<弾正記・第十章>

 

< 永禄八(1565)年・春 >

「あと一歩、じゃな」
 乱破どもの報告を纏めつつ、わしは思わずそう呟いた。
 天下の四強は、今や北条(539)・今川(469)・吉川(384)、そして当家(337)。
未だ我が地力は四強の末席ではあるが、当面の敵吉川家、そして東の二強との差は確実に縮まりつつある。
 …あと、一歩じゃ。


「さて、今後も吉川領を削っていかねばならぬのはやまやまじゃが、水軍がおらぬでは四国・九州までは手が出せぬわ。どうしたものかの…」
 水軍の整備。 それはわしが長年懸念しながらも、後回しにし続けてきた課題であった。勿論、理由は述べるまでも無かろう。

「それにつけても、金の欲しさよ…」
 先ごろ毛利の旧臣に見積もらせた所、強大な吉川水軍に対抗出来るだけの軍船を自前で用意するには、当家の歳入のまるまる一年分以上が必要との事であった。
 勿論現状で兵の補充や城の補修をなおざりに出来る訳も無く、実際整備を図っても、充足には数年の歳月が必要になろう。

「何か水軍を使わずに済む手立て、か。 さて…」
 考えにふけるわしであったが、ふと閃くものがあった。
「ふむ、まあ今の状勢ならやってみる価値はあるかの… 久通、久通は控えておるか!」
 とりあえず、今は可能な手立てを試みていくしか手は無いのだ。 わしは指示を下すべく、別室に控えている筈の久通を呼ばんと声を張り上げた。



「さて、うまくかかってくれれば良いがの…」
 わしの新たなる策、それは今いる敵勢は国規模で囲い込み、本州の内にて殲滅を図る一方、四国・九州に駐屯している敵勢は国境を手薄にして誘い込み、包囲戦ないしは野戦に誘い出し討ち取る、というものであり、なんのひねりも無い、ただ大規模なだけの包囲殲滅・誘因撃滅策に過ぎない。
 しかし我が方にも、隙をつかれれば実際に脆弱な内地を噛み破られる危険がある分、敵が乗ってくる確率はそう低くは無い筈である。

「ましてや相手が鬼吉川、ならばの。 どうも人柄を探った限りでは、座して衰亡を待つよりは、死中に活を求める男の様じゃしの」
 わしは薄く笑うと、ふっと空を見上げて呟きを漏らした。
「もっとも大抵の場合、死中にあるのは破滅なのじゃがの…」



< 永禄八年・夏〜秋 〜前編〜 >

「吉川勢はその主力を石見に集め、月山富田への反攻を開始致しました!」
 待ちに待った乱破の報を受けたわしは、一斉に各地に早馬を発して作戦の開始を告げた。
 月山富田救援と同時に行う、長門侵攻による敵退路の遮断。全てがうまくいけば、一気に吉川家の死命を制する事が出来るのである。
「ふふふ。橋を引きたる、鬼の吉川、か。武士としては天晴れな心意気じゃが、乱世の当主としては如何なものか
の…」
 わしは富田へと兵を進めながら、ふとそんな事を考えていた。



< 永禄八年・夏〜秋 〜後編〜 >

「まさに蟻地獄、でしたな」
 包囲網の完成を果たすや、藤賢がにっこりと笑う。
 作戦開始よりはや数ヶ月。 かつては元就の元で栄華を誇った敵勢は石見にてほぼ潰え、そしてここ郡山にて落日を迎えようとしていた。


「石見銀山も郡山城も毛利の栄光の象徴よ。そこを死守したくなるは人情の自然、というものであろうさ」
「最初から諦めて九州にでも落ち延びておれば、まだまだ再起の道は幾らでもあったでしょうに。 吉川、いや今は宍戸でしたかな。哀れな事ですなあ」
「宍戸隆家の首は、先日秀治が持って参ったわ。今は赤池長任なる者が跡を継いでおるそうじゃぞ」
「ほう、それは迂闊でございました。 …そういえば、長門でも親興殿が有馬・大村二将の首を挙げたと聞き及びま したが、すると?」
「うむ。 敵の名だたる将は、最早此処に篭る者共のみの筈よ」
 藤賢は一転して沈痛な表情を作ると、なにやら妙な手の動きとともに、ぽつりと呟いた。
「お気の毒に…」


(天下)
●有馬家滅亡。



< 永禄八年・冬 >

 郡山包囲陣を久通に委ねたわしは、この機会に畿内の大掃除を図るべく、石山へと兵を進めていた。

「いや、いよいよ一向宗総本山の成敗ですな。生臭どもが申す様に仏罰が下るか否か、楽しみですなあ」
 相変わらずにこやかな藤賢に対し、わしもにこやかに切り返す。
「なあに、残念ながらそちの願い通りにはなるまいて。奴等など己で何をほざこうとも、所詮は武力を頼りに割拠する法体の大名よ。もし御仏の霊威などというものがあらば、まずは奴等に示されておるわ」
「それは残念ですなあ。御仏の霊威と殿の邪気、どちらが強力かを是非にも比べたかったものを…」
 心底残念そうな藤賢に苦笑を返しつつ、わしは今後に思いを廻らす。
「(まずは本願寺、そして鈴木に畠山…‘次の大戦’の前に、まつろわぬ者共の片を付けておかねばの)」



 そして石山の戦は幕を開ける。我が軍三万に対し、坊主どもの兵は四千余り。
 無謀にも打って出て来た敵勢を簡単に蹴散らすと、わしは間髪いれずに本願寺の包囲を開始した。
 しかし、とても寺とは思えぬ堅固な作りであるこの地を一気に落とすのは至難であり、わしは無用な損害を出さぬ為にも、一軍をもって気長に包囲し続ける事にしたのである。


 なお包囲を開始してより間もなく、久通よりの早馬がわしの元に至った。
 郡山落城、長任切腹。それがわしと毛利勢力の丸三年にも渡った死闘の、あまりにもあっけない結末であった…

 

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