<張繍伝 最終章>

 

<最終章 〜建安十四年十二月〜>

 張繍の雲南平定から三年余。世はゆっくりと、だが確実に新しい時代へと向かいつつあった。
 

  建安十二年一月。張繍、逆徒討平の功により爵位を進められ周公に封ぜらる。
  同年二月。張繍、周公府を開き、『名』の上でも全土の統治権掌握を開始。
  同十三年九月。張繍、天下静謐の功を賞せられ、爵位を周王へと進めらる。
  またこの頃に前後し、各地で盛んに鳳凰・甘露等の瑞兆の出現が報告され始める。


 …無論、全ての人々が唯々諾々とそんな『現実』を受け入れた筈も無く、『忠臣』達が小は諫言・致仕から大は挙兵に至るまで、様々な手段をもって抵抗を図った事もまた、紛れの無い事実である。
 だが、圧倒的な武力のみならず、漢王朝が失って久しかった「太平」と「善政」という二つの『武器』をもって万民の支持を固めていく張繍一党に対し、『忠臣』達に出来る事は余りに限られ過ぎており… 彼等はついぞ、小火以上のものを起こす事は成し得なかったのである。

 そして張繍が密かにかつての本拠・宛城を訪れたのは、「漢帝による禅譲」という最後の『演目』を間近に控えた、そんなある日の事であった。



「ふふ… 懐かしいの。長安に本拠を移して以来…かな?」
「…もうあれから十数年とは。 時の流れは早いものですな」
 久々に足を踏み入れた、我が初めての本拠。わしは人払いをすると賈[言羽]のみを従え、かつてを懐かしむ様に城内を散策して行ったのだが… 城内が大して変わっておらぬ事もあってか、遠い昔の事が、一方でつい昨日の事の様にも思えてならぬ。 何とも、不思議な気分である。

「…ふふ、思えばあの頃のわしは周囲の誰よりも弱かったな。宛城の鼠賊だの董軍の亡霊だの、散々な言われ様であったわ。
いや、今でも涼州の蛮人だの得体の知れぬ成り上がり者だのと言われておる故、その点は余り変わらぬかな?」
「…ふむ。殿、やはりまだ家名の事を気にされておられるのですかな?」
「ふふ、気にしてはおらぬつもりだが… やはりなかなか達観までは、な」
 名門とはお世辞にも言えぬ、我が家門への嘲笑。 それはもう、敵がわしを非難する際の枕詞の様なものであり、今更腹を立てるのも馬鹿馬鹿しい。 が、やはりそれでも慣れた、という境地にはなれぬ。 
 わしがそんな思いを込めて賈[言羽]に苦笑を返すと、奴は不意に思わぬ事を言い始めたのである。
 

「ならば殿、私めが、張家を天下一の名門にする手立てをお教え致しましょうか?」
「なに?」
 これまでは、「御気になさいますな」としか言わなんだ賈[言羽]のそんな言に、わしは思わず強い語調で聞き返した。すると、奴は真剣な表情で言葉を続けた。

「なに、別段難しい儀では御座いませんよ。時間こそかかりますものの、確実な手立てが御座います。
そう、殿が磐石なる帝国の礎を築けば、それで事は成るのです。
…さすれば百年の後、一体何人が張家より尊いと申せましょうか?」
 
「家名など、所詮そんなもの」。言外にそんな言葉を匂わせつつ、賈[言羽]はそう、人の悪い笑みを浮かべて言葉を継いでいった。
 それに対してわしは、思わず笑い出しそうになる気を引き締めつつ、やはり真面目な表情を作って奴への切り返しを図る。
 …我がささやかな「宿願」を成就するためにも、ここではまだ笑う訳にはいかぬのだ。


「ふむ… 尤もでは有るな。
ところで賈[言羽]よ、わしが今日この地を訪れたのは、別段懐かしがる為だけでは無いのだ。 新たな野望を誓うには、かつて野望を誓ったこの地こそが最も相応しい、そう思ったものでな」
「新たな野望… で御座いますか?」
 これには意表をつかれたか、やや訝しげな表情を浮かべる賈[言羽]。それに対しわしは内心の喜びを隠しつつ静かに頷くと、神妙な様子で言葉を続けた。

「うむ、そうだ。 どうもわしは自分で考えていた以上に欲深い者だった様でな、こうして『天下一統』という野望を達成したばかりだと言うのに、どうも満足せぬのだ。 いや、満足どころでは無い。それどころか、今度はもっと成し難い野望を抱いてしまったのだよ。
…そう。千歳にも渡る太平の基を築き、後世に聖天子の名を刻んでやろうという、身の程を知らぬ野望をな!」

 わしのそんな言葉に賈[言羽]は、僅かながら確かに、そう確かに驚きの表情を浮かべた。
 それは… 賈[言羽]を我が言で驚かすという、わしの密かな、だがせめて一度は成し遂げたかった野望が成就した瞬間であった。


「…それはまた、とんでもない野望を抱かれたものですな、殿!」
「うむ。それもこうしてわしの様な白髪頭の者が抱くとなると、余計に無謀さが引き立つであろう?」
 …そして、わしと賈[言羽]はなおも普通の会話を演じようとしたのだが… そこまでが限界であった。
 わし等はお互いに顔を見合わせると、溜め込んでいた思いを吐き出す様に、ただただ笑い出さずにはいられなかったのである。
 

 


「やれやれ。私めももう六十をとうに過ぎたというのに… これでまだ当分は、到底引退させてもらえそうにありませんな」
「無論だな。 わしが群雄ならばお前は軍師、わしが皇帝なればお前は宰相… ま、そういう事だ。 其方には最後までわが野望に付き合ってもらうゆえ、覚悟してもらおうではないか、賈[言羽]!
恨むならわしではなく、こんなわしを見込んだ己の判断を恨んでくれよ…」
「…いやはや。あの時殿を頼ったのはこの賈[言羽]の、まさに一生の不覚で御座いましたな」
 そしてわしと奴はひとしきり笑い終えると、言葉とは裏腹に満面の笑みを浮かべつつ、どちらとも無くあらためてがっちりと握手を交わしあった。
 それは… わしと賈[言羽]の、新たなる盟約。


「…さて。では殿、そろそろ都に戻ると致しましょうか? いくら懐かしい宛城とはいえ、胡車児もいい加減待ちくたびれていそうですしな」
「うむ、そうだな。 …奴め、暇だからといって酒でもかっ喰らっておらねば良いのだがな」
 …戦雲に乗じ、叔父上と共に董相国の下に投じてよりはや幾年。わしは乱世を駆け抜けつつこうして多くのものを得てきたが、同時に少なからぬ大事なものを失って来た。


「なに、心配御座いませんよ。 奴とは『約束』があります故、その点に関しては大丈夫です」
「約束…? あの酒好きを、言葉だけで止められるのか?」
 これから新たな野望に挑む中でも、何かを得るのと引き換えに、やはり色々なものを失っていくのかも知れぬが… しかし、きっと大丈夫であろう。

「なに、奴が酒好きだからこそ、心配は御座いませぬよ。 きっちり待っていたならば、先日西域より献じられた珍しい酒をこっそり回してやる、という約束ですので」
「…やれやれ、胡車児を制すには酒をもってす、か。 幾つになっても変わらんなあ、あ奴も」
 最も大事なもの、決して失ってはならぬものが何か。それを忘れぬ限り、わしは多分どこまでも行けるし、何でも出来る筈なのだから。
 一介の武人に過ぎぬわしがこうして天下を握り得た事、それが何よりの証拠であろう。


「…ふふ、良いではありませぬか。別に何もかもが変わらねばならぬ訳では御座いますまい。 移ろう時の中でも変わらぬもの、それはある意味喜ばしいものでありませんかな、『陛下』?」
「ふふ、それもそうだな。 これからはその似合わぬ呼称にも慣れねばならぬ事だ、せめて我等ぐらいは変わらぬ方が何かと落ち着くと言うものだな、賈[言羽]!」
 涼州武威郡。何の気まぐれかそんな辺鄙な場所に落ちた『天命』は、紆余曲折を経て、こうして我が元に収まってしまった。
 だが、わしにはどうせ世を蓋う才も、華麗な門地も有りはしない。 ある意味今のわしには、何もかもが分不相応なのだ。
 
 そう、どうせ最初から分不相応な事なのだ。ならば今更何の遠慮があろう! ただひたすら、奴とどこまでも行ってみるのも面白かろう!


「よし! …行くか賈[言羽]!」
「はっ!」
 そしてわしと賈[言羽]は… 共にゆっくりと歩き出す。








 建安十四年十二月。それは四百年続いた漢朝の正朔が用いられた、最後の月。

「…太祖その才を誇らずして、良く衆に謙る。 故に雄才の士幕下に集い、皆その力を尽くして政を支う。 
かくしてその知は極まり無く足らざる無く、以て大事を成し遂げたり。
評に言う、其れ太祖は将の将たる器にして、まさに高祖の輩ならんか」(『周書』武帝記第一)
 
 後の世にそう記される事になる皇帝の治世は、もう間近に迫っていた…






                                         〜完〜  

 

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