛線を粉砕し、その本城に辿り着くまでに要したのは十日。
敵軍が壊滅し、孫乾以下の敵将が頭を垂れたのはその翌日。
…己の旗を掲げて乱世に飛び込み、ひたすらに駆け続けて十年。かくしてわしは、此処に天下を統一したのである。
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