<建安六( 201)年・一月>
激動の建安五年も暮れ、また新たなる年がやって来た。
「…強敵を前に戦々恐々とするで無し、大戦を前に気を高ぶらせるで無し。 ふふ、賈[言羽]よ。考えてみればこの様に穏やかな気分で迎える一月は、随分と久しぶりではないか?」
「そうですな、昨年は幸いにも全てが順調に進みましたし…
まあ、こんな年初も良いものではありませんか」
平和な年始という、今となってはひどく贅沢にすら感じる状況に思わず笑みをうかべるわしに対し、そう笑顔を返してくる賈[言羽]。 …もっとも此奴の場合、滅多に表情を崩さぬ様には思うが。
「そして新年の第一報も、今年は穏やかな吉報から始められそうですな。 つい先程田豊殿より、ショウエン殿招聘の件は極めて順調、との報が入りましたので…」
「おお! 先の評定で決まったばかりの件がもう、か。それは目出度いな!
今年も…皆と共により良き年にしたいものだな」
「はっ、我等臣下一同も全力を尽くす所存です。 まあまずは…年内にも袁家に完全な引導を渡したいものですな」「うむ! …そういえば賈[言羽]よ、早速だが袁家陣営に何か動きはあったか?」
「はっ。どうも袁譚・袁尚両派間で何らかの妥協が成立したらしく、南皮の六万が代・北平・平原にも分置された由、報告が入っております」
敵が兵力をわざわざ小分けにしてくれた。 そんな賈[言羽]の状勢報告に、わしは更に笑みを大きくした。 まあ妥協とはえてしてそういったものになりがちだが… どうやら名家の御子息方は、わしに心尽くしの馳走をしてくれるらしい。
「ほう、成る程な。各所に兵を散らし、それぞれが連携して機動的に防御をしようという腹か。 実に見事な策ではないか、賈[言羽]! …まあ、あくまでうまく連携が取れればの話だが、な」
「御意。我が軍の数が今の半分程で主体も騎兵では無く、更には敵の心が一つでありさえすれば、実に見事な兵略でしたな。 …まあ我等としては、ただ粛々と攻めかかれば宜しいかと」
そしてわしは賈[言羽]に肯きを返すと、何とはなしに壁に張られし地図を見やった。 河北全てが『張』の旗で埋まる、そんな未来を頭の中で思い浮かべながら。
<建安六年・十月>
「ふう。もうすぐあれから一年か…」
私は執務の手を休めると、ふっと息を吐いた。
そう。私が新たな主に仕えてから、思えばまだ一年すら経ってはいないのである。 だがそれにも関わらず、今や河北の勢力図は完全に塗り替えられようとしていた。
我が身の変遷といい、袁家の凋落振りといい、私はやはり感慨を禁じ得ない。
「沮授、たまには一杯やらぬか?」
そして田豊が夜分に私を尋ねてきたのも、そんなある日の事であった。
「三月に代、四月に北平、五月に襄平、そしてとうとう南皮までも… まさかここまであっさりと袁家が追いつめられるなどとは、思いもしなかったよ」
「まあな。それにどうも殿の御使者の話では、来月早々にも平原へと兵を御進めになるらしい。 …いよいよ一つの時代が終わる、という感じだな」
私と田豊の、月を肴とした静かな酒宴。 が、やはりと言うべきか、話題はいつしか自然と風流の欠片も無い、袁家の事ばかりになっていったのである…
「あの袁譚殿が呂布との同盟に動いたのも意外でしたよ。追いつめられている、という自覚を漸く持たれたのでしょうが…」
「…まあ此処までくれば、流石に持たざるを得ぬのだろうさ。例えそれが、もう遅きに失したとはいえ、な。 …そういえば沮授、お前も袁家の投降者達の名簿は見ただろう?」
「…ええ、流石に驚きましたよ。袁尚殿に郭図・逢紀までが居るとはね」
「ま、これで御家騒動はなし崩しに決着だが…
当の袁尚殿すらもう、今の袁家の家督には争う価値すら無いと判断した、という事かな?」
そうやや苦々しげに杯を呷る田豊に対し、私もただ黙って杯を重ね続けた。
「曹操殿に袁紹様。ここ十年の時代を動かしてきた御二人は既に亡く、あれほどの強盛を誇った袁家も今まさに消えようとしている、か。
やはり時代は着実に動き続けているのだな、田豊…」
「ああ、そうだな、沮授。 …民達の為にも、願わくば今度こそ統一へと向かわん事を!」
そして私と田豊は共に杯を掲げ… ゆっくりとそれを干した。
【他国の状勢】
・劉璋軍、劉表領上庸へ侵攻し同地を占領
・呂布軍、劉備領徐州へ侵攻するも敗退
<建安六年・十一月 〜前編〜>
冀州・平原。そこは落日の袁家に残された、文字通り最後の拠点である。
度重なる敗北によって殆どの将兵を失い、まさに窮鼠と化した袁軍は、この地にて起死回生の決戦を挑まんとしていたのだが… 平原城内の空気はただ重苦しかった。
「…袁煕様、それは真で御座いますか?」
「…ああ。兄上は『病』の為、直衛軍共々出陣されぬそうだ。 つまりこの平原の守りは審配将軍、あなたと董承の部隊に任せるしか無さそうだよ」
そう。既に布陣を開始しつつある張繍軍十二万余に対しただでさえ劣勢な我が軍は、私と董承殿率いる、総勢僅か一万七千余の残兵をもって臨むしかなくなった為である。
「…ふふ、父上が亡くなられてからまだ一年余りに過ぎぬというのにこの惨状とは。 結局天下の名門袁家は、一度たりとて碌な反撃も出来ぬまま無様に滅ぶという事さ。 …もっとも、正念場だというのに当主が前線にすら立たぬというのだ。そう考えてみれば、まあ似合いの最期と思うべきかも知れぬがな。
ふふふ、審将軍。私は冥府では、一体どのような顔で父上にお目にかかれば良いものかな?」
「袁煕様…」
「いや、済まぬ。下らぬ愚痴だな。 …将軍、現状については色々と思う所もあるだろうが、最後まで宜しく頼む。情けない限りだが、兵を持たぬ私にはそれしか言えぬ…」
そして袁煕様は顔を歪めて笑うと私に深々と頭を下げ、悄然と立ち去っていった。 私は何も言えず何も誓えず、ただ黙ってその後ろ姿を見送る事しか出来なかったが…
「袁煕様。今更ながらあなたこそ、殿のもっとも相応しい後継者だったのかも知れませんな…」
御家騒動の一方の当事者として、自分の責任を棚に上げた物言いだが…私はそう呟かずにはいられなかった。
(同刻・張繍軍本営)
「遂に… 遂にこの日が来たな、賈[言羽]!」
「はっ! ここまで長い道程ではありましたが、この戦いは我等にとって間違いなく大きな節目となりましょう」
洛陽を進発してより八ヶ月。わしは遂に、天下の名門・袁家討滅に王手をかける事が出来た。あの洛陽での死闘より此処まで… 流石に感慨は深い。
「敵軍は既に我等の一割強に過ぎません。さあ殿、御下知を!」
わしは賈[言羽]に促され、息を思い切り深く吸い込んだ。 そしてあらん限りの声を張り上げ、全軍に号令を下す。
「それ、者共。遂に逆賊袁家へと引導を渡す時が来たのだ! 全軍突撃、わしに続け〜!」
…こうして、決戦と呼ぶには余りにも圧倒的な戦いは始まった。
<建安六年・十一月 〜後編〜>
「くそっ、張繍。貴様如き、貴様如きに!」
結局敵の残兵は予想以上の奮戦を見せたものの、衆寡敵せず数日のうちに壊滅。
いち早く平原城へと乗り込んだわしは、城内の一室に御座した帝を無事我が手で御救いすると共に、密かに脱出を図っていた敵君主・袁譚をも無事にひっ捕らえる事が出来たのである。
そして今、奴は我が前へと引き出されていた。
「ふむ… 袁譚よ、貴様に投降を勧めても… まあ無駄だな」
「当然だ、誰が貴様の様な下郎になど! ふん、俺が…」
わしは埒も無い事を喚き散らすばかりの奴を適当にあしらいつつ、側に控えし夏侯惇を差し招く。
「夏侯惇、手間をかけるが此奴の処分もお前に任す。 好きにするが良い!」
「はっ。 …ほら来い! ふん、父はまがりなりにも狼であったが子は狗同然か…」
かくして夏侯惇は執拗に何かを喚き続ける袁譚を刑場へと引きずっていき… 群雄としての袁本家は、此処に滅んだ。
そしてわしは引き続き捕虜の引見へと移り、投降を表明した董承・辛評・辛毘を快く迎え入れ、潔しとしない袁煕・審配・毛介・呂翔・夏侯恩は解き放ってやった。
かくして河北全土と帝は遂に我が手へと落ち… わしは遂に『大義』と国力、その両面において最大の群雄へと成り上がったのである。
【諸国の状勢】
・呂布、袁術と同盟を締結。
<建安六年・十二月>
「何とか年内にけりがついたな、賈[言羽]!
これでいよいよ来年は…」
「はっ、呂布討伐で御座いますな」
所は未だ心なし戦塵が漂う平原城の一室。 ようやく袁家を葬ったわしはいよいよ南下を開始すべく、賈[言羽]と今後の方策を協議していた。
「うむ。 …しかし奴め、先に突如袁譚と結んだかと思えば、今度は袁術とも結ぶとはな。どうもらしくも無く手堅い策を弄してくるではないか!」
「はっ。私めも少々探ってみたところ、陳羣が呂布の参謀役を務め、色々と献策を行っているとか」
「陳羣? 奴は確か…」
「はい。以前は確かに徐州の官吏でしたが、先年劉備殿が呂布に大敗を喫した際、彼の者に降った模様です」
劉備の敗戦。それは先年呂布めに許昌を横取りされた腹立たしい記憶を呼び起こさせるものであり… わしは我知らず舌打ちを禁じ得なかった。
「ちっ、またも劉備の余波か! …まあ良い。今はまず呂布めを討つのが先決だ。奴の事は一先ず捨てておくか」
「はっ。劉備殿に関しても『名分』は検討しておりますが、やはり地理的にも大義の上からも、まず討つべきは偽帝と結んだ呂布でありましょう。 …つきましては殿、まずは一旦洛陽に御帰還なされては如何かと存じますが?」
「!? このまま濮陽を攻めずにか?」
遂に呂布めに借りを返す時が来た。そう意気込むわしにとって、賈[言羽]のその提案は一種虚を衝くものであった。
「はっ。 一つには陛下の御還座の為、もう一つには新たに呂布へ戦力を集中する体制を固め直す為です。 確かに先の敗戦により呂布軍は相当な打撃を被っており、このまま戦端を開いても問題は無いでしょうが… 劉表殿との同盟更新、各部隊の補充再編など不測の事態にも備えておくに越した事はありますまい。
それに彼の者と戦端を開くにしても、疲弊の極にあり守備も薄い濮陽より、一気に奴の生命線たる許昌を陥す方が何かと効果的でありますれば、その為にも…」
わしは賈[言羽]の意見を聞き、傍らの地図を見やりつつ色々と吟味してみる。
…確かに理がある。 宿願を前に、わしはいささか昂ぶりを禁じ得なかった様だ。 わしは奴に肯き、あらためて命を下した。
「うむ、考えてみれば確かにお前の言う通りだな。 事戦に関しては奴を舐める訳にもいかぬし、万全の備えをしておくのに越した事はあるまいな…
よし、賈[言羽]! まずは帝を擁し、意気揚々と洛陽へ凱旋するとしようか!」
「はっ!」
かくしてわしは都合九ヶ月に及んだ遠征を終え、悠然と洛陽へ帰還の途についたのである。 …新たなる戦に備えんが為に。
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