<建安五(200)年・一月>
波乱の四年もようやく終わり、新たな年がやってきた。 だが無論の事、今年が昨年よりも平穏な年になるなどとは全く思わぬ。
少なくともわしにとっては、吉凶何れに転んでも昨年以上に騒がしい年となる事だろう。
そしてやはりと言うべきなのか… 今年の幕開けも、まるで更なる波乱の予兆であるかの様に戦の報告から始まった。
「…このように呂布殿は、ひと揉みに陳留を奪取したとの事です。 袁紹殿にとっては、面目の上でも手痛い敗北でしょうな」
「呂布、か。 奴め、こと戦においては相変わらずの鬼神ぶりだな。あの袁家を連破するとは!」
わしは賞賛半分、苦さ半分で奴の事を思い起こす。 …まあ今はとりあえず同盟国ではあるし、奴の奮戦と袁家の敗退を素直に喜ぶ事としようか。
「やはり暮れの濮陽侵攻戦での敗北が跡を引いている様ですな。 文醜・張[合β]等を失った痛手は、そう易々とは癒せなかったかと」
「ふむ。 皇甫嵩の病死、手痛い連敗と奴にとってはまさに凶事続きだな。
…願わくば、今後も不幸が続いて欲しいものだ」
そしてわしが思わずそんな本音をこぼすと、賈[言羽]も苦笑気味に報告を続けた。
「そうですな。 …とりあえず新たに召し抱えた有能な謀士に去られる、という不幸でしたらまもなくかと。
先程張紘殿より、郭嘉殿を口説き落とせる感触あり、との報が入りました故」
「そうか。 年始めより実に幸先が良いな」
賈[言羽]のそんな取り繕いに、わしも思わず奴に苦笑を返す。 まあ確かに今の様な台詞は、仮にも中原の覇を狙おうという群雄の言葉としては余り相応しいものでは無かろう。
皆の前では心せねばなるまい。
「はっ。 …そういえば殿。幸先が良いといえば先日出仕した楊修、なかなかの切れ者の様です。 流石は太尉殿秘蔵の御子ですな」
「ほう… それ程の者か」
そしてそんな空気を変えるかの様に、賈[言羽]は報告を人事へと移す。 …君主としてのわしも、相変らず精進が必要な様だ。
…かくして、わしの命運を決するであろう年は幕を開けた。 さて、来年のわしは一体どのような心境で年明けを迎えるのであろうか?
<建安五年・七月 〜前編〜>
「さて…そろそろか、賈[言羽]」
「そうですな。相国の遺金も大方使い果たした事でもありますし、頃合いかと」
わしが袁紹と国境を接してより此の方、瞬く間に一年近くの歳月が流れ… 我が軍の陣容と兵力は、相次ぐ天災と人災に苦しんだ袁紹を尻目に、張紘・田豊ら文官、趙雲・夏侯惇ら武官の日々の働きもあり、更に充実の度を増していた。
袁家に降っていた曹家の遺臣・荀ケと于禁、呂布軍を支えていた知謀の士・陳宮と荀攸、そして二万余の精兵。それらの新戦力を迎え入れ充実の度を増した我が軍は、敗戦と相次ぐ災害によって疲弊しつつある袁紹軍を、遂に総兵力でも上回ろうとしていたのである。
そして外交面においても劉表・劉璋との盟約が成り… 奴に我が全力を叩きつける体制は着々と整いつつあった。
「しかしお前が言った通り、奴の国内も存外脆かったものだな。 …さて、一体どこまでが筋書き通りなのだ、賈[言羽]?」
偶然にしては出来過ぎとも思える事態の推移に対し、わしは賈[言羽]に冗談混じりに問いかけてみる。まあ此奴なら、裏で糸を引いていたとしても今更驚かぬ、そんな気持ちが多少あったからでもあるが。
「あまり買い被られては困りますな、殿。 呂布殿の奮戦、ましてや災害については私の力の及ぶ所では御座いませんぞ」
「…起こった事は逃さず利用しても、な」
わしの最初の問いに苦笑いを浮かべつつ答えた賈[言羽]は、次の言葉にはそれを強くしただけであった。
<建安五年・七月 〜後編〜>
「とりあえず袁紹殿は、今なお洛陽に駐屯しております。 同地の守備軍自体は四万程度ですが、我が軍がこの長安より長躯出撃した場合、間違い無く周囲の部隊も集結し十万以上に膨れ上がる事でしょう」
時至る。そう判断したわしらは、いよいよ具体的な洛陽侵攻策の検討へと移り… わしはそんな奴の説明を耳にしながら、じっと地図を睨んだ。
「…だが、それも計算のうちか?」
「はっ。どのみち洛陽城は守りも固く、敵の援軍が到着する前に攻略するのは至難の技です。ならばいっそ敵の戦力を最初に集めさせ、我が軍が場の主導権を握るのも一策かと」
次々と湧く敵の援軍に掻き回される危険と、要所の守りを固められる危険。どちらかが避けられぬのならば…
わしは暫し思案に耽ったものの、やがて意を決した。
「成る程… 弘農に前もって移動せず、ここから出撃するのも一策と云う事か。 よし賈[言羽]、陣触れと兵糧の準備を任せる。四世三公殿に拭い切れぬ泥を付けてやろうぞ!」
「はっ!」
そして突如法正がやってきたのは、我らが出陣の日取りを決めようとしていた、まさにその時であった。
「殿、軍師。只今楊修殿より早馬が参りました。『了』との事です」
そう笑みを浮かべつつ報告する法正。 そしてわしと賈[言羽]は、その知らせに思わず顔を見合わせる。
「ふむ… 昨日の暴政より、今日の悪政という事かな、賈[言羽]?」
「楊家の人脈と彼の才幹も多いに与かっている事でしょうが、そういう事かと。 …これは来月で宜しいですな」
そして、わしらは声を上げて笑う。
幸先や良し! 中原の覇を賭けた決戦は、もう間近に迫っていた。
<建安五年・八月 〜其の一〜 >
「…この様に、業に乱入した呂布軍は敗走致しました。 なおその際救援に赴いた洛陽守備軍も、かなりの損害を受けたらしいとの事です」
「ふふ、まるで示し合わせたかの様だな。 奴め、まるでいつぞやの償いの様に役に立ってくれるわ!」
我が命運を賭けた、主力十二万をもっての洛陽攻略戦は、最早号令を待つばかり。
そして、まるでその成功を促すかの様にもたらされたそんな吉報に対し、わしは喜びを隠せなかった。
「敗退した呂布軍に降兵が多数出た模様、という点が少々気になりますが… 吉兆である事に間違いはありますまい。 さあ殿、皆既に集まっております。『檄』をどうぞ」
かくしてわしは賈[言羽]に促され、広場へと歩を進める。 そこには既にこの長安に居る大小の文武官三十五名、そして数万に及ぶ兵達が集結していた。
不安・興奮・期待… そんな様々な眼差しを前に、わしは一呼吸置くと一世一代の檄を飛ばし始めた。
「…これより我が軍は洛陽への侵攻、ひいては袁家との全面的な対決を開始する。 なお皆の中には、袁紹と戦う事は陛下に弓を引く行為ではないかと恐れる者もいるそうだが、わしは今ここで断言しよう、それは否であると!
むしろ奴こそが漢朝を虫食み、陛下を盾に自らの野心を果そうと企む不逞な逆臣なのだ!
そもそも奴が事ある毎に誇る『四世三公の袁家』とは如何なる家か? 奴の一族たる袁術が身のほど知らずにも帝位を僭した事、奴自身がかつて恐れ多くも陛下を廃して劉虞を擁立せんと公言した事、これらは天下の誰もが知る所である。 そう、昔は知らず、今の袁家とは逆賊の代名詞に他ならぬのだ!
わしは門地も才も無い一介の武人ではあるが、どうしてこの様な賊をむざむざと放置して置く事が出来よう? わしは今こそ我が全力をもって奴を討ち、世の理を正さんとするものである!
また、皆の中には我が盟友にして漢室の忠臣であった曹操殿の恩顧を受けた者も少なくなかろうが… これより始まる戦いはひとえに賊都業に捕われし陛下をお救いする為のみならず、彼の弔い合戦でもあるのだ!
…皆、励め! 大義も時勢も全ては我々にこそある! 昨年来より奴の領内で天災・悪疫が猛威をふるっているのは、決して偶然では無い。奴の無道を憎み、滅ぼさんとする天意に他ならぬ!
…皆、力を尽くせ! 今こそ天人共に許さぬ逆賊袁紹を討ち、天下の害を除く時なのだ!」
「逆賊を討て!」
「奴の首を殿の墓前に捧げてやるわ!」
「我らに勝利を!」
そして我が檄に応じ、どよめく将兵達。 そんな中、一仕事を終えたわしは目を閉じ、暫し場を覆う絶叫の中に身を委ねた。
これで事前になすべき事は全てし終えた。後は我が采配と…天命次第であろう。
<建安五年・八月 〜其の二〜>
「…敵の総勢は十一万六千余か。予想以上だな」
「一旦は呂布殿に降った筈の文醜・張[合β]が帰参していたのも以外でしたが… 殿、申し訳ありません。いささか袁家の底力を甘く見ていた様です」
十万余の軍を率い洛陽口への侵入を果したわしは、全軍を布陣させつつ、先行していた夏侯淵隊のもたらした報告を受けていた。 そして状況は…まさに数の上では伯仲と言って良い程のものだったのである。
「なあに、所詮呂布は我が疫病神に過ぎんという事よ、気にするな。 さあいくぞ、賈[言羽]! 我等成り上がり者の実力、しかと奴に見せてやろうではないか!」
「はっ!」
例え予想以上に敵の守りが堅かろうと、我等のなすべき事になんら変わりは無い。わしは作戦通り、全軍に進撃を命じた。
「楽進・キョチョ・程c・李典・曹仁か… 敵の旗印を見ていると、何故城に翻っているのが『曹』では無く『袁』の旗なのか、不思議に思わねえか、惇?」
「皆ばらばらになっちまったな… いいさ、淵。今の俺達の目的は奴を斬る事のみ!
邪魔だてするなら誰であろうが蹴散らす、それだけだろ?」
「ああ、そうだったな… 行くか、惇。殿の仇は何としても俺達の手で討とうぜ!」
「両夏侯殿は随分と気合が入っているな。まあ無理も無かろうが… ただ戦功に関しては別儀といきたいな、子竜殿!」
「ああ、これだけの大戦だ。 彼等には悪いが、袁紹の首は我等古参が頂く事にしようか、文遠殿!」
「ちっ、出遅れちまったな… 馬超!
こうなったら森を突っ切り、一気に敵の側面を突いてやるか!」
「ああ、こんな大戦で指をくわえてはおれんさ! 行こうぜ、顔良殿。最上の獲物は一つだけだ!」
「さて、北回りに進む彼奴等が城に辿り着くには暫し時がかかろうが… 徐晃、我等は南の関から突破を図るぞ。抜かるなよ!」
「はっ。相手は文醜… 不足はありません。 殿、一気に関を打ち破り、奴等を挟み撃ちにしてやりましょう!」
「さて、あとは殿と諸将の武運を願うのみですが… 法正、陣形旗と『合図』の準備は抜かり無き様に」
「はっ、軍師。 …後は機を見計らうのみですな」
「ふん、張繍め。随分な兵を揃えたものではないか! 沮授、我等はどう迎え撃つべきと考える?」
「やはりある程度城近くまで誘い込み、各個撃破を図るのが上策でしょう。 この関内の狭さこそが我等の勝機です」
「…ふむ、良かろう。 身の程知らずどもに目にもの見せてやるわ!
賊共は一人も生かして返すな!」
「やりにくいな、実際… 覚悟していたとはいえ、相手は両夏侯殿か」
「言うな、楽進! 今は何も考えず全力を尽くそう。 我等の武人としての名誉にかけて!」
「…ああ、李典。そうだ、そうだよな。 …さて、始めるか」
「(…ふっ、俺は何をやっているんだろうな。殿の仇の為に全力で戦おうとしているとは。 …いや、単に死に場所が欲しいだけか)」
「キョチョ殿、張繍隊が来ますぞ! 弓兵の準備を!」
「…ああ、程c殿。判っているさ」
南北からの挟撃、陣深くまで引きずり込んでの殲滅。復讐、面目、意地、野望、怒り… そんな皆の思惑が入り乱れる中、ここに帝都洛陽を舞台とした、両軍合わせて二十四万近くに及ぶ大決戦の幕は上がった。
<建安五年・八月 〜其の三〜>
「くそっ、彼奴等め! …徐晃、お前の軍はどうだ?」
「…既に戦闘可能な兵は六千余に過ぎません。ですが、なんとしても奴だけは仕留めてやります!」
短いが激しい両軍の死闘は続き… 卓膺・文醜隊を蹴散らして一旦は関内への侵入を果したわしと徐晃の別働隊は、キョチョの猛突撃と程cの猛射の出迎えを受け、大損害を喫して関外に叩き出されていた。
一方北回りの主力軍も、伏兵に掻き乱された所に集中打を浴びた顔良隊がほぼ壊滅するなど、その被害は尋常なものでは無かった。
だがそれでも、全体としての我が軍は楽進・李典・曹仁等敵諸隊を次々と撃滅しつつ城へ迫っており、形勢は刻一刻と我等の側へと傾きつつあった。
そして…
「袁軍の士気はそろそろ限界の様ですね… 頃合いです、法正。合図を!」
「はっ。…狼煙に点火だ、急げ!」
我が軍の切札が遂に発動する。
(同刻・洛陽城袁紹本営)
「くそっ、沮授隊までも壊滅か! ええい、呂布といい張繍といい、董卓の亡霊共がいつまでも祟りよるわ! だが、絶対に負ける訳にはいかん。わしの覇業がこんな所で、彼奴などに頓挫させられてたまるものか!」
戦闘開始より十日。我が軍は既に七隊までも壊滅し、開戦時の兵力は三分の一を割り込んでいた。 兵の練度、転戦の疲労等々、不利な要因は数あったものの、奴如きにここまでの苦戦を強いられるなどとは、わしにとっては思いもよらぬ事であった。
「ふん。だがな、この洛陽城はそう簡単には落ちぬぞ! 何とか時を稼ぎ、軍を立て直して逆撃に転じてくれるわ…戦はこれからよ!」
この時のわしには、まだ洛陽という堅塁を利しての少なからぬ勝算があった。 無論そんな我が意図が、この時敵陣から上がったたかが三発の狼煙によって一瞬で崩壊する羽目に陥るとは、まさしく想像の埒外以外の何物でも無かったからである。
合図に合わせ…突如城内各所で沸き上がる大歓声。 それに対しわしが何事かと問いを発する間も無く、部下達が次々と凶報をもたらしてくる。
「と、殿。反乱です! 民衆が張繍軍に呼応し、じ、城門が!」
「政庁に火が! 殿、一先ず脱出を!」
「…ふん。民衆にすら見捨てられたというのか、このわしが!?
しかもよりにもよって奴等に尻尾を振られるとは、な。 …はっはっは。つまりわしは、統治者として董卓以下という事か!」
呆然とし混乱する我が軍に対し、殺到して来る敵の大軍と暴徒と化した民衆。
そんな乱戦の中、わしは押さえきれぬ衝動に突き動かされ、阿呆の様にひたすら笑い続けていた。
<建安五年・八月 〜其の四〜>
「…直接会うのは初めてかな、袁紹よ」
「…まあ、そうだろうな」
激戦の末、遂に我が虜囚となった河北の覇者・袁紹。 天下に最も近いと言われた奴が目の前に引き出されている、その事実にわしは興奮を押さえきれなかった。
「…何か申す事はあるか?」
「無い。 要はわしに天下を取る器量が無かった、それだけの事であろうよ。
…さあ、くどくど話す事は何も無い。 とっとと好きにするがいいさ」
この期に及んでも実に堂々とした態度だな。 わしはそんな事を思いつつ、横に控えし、睨み殺さんばかりに目を怒らせた二将に目配せをした。
「袁紹。残念だが貴様の処分だけはわしの一存では決められぬのだ。 夏侯惇・夏侯淵、約束通り此奴の処遇は其方らに任そう」
そして両将は無言のまま袁紹に歩み寄ると、奴を外へと連行して行く。
「そうか、張繍軍にはお前等がおったのだったな… ふん、市で晒すなり寸刻みにするなり、好きに恨みを晴らすが良いわ」
「…貴様が殿をそうしていたら、俺達も構わずやっていたさ」
「貴様の首は殿の墓前に捧げるが、名誉だけは残しておいてやる。 …運が良かったな、袁紹」
「ふん。 …一応礼を言っておくべきなのかな」
そんな会話を交しつつ三人は刑場へと消え… 奴は五十一歳の栄光と波乱に満ちた生涯を閉じた。
そして奴を見送ったわしは、引き続き捕虜の引見へと移る。
「負けちまったからには仕方ねえ。 おれも兄貴の様にあんたの為に戦わせてもらうぜ!」
「是非も無い…今後は貴方に忠誠を誓おう」
「御見事でした… 以後は殿に御仕えし、我が微力を尽くさせて頂きます」
文醜・張[合β]・程c、そして楽進・李典・卓膺・辛毘・トウトン… 大敗の衝撃故か、敵の名だたる将達も次々と降り、
「降れぬと申すのならば… 良かろう、後日戦場で再び見える事としようか。 行け!」
あくまで投降を肯んぜぬ沮授・曹仁・キョチョは解き放ってやった。
かくして二万余の戦死者と三万六千余の降兵を生んだ帝都の激戦は、我が軍の大勝利という形で完全にその幕を閉じたのであった。
【諸国・その他の動静】
・袁紹が死亡し、長子袁譚が跡を継ぐ。
・劉備軍、呂布領[言焦]を攻めるも惨敗。
・辛毘、袁譚の元に帰参。
<建安五年・九月>
君主袁紹、帝都洛陽、十万を越える兵力、大国の矜持… わしは緒戦において、袁家より有形無形の様々なものを奪い取る事に成功した。
そんなわしの次なる目標は、東方の大都市・許昌であったのだが…
「ちっ、呂布めに先を越されたか! 奴め、まったく抜け目が無いわ」
「やはり先日の劉備殿の動きが余計でしたな。 あたら呂布殿に万余の兵を献じるとは… 全く困った事をしてくれたものです」
同盟国・呂布軍による許昌占領。 突如入ったその報により、わしの目論見は初手から変更を余儀なくされたのであった。
「奴との同盟自体は今月一杯で失効するが… やはりまずは袁家に止めを刺す方が先決か、賈[言羽]?」
「はっ、その方が宜しいかと存じます。 殿の御気持ちは判りますが、呂布殿に半端な気持ちで手を出せば、逆に思わぬ火傷を負いかねません。 出来る限り彼の者の羽はむしっておくべきとしても、今は直接兵を用いる事は控え、まずは業、そして北方平定を優先させるのが上策でしょう。 …袁家に息を吹き返す暇を与えては厄介です」
賈[言羽]はわしの苛立たしさをを宥める様に、そう意見を述べる。
「…やむを得んな、許昌は暫し奴に預けておいてやるか。 いずれきっちりと利子付きで返してもらうがな…」
わしは賈[言羽]に肯きを返しつつ、舌打ちと共にそう呟く。
これで奴へ『礼』をすべき事が一つ増えた、それだけの事と思うとしよう…
<建安五年・十月 〜前編〜>
「では趙雲、頼むぞ!」
「はっ、必ずや御期待通りに!」
洛陽制圧より二ヶ月。ようやく事後処理も一段落したわしは、遂に袁家の本拠・業への侵攻を発令した。
なお今回のわしは呂布を牽制すべく洛陽に止まり、我が宿将たる趙雲に九万余の兵を委ねて出陣させたのであった。
半数以上の兵が出払い、心なし静かになった洛陽。
わしは北へと向かった我が軍の旗が見えなくなると、なんとはなしに賈[言羽]へと問いかけてみた。
「ふむ… 賈[言羽]よ、此度の戦はどう見る?」
「業の守備兵自体は袁譚以下六千余のまま、未だ増強されておらぬ模様です。 趙雲殿ならば南皮の六万が動く前に決着をつけられるでしょうし、無論二ヶ条の軍令に関しても遵守する事でしょう。 帝の御姿は既に消えているとの事ですのでその件のみは叶わぬかと思いますが、後は何も問題無いかと」
そうよどみ無く答える賈[言羽]に、わしはゆっくりと肯きを返す。 なお二ヶ条の軍令とは『投降を肯んぜぬ者は釈放する事』『袁譚を捕らえても決して斬らぬ事』であり、此度の出陣に際し事後処理を含む全権を奴に貸し与えたわしは、例外としてこれらのみを厳命していた。
…無論、それが慈悲から出た命である筈も無い。
「しかし未だに業に兵が廻っていないとは、信じ難い話ではあるがな…」
「南皮軍は袁尚の影響下にある様で、劉備殿の脅威を言い立ててなかなか移動命令に応じようとせぬとか。 …まあ名門の当主の座がかかった大事ですからな。我等部外の者が水を差すのは無粋、暖かく見守ろうではありませんか…」
そんなわしの呟きに対し、我が軍師殿はそうにっこりと微笑んでいた。
<建安五年・十月 〜中編〜>
「敵は総勢六千余、城に拠り我が軍を迎え撃つ模様です!」
主命を受け勇躍して敵本拠・業へと乗り込んだ私は、全軍を展開させつつ密偵の報告を耳にしていた。
少数ながら余りに堂々とした敵軍の態度… 私はふと傍らの副将へと顔を向けてみる。
「…ふむ。敵の動きをどう思われる、文遠殿?」
「…さてな、私などには名門の御曹司殿の考える事は判らんさ。援軍到着まで持ちこたえられるつもりなのか、何か切札でも用意しているのか… ただ、考えていても始まらん。とりあえず一当てして探りを入れてはどうかな、子竜殿?」
「そうですな。敵本拠で、仮にも敵君主自らが指揮しているのです。おそらくは何かを企んでいるのでしょうが… やってみますか!」
私は文遠殿に肯くと、直ちに全軍へ進軍を命じた。
…勿論この時の私は、探りの一当てで敵軍があっさりと壊滅するなどとは予想する筈も無かったのであるが。
<建安五年・十月 〜後編〜>
「さて。ようやくゆっくりと話せるな、キョチョ… 能無しの袁譚めは先程解き放ってやったが、お前はどうする?」
業都制圧を終えた俺は趙雲殿の許しを得、再び我が軍の虜囚となったキョチョと差しで向かい会っていた。
しかし…
「…夏侯惇将軍、願わくば我が首をお刎ねくだされ」
奴は、あくまで頑なであった。取るべき手段こそ違うものの、まるでいつぞやの俺の様に…
「おいキョチョ、思い上がるのもいい加減にしろ!
お前は自分一人が曹軍を背負っていたつもりか、ああ?
刺客の手にかかったというならまだしも、殿の死は堂々たる戦いの結果だ!
お前が百人いた所でその事態を変えられたものかよ!
…キョチョ、今のお前は虎でも何でも無い。ただ死にたがっているだけの痴呆だ!
今のお前の態度は自分の武名はもとより、お前を重用なされていた殿の御名をも傷つけているとは思わんのか!」
半ばは無意識だったかも知れぬ。気付くと俺は奴の胸座を掴み、力の限り喚き散らしていた。無論キョチョを説き伏せよという殿の御意向を受けてはいたのだが、それ以上に今の奴を見るのは耐え難いものがあったからだ。
「…! お、俺は、俺は…」
そんな俺の叫びが奴の臓腑を抉ったか、醒めきった表情を張り付かせていた奴の顔は曇り… やがて一筋、そして大粒の涙が流れはじめた。
「泣くな、キョチョ。貴様の気持ちは俺にも判る、判るのだ!
かくいう俺も人に匹夫と罵られるまでは、馬鹿げた事を考えていたものさ。
…な、キョチョ、俺達の所へ来い。 殿は亡くなられたが、殿が目指された夢までが消えた訳では無い。生き残ってしまった俺達の手でそれを果すのも一つの道だろ? な、キョチョ、共に戦おう。俺も淵も楽進も李典も、皆同じ気持ちだ。 な…」
そして… 俺はただ、男泣きに泣き続けるキョチョの背をそっと撫で続けた。
…業都が陥落し、呂虔・譚雄・韓遂・韓玄・辛毘、そしてキョチョの六将が投降。 わしの元にその吉報が届けられたのは、それからまもなくの事であった。
かくして帝こそ御救い出来なかったものの、わしは袁家討滅へ向け、確実な一歩を踏み出したのである。
<建安五年・十一月 〜前編〜>
「…はあ」
もう何度目になる事だろう。私は空を見上げ、深く溜息を吐いた。
「(殿と袁尚殿は猜疑し合い… 皆も反目し合ってばかりで、国内の立て直しも軍備の再建も遅々として進まぬ。 業が陥ちたというのに、ここ晋陽に明日にも敵が来ようというのに… 誰も眼を覚ましはせぬのか?
もう袁家は…)」
だがそんな私の取り止めが無い思考も、慌てて駆け込んできた我が君によって否応無しに破られる事になったのである。
「沮授、ここにおったのか! 賊軍が来るぞ、直ちに出撃だ!」
…そして私は一人の将として、またも戦場へと赴く。
敵は趙雲率いる十万余の精兵。対する我等は殿と袁尚殿、そして私の率いる僅か一万五千余の敗残兵達…
撤退を勧める私の言は聞き入れられる事も無く、短い攻防の末に我が軍はあっさりと壊滅し… 私も再び敵の虜囚となったのである。
<建安五年・十一月 〜後編〜>
後ろ手に縛られた私は、ぼんやりと目の前の状況を見つめていた。 同じく敵の虜となった殿と袁尚殿がなにやら敵将と言い合い、顔を真っ赤にして飛び出して行くのは見えたのだが… 疲労の為か、何故か言葉までは頭の中に入って来はしなかった。
「ふう…」
「…いつまで呆けているんだ、沮授?」
目を閉じ、もう何度目になるのか判らぬ溜息を漏らした私は、不意に聞こえてきたなにやら懐かしい声に誘われ、思わず目を開いた。
…そして私の前に居たのは、目を剥いた我が旧友であった。
「田豊…? そうか、お前が敵の参軍だったのか。いや、久しいな」
敵の参軍が誰かも知らずに戦っていた、そんな事にもあらためて馬鹿馬鹿しさを感じた私は自嘲気味に微笑んだが… 田豊は相変わらず目を剥いたまま、私を問い詰めてくる。
「沮授… 久闊を叙したいのはやまやまだが、まずは俺の質問に答えてもらおう。 一体いつまで呆けて…袁家に付き合うつもりだ?」
「…」
「お前を招いた袁紹殿が生きておられるのなら、俺もこんな事は言わんさ。 だが袁紹殿は最早亡くなられたというのに、何故累代の家臣でも無いお前がここまで袁家に義理立てするのだ? 忠言は聞かれず策は用いられず…それでもなおも仕えるのが士大夫の忠か? 今のお前の忠は奴僕の忠とどう違うのだ?」
懐かしい、今は爽やかにすら感じる奴の罵詈雑言。 ここ暫く味わっていなかったそんな真っ直ぐな言に、私は自然に顔をほころばせた。
「…相変わらず口が悪いな、田豊」
「性分だ、そう簡単には直らんよ。 まあ口調については後で幾らでも謝ってやるが… まずは答を聞かせてくれぬか、沮授?」
言いたい事を言い終えた為か、今度は途端に済まなさそうな顔を見せる田豊。 そんな奴の顔を見ていると、私の腹は自分でも驚くほどあっさりと固まっていた。
「口は悪くともお前の言う事はいつも正論だよ、田豊… 判ったよ、こんな私でいいのなら降らせてもらうさ。また宜しくな…」
「それでこそお前だ、沮授! 悩むだけ悩んでも、決めるべき時はきっちり決める。そうこなくてはな!」
そう言って、先程までの渋面が嘘の様に満面の笑みを浮かべる田豊。 そして敗れて降ったのにも関わらず何故か私の心も… ここ何年も感じた覚えが無いほどに清々しかったのである。
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