<建安八( 203)年・二月>
「ふむ。どうやらうまくいっている様だな、賈[言羽]…」
「はっ。田豊殿がとうとう典韋殿の誘降に成功致しましたし、陳宮殿・程c殿も良く役目を果たしてくれました。
これで備えは万全かと」
怨敵呂布を葬ってよりはや五ヶ月。新たな標的として目障りな劉備めを選んだわしは、来月の出陣を控え、ここ平原において最後の準備に余念が無かった。
「最終的な敵兵力ですが、北海に五万余、下[丕β]に二万余、徐州に九万余という事で間違い無い模様です」
「…我が侵攻軍が十三万六千余で、奴の総勢が十六万か。
ふん、劉備め。兵だけは随分とかき集めたものだな!」
「はっ… しかし大軍を統御する将と参謀を欠いた軍など、一度逆境になれば容易に烏合の衆と化すものです。ここは手筈通り『劉備』を狙うのが上策かと」
わしは賈[言羽]にゆっくりと肯く。そう、『常に劉備を相手に戦う』。それこそが奴の大軍を相手にする為、わしらが出した結論だったのである。
「あの騙り者に偽帝、両国を潰せば遂に中原は定まる。ふふ、あれから六年余… こうも早くにこのわしが中原の覇者になる日が来ようとはな!
賈[言羽]、それもこれも思えば皆其方の働きあっての事だ、今後もよろしく頼むぞ…」
「…気が御早いですな、殿。されど皆が力を尽くせば、必ずや殿の大望も叶う日が来ましょう。奢るのは禁物でありますが、必ずや…」
事態の順調ぶりに、思わず興奮を隠しきれぬわしの言。それに対し賈[言羽]は苦笑を浮かべながらではあるが…
力強く肯いた。
【諸国の状勢】
・孫策軍、リュウヨウ領建業を攻めるも大敗を喫す。
<建安八年・五月 〜前編〜>
「……」
「兄者、そう気に病まれますな。敵勢は連戦で疲弊しておりましょうし、此度は我等もおります。 この徐州を奢り昂ぶった張繍めの墓場にしてやろうではありませんか!」
「その通りだ、兄貴! 俺の突撃と関兄の兵略、それさえあれば奴等などものの数ではないさ!」
張繍と直接戦火を交え始めてより二ヶ月。そう、僅か二ヶ月のうちに相次いで奴に敗れたわしは、北海・下[丕β]と多くの将兵を失い、早くも本拠たるこの徐州へと追い込まれていたのだが…
関羽・張飛をはじめとした九万余の兵達の意気は、いまだ盛んであった。
「…うむ、そうだな! わしの受けた二度の縄目の恥も、此処で奴の首を上げる事で償われよう。よし、頼むぞ関羽・張飛!
こんな所で我等の夢を終わらせてなるものか!」
現在、張繍軍との兵力差は三万余り。決して逆転出来ぬ差では無い。わしは新たな闘志を燃やしつつ、徐州城を中心に全軍を展開させ、奴等を待ち受ける事にしたのである。
(同時刻・張繍軍本営)
「…殿。予想通り敵軍は、城を守る劉備を囲む様に布陣しております」
「ふふ、奴め。知らぬというのは幸せなものだな」
三月に平原を発してよりこの方、予定通り劉備を相手に快進撃を続けたわしは、一気に奴の死命を制すべく、はやこの徐州へと乗り込んでいた。
連戦で消耗した我が軍と敵軍の兵力は、およそ十二万対九万。本来ならば決して楽観出来る様な兵力差では無いのだが… わしと賈[言羽]は微塵も勝利を疑ってはいなかった。
「劉備の本隊は既に一万余りまで消耗しております。敵の守備陣さえ乱れれば、勝利は容易く我が方に転がりましょう
」
「うむ。合図は賈[言羽]、其方に一任する。では行ってくるぞ!」
「承知致しました。…殿、御武運を!」
そしてわしは兵糧を守る賈[言羽]に別れを告げると、直ちに全軍に出撃の命を下した。
「よし、進軍開始だ! まず各隊は手筈通り徐州城を中心に、弧を描く様に布陣せよ! くれぐれも敵の挑発に乗る事無く待機し、また合図があり次第一斉に城を目指して突撃を敢行するのだ。行くぞ!」
かくして、わしと劉備の決戦の幕は上がった。
<建安八年・五月 〜中編〜>
「公孫康及び王伉隊が敵と接触、交戦を開始致しました!」
「敵勢はこの城を中心に弧を描く様に布陣し、じっと様子を窺っている模様です!」
「…張繍め。その程度の挑発でわしが守備陣形を乱すとでも思っているのか? まあよい、あらためて関羽・張飛・麋芳・韓浩・呂翔各隊に伝令だ! 敵の挑発に乗る事無く、堅く持ち場を守れとな!」
遂に始まった我が命運を賭けた決戦。既に徐庶・孔融・陳珪といったわしの参謀達は敵に降ってしまっているものの、関羽・張飛が側に居る為か、わしは奇妙な程冷静に采配を振い続ける事が出来ていた。
わしを含む六隊の連携により、城に取り付いてくる敵軍を次々と打ち倒す。わしはこの策になんら不安を抱いてはいなかったのだが… 落とし穴は、後から考えれば馬鹿馬鹿しい程近くにその口を開けて待っていたのである。
…全ては、敵陣から上がった一発の狼煙から始まった。
「時は来た! 張繍殿、この韓浩必ずや約束は果しますぞ!
それ、我等の真の敵は逆賊劉備なり、攻撃開始!」
「不満のある者はどこへなりと行け! この呂翔は漢室への忠義を果すのみだ。
我に組するものはいざ、続け!」
狼煙を合図に突如発生した、我が右翼と前衛合わせて二万六千余の寝返り。それは守備体制の半ばを折ったのみならず…
「おのれ、恥知らず共め! 張飛、裏切り者共を叩っ斬るぞ!」
「おう、兄貴! ちっ、これだから元曹操の部下なんぞは信用出来ねえや!」
止める暇もあればこそ。激怒した関羽・張飛が韓浩隊へ突撃を開始した事により、我が守備陣形は根底から崩壊し始めてしまったのである。
そしてそんな我が軍の混乱を嘲笑う様に、更に上がった二発の狼煙。その合図と共に、馬蹄の響きを轟かせつつ一斉に我が元へ殺到してくる敵軍…
それに対し、裸同然となった我が本隊に抵抗する術は幾許も無く… 頼みの二隊を遊兵化させたまま徐州城はあっさりと陥ち、わしは三度目の縄目を受ける事となったのである。
<建安八年・五月 〜後編〜>
「劉備よ。三度目の正直とはいかなんだな」
「…全ては我が無能の故。言い訳はせぬよ」
戦い終わり、またも我が前へと引き出された劉備。この期に及んでも堂々たる態度を崩さぬ様は、確かに帝族の末裔を称するに足るものではあった。
「ふむ… 貴様次第では命を救ってやっても良いのだがな。どうだ?」
「…いや、止めておこう。どうやら我が野望は痴人の夢に過ぎなかった様だしな。無念ではあるが、潔くけりをつけてもらおうか。
ただ… 願わくば我が部下達には、寛大な処遇を願いたい」
「安心しろ、わしとてそのつもりだ。 …まあ、本人が望まぬ限りではあるが、な」
わしは思わず首を振ると、傍らの趙雲を一瞥し… 幾らも立たぬうちに、場には更に二人の大男が引き出されて来た。
「関羽、張飛。おまえ達…」
「申し訳ありません、兄者。我等がむざむざと敵の手に乗ってしまったばかりに…」
「すまねえ、兄貴。大口を叩いておいてこのざまだ。 …だが例え不出来な弟達でも、誓いぐらいは守れるというもんだぜ!」
劉備は口を開き何かを言いかけたものの、結局その言葉は発せられる事無く…
かくして三人は共に刑場へと引かれて行き、共にその露と消えた。
そしてわしはいつもの捕虜引見へと移り… 忠誠を誓った公孫康・王甫・麋芳を迎え入れ、あくまで屈しようとはしない麋竺・簡雍・王伉は解き放ってやった。
かくして無位無冠の身から二州の主にまで成り上がった一世の雄は、その義侠と共に消え去り… わしは累計五万に達する降兵を得ると共に、遂に揚州への道を切り開いたのであった。
<建安八年・七月>
「…そうか。結局そうなったのか」
「ああ、沮授。俺も正直な所何もこの時期に、とは思うがな。 帝の取り巻き達に言わせると、漢室の威信を示す為には一刻の猶予もならぬ、という事になるらしい。
…ふん、今頃殿は寿春で偽帝討伐に励まれているというのにな!」
所は帝都・洛陽。業務に一区切りついた私は、同じく暇を得た田豊と自宅でささやかな酒宴を張っていた。
そして「久々に政務を忘れて」という筈だった我らの会話は、結局またもいつしか、急遽決せられた新宮殿造営と偽帝討伐へと移っていったのだが… 今日の田豊の機嫌は甚だ悪かった。
「実際宮廷の方々は18000という金額の重みが判っておられるのであろうか? 優に五万の兵を募るに足る金額だという事が… 確かに漢室の威光は大事であろうさ。 しかし殿自ら最前線へと赴かれているこのかた、決して時宜を得たものとは言えまいよ!」
「…まあ確かにな。この洛陽こそ平和を謳歌し始めたものの、いまだ天下が治まった訳では無いのだからな」
余程腹に据えかねたのか、いつもより早い調子で杯を呷り続ける田豊。 そんな奴を見てなんとなく危うさを感じた私は、話を微妙に切り換える事にした。
「そういえば田豊、此度の戦でも諜報部が随分と暗躍していたそうだな?」
「ああ。民達の蜂起に関する打ち合わせ、敵将の魏続・凌操への内応取り付け等々… 郭嘉・程c・法正をはじめ、皆おおわらわだった様だな。 今も、手の空いた者ははやリュウヨウ軍の調査に乗り出しているらしいし… まったく、羨ましいぐらいの働きぶりさ」
「そうか。ではいよいよ偽帝も誅に服す時が来た、と言う事だな。これで叛地の民達も救われような…」
そして私はゆっくりと、田豊は次々と杯を重ねていき… やがて奴は不意に、朗々と言葉を発し始めた。
「天子とは民の父母なり。その責務は天に成り代わりて百姓を守り育てる事に他ならぬ。 天命は定かならずと言えども、民の膏血を絞り取り、己が栄華のみを求める者にいかで天命が下る事がありえようや!」
「…ああ、偽帝討伐の檄文か。驚いたよ」
私は突然の奴の大声に思わず杯を取り落としそうになったものの、ほっと息を吐くとあらためて奴を見やった。
…田豊は明らかに酔ってはいたものの、その眼は紛れも無く正気の態を現していた。
「ああ、その通り。その通りさ、沮授。だがな、俺は時に思う事があるのだよ。 果たしてこれは一人袁術のみを難じたものなのか、とな。沮授…」
そして不意に田豊の弁舌は途切れ… 気付くと奴は杯を手にしたまま、ゆっくりと寝息を立て始めていたのである。
「やれやれ、全く… 相変わらず激情の男だな」
私は苦笑を浮かべると、ふっと空を見上げつつ杯を呷った。
殿・軍師・陛下… 何故か様々な人々の顔が、不意に私の頭に浮かんでは消えていく。
「…さて。私も何かを決せねばならぬ日が来る、のかな…」
私はそう予感めいた事をひとりごつと、一足先に脱落した我が友を尻目に、一人月見の宴を始め出していた。
今はまだ…それで良い。そう私は思う。
<建安八年・八月>
「劉氏に代わって新たに天命を受けた」。 怪しげな予言書を振りかざしつつ、そう一人の野心家が称してより六年が過ぎ… 本拠寿春と多くの将兵を失った新帝国は、今ここ汝南において、早くも落日の時を迎えようとしていた。
…もっとも、今が「落日」と言えるほどの栄光が過去にあったかどうかも、甚だ疑問ではあるのだが。
「紀霊よ… 準備に抜かりはあるまいな!」
「はっ、陛下! 近衛軍六万五千余、既に完全に再編を終えておりますれば… 何時なりとも出撃が可能です」
所は汝南城・仮行宮。
ここ数日篭りきりであった居室より久しぶりに現われた皇帝は、大将軍のそんな力強い言葉に、満足げな笑みを浮かべた。
「うむ、良し! これからも続々と義兵が集まろうし、帝国はまだまだ盤石よ!
うむ、励め、励め…」
そして全身に濃い疲労の色を漂わせつつ、だがそれでも異様なまでの精力を漲らせた皇帝は退出し… その足音が消え去るのを待ち兼ねたかの様に、一人の将が口を開いた。
「…大将軍。あの、今の陛下のお言葉なんですが… 何かあてがあるんですかい? それとも…」
『もう錯乱しているんですかい?』流石に其処まで言うのは憚られるのか、らしくも無く口篭もるのは雷薄。 それに対し、紀霊は苦笑を浮かべつつも答える。
「…この所陛下は、不眠不休で領内各所及び近隣諸国にくまなく檄を発しておられるそうだ。おそらくその事を踏まえての御言葉であろうよ。
ちなみに今千人・千石も持参して馳せ参じれば、少なくとも列侯は堅いらしいぞ?」
「はあ、それは景気が良いですなあ」
そしてそんな「うまい話」に対し、日頃に比べると何とも気の無い反応を示す雷薄。
それに対して紀霊は、どことなくらしくない笑みを浮かべつつ問い掛ける。
「ふむ… 興味は無いかね、雷将軍?」
「ええまあ。 俺は別に官位が好きなんじゃなくて、それに伴なう権力や財力が好きなだけですからね。 十中九まで虚位、おまけに直ぐに死刑執行証明に変わりかねない様なものを欲しがるほど物好きじゃあありませんや…」
率直な、余りに率直な答えに、たまらず笑い声を漏らす大将軍と、それに対し、どことなく照れた様な笑みを浮かべる部将。
そんな二人の様子は、はや真近に迫ろうとしている「亡国」という現実に対し、何か場違いなまでに朗らかですらあった。
「ふふ。だがそれでも将軍は…此処で陛下の為に戦うのかね?」
「…ええ。そりゃ退散したいのはやまやまなんですが、残念ながら俺はここで少し名を売り過ぎました。 今更逃げたり降参しようとしても、逆にそちらの方が危うそうで…
だから俺は何よりもかけがえの無い我が身を守る為、死ぬ気で戦わせてもらいますよ」
そして両将の、形ばかりは冗談じみた真剣な会話は続き… やがて紀霊はにこりと笑みを浮かべた。
「そうか… いや、其方には悪いが、その言葉は百万の美辞麗句より信頼出来るというものだ。
よし将軍! ではお互い、己の為に最善を尽くすとしようか?」
「…お互い? 大将軍も、ですかい?」
余程意外であったか、今度は純粋に驚きの表情を浮かべる雷薄。 それに対し紀霊はにやりと、今度はどこかいたずらっぽい笑みを閃かせて言葉を継いだ。
「ああ。累代の主たる陛下の為に戦う、その気持ちにも嘘は無いさ。 だがおそらくわしはそれ以上に… わし自身が『紀霊』という名の武人であり続ける為に戦っているのだろうよ。
将軍にはくだらぬ事と思えるかも知れんが… それでもわしにとってそれは、命を懸けるのに充分過ぎる理由になるというものさ!」
かくして、
「偽帝と、それに組した者達は、端々に至るまで厳正に処断すべし!」
帝のそんな意向が漏れ伝わっていた事もあったろう、来月にも大軍が進撃してくるという状況下にも関わらず、追いつめられた袁術軍の士気は、まさに異様なまでに高まりつつあったのである。
<建安八年・九月 〜前編〜>
「ふむ…どうやら効果はあった様だな、賈[言羽]」
「はっ。まあ半信半疑という所やも知れませんが、さしあたっては充分でありましょう」
時は九月。寿春攻略に次いでいよいよ偽帝に引導を渡すべく、十三万四千余の精鋭を率いて汝南に進撃したわしは、布陣を進めつつ物見達の報告を受けていた。
どうやら我が名でばら撒いた「袁術以外は寛大な処遇をもって遇する事を約す」という文書には一定の効があった様であり… まずわしは、ほっと胸をなで下ろす事が出来たのである。
「うむ。これでどうやらわしは『王允』にならずに済みそうだな。 ただ… 止む得ぬ事とは言え、やはり陛下の顔を潰す形にはなってしまったな」
「…古人の言にも『戦地においては君命といえども従わざる事あり』と申します、あまりお気に病まれますな。
陛下の命を軽んじた咎は、偽帝討伐の功をもって贖う事に致しましょう」
そしてわしは賈[言羽]の言葉に肯きを返すと、直ちに全軍へ進撃を命じ… かくして、両軍合わせて二十万にも及ぶ決戦の幕は上がった。
「ええい、怯むな、怯むな! 天命は既に劉氏から去っておる、大義は朕にこそあるのだ! 怯むな〜!」
…あらん限りの声を張り上げ、全軍を叱咤する袁術。
「ふふ。これが袁紹様を破り、あの呂布めを葬った張繍軍か。流石に手強いわ…
それっ、かかれい! 天下の精鋭相手に目にものを見せてくれるわ!」
…必死に兵を指揮しつつも、どうにも武人としての喜びを隠しきれぬ紀霊。
「くそっ。こんな状況で、とんでもない奴等と必死に遣り合う羽目になるとは…我ながら似合わねえざまだな。
…ええい、こうなりゃ自棄だ、やってやる! それっ、突撃ぃ〜!」
…怒涛の勢いで迫る張繍軍に、なんとか決死の抵抗を図る雷薄。
そして両軍の激闘はそんな様々な思いを飲み込みつつも、程なく近衛軍壊滅・偽帝捕縛という形で幕を閉じ… 遂に「新帝国」は名実共にその最後を迎える事になったのである。
<建安八年・九月 〜後編〜>
「袁…」
「ふん、天道を解さぬ辺土の蛮人めが! 董賊の狗として都を騒がすだけでは飽き足らず、今度は劉氏の走狗となって朕の邪魔立てを致すとはな!
張繍、貴様の様な奴には判らぬだろうが… 既に漢の命数は尽きたのだ! 世は新たなる時代をこそ望んでおるのだ! それを、貴様如きが…」
戦いに敗れ捕われの身となり、我が前へと引き出されて来た偽帝・袁術。
わしはいつも通り声をかけようとしたのだが、奴の間髪入れぬ猛烈な舌鋒を前に思わず気勢を削がれ、つい沈黙を余儀なくされてしまったのである。
一方それを我が怯みとでも見たのか、奴は更にその長広舌を披露する素振りを見せたのだが…
「…偽帝殿。戯れ言はその程度にしておかれては如何ですかな?」
それは、我が後ろより発せられた冷たい声音によって、突如遮られる事となったのである。
そして、いつもの柔和な微笑みを湛えつつも、目は全く笑っていない我が軍師殿は、わしに軽く頭を下げると前へと進み出、奴に相対する姿勢を取った。
「な…何だ貴様は? 無礼な!」
「…なに、貴方の言われる辺土の蛮人の一人ですので、非礼の段はお許しあれ。
ただ偽帝殿、この期に及んでも自らの信念を曲げられぬ貴方には、その御高説を伺う前に是非とも御尋ねしたき儀があり口を挟ませて頂いたのですが… 宜しいですかな?」
「なに…?」
話の腰を折った無礼者の予想外な腰の低い物言いに、戸惑いと訝しさを交えた視線を向ける袁術。
それに対し賈[言羽]は、物腰ばかりは穏やかに口を開き始めた。
「一つ。天子とは、新たな天命を受けし者とは、当然天下を治めるに足る力量を持つ者かと心得ます。 しかるに僅か一州、いや淮南一帯すら満足に治め得なかった貴方に、如何なる所以があって天命が下ったのでありましょうや?」
「なっ…」
賈[言羽]の普段とはあまりに異なる、冷酷なまでに淡々かつ直裁な弁。
それは… 当の袁術はもとより、わしを含めた周りの者達すら一様に言葉を失う程の、粛然とした空気を醸し出すのに充分過ぎるものであった。
そして、奴はあくまで静かに、だが付き合いの長いわしですら思わずぞっとする程の気配を纏いつつ、言葉を紡ぎ続けていく。
「一つ。天子とは天に成り代わり百姓を撫育する者と心得ます。しかるに己が楽しみの為に長年に渡り民の膏血を絞り取り、絶え間無く塗炭の苦しみを味わわせ続けた貴方に、あまつさえその事を恥とすら思わぬ貴方に、如何なる所以があって天命が下ったのでありましょうや?」
「……」
「漢の命数が果たして尽きたのかどうか… それについては正直存じあげません。ですが仮にそれが正しかろうとも、その事と貴方が新たな天命を受けたかどうかは全く関係が無い事と愚考致しますが、その儀は如何でありましょうや?
また、もしそれでも貴方に真の天命が下ったという事であるのならば… その様な天と天命に、果たして何程の価値があると言えましょうか?
貴方が自ら『朕』と称するのなら、これらの儀につき、何とぞ我等辺土の者にも判る様に御説明頂けますまいか?」
賈[言羽]の、容赦の欠片も無い矢継ぎ早の詰問。それに対し袁術はあまりの屈辱と怒りの為か、顔を紅潮させ打ち震えるのみで、なかなか言葉を発し得ぬ様であった。
そしてその様を暫し見つめていた賈[言羽]は、わしの方に向き直ると、深々と頭を下げた。
「殿。思わず僭越の沙汰に及びました段、どうかお許し下さいますよう…
ただ僭越ついでに申し上げれば、これ以上あの者に関わったところで、何か益する事があるとも思えませぬ。 ここは予定通り淮南の市にて寸刻みの刑に処し、せめて彼の地の民達の溜飲を下げてやっては如何かと存じますが…」
今度は、そう穏やかに進言して来る賈[言羽]。
それは先程までの奴とは違う、わしの良く知っている賈[言羽]であり… わしは夢から覚めたような心持ちで頭を軽く振ると、奴に力強く肯きを返した。
「…うむ、それで良かろう。 よし、早速準備を致せ!」
そしてわしが見た袁術めの最後の姿は、なおも打ち震えつつ、無言で連行されていく姿であり… 此処に、一つの騒乱の幕は完全に降りたのである。
かくして奴の処断を終えたわしは、引き続いていつもの捕虜引見へと移り… 最後まで勇戦した紀霊・雷薄・顧雍等賊将と降兵達については、先の我が宣言通りその命を許して罪を贖う機会を与える事とし、一路洛陽へと帰還の途につく事とした。
中原の完全制圧と玉璽の奪還。それは汝南土産としては、まあ充分過ぎるものであろうて…
【諸国の状勢】
・劉璋軍、劉表領新野を占領。
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