<弾正記・第十三章>

 

< 永禄十一(1568)年・秋 >

 年が明けても、当家の進軍は止まる事無く続いていく。
 今川の新当主・氏豊は、岡崎・掛川・高遠と何度か行われた万規模の野戦にもついぞその姿を見せず、義元殿が世を去られてより、かつての「中部・東海の覇者」の精彩は失われる一方であった。


「これまでの所、刈谷・清洲・岩村・北の庄・小浜・浜松・長篠・大聖寺の八城を新たに攻略致しております。本年も大勢においては予定通り、うまくいっていると言えそうですな」
 今川旗下の佐々勢一万余を鎧袖一触で蹴散らしたわしは、掛川城下の包囲陣で藤賢と、情勢の分析と野点の茶を楽しんでいた。
「うむ、そうじゃの。 …そういえば、北陸方面の攻略も順調に進んでおるようじゃな」


 そう、こちらの方面が大分落ち着いてきた為、わしは年頭に久通と二万余の軍を割かち、新たに北陸攻略に差し向けていたのである。

「はっ、若も随分奮戦なされております様で。先日も大聖寺にて上杉本隊を撃破なされ、上杉景信・大熊朝秀といった敵将の首を挙げられたとか」
「二万で五千の小勢を破った所で、自慢にはなるまいがの。 まあ、勝つ分には結構な事よ」

 わしは茶を喫しつつ、いささか久通の事を考えてみる。 まあ才も勿論じゃが、とりあえず彼奴には勝つ事で少しは自信と度胸を身に付けて欲しいものだ。

「ただ、問題は北条家の動きの様ですな。綱成殿の本隊が越中の諸城を攻略中、との報も入っております…」
「ふむ。最早今川は死に体と見て、綱成殿も先に上杉を叩きに参られたか」
 特にさしたる理由も無く、突如わしの頭に「好機」という言葉が浮かんで来る。
 …確かに何かに利用出来る事柄やもしれぬが、差し当ってはまあよかろう。
「さて、まもなく北条家本領とも全面的に国境を接する事になろう。 天下への山場じゃな」

 当家と北条家。 最近こそ国力面で大差がつきつつあるが、兵力差はまだ左程でも無い。
 北条の優に六万を超える大軍と当主・綱成の武勇は、当家を脅かすのに未だ十分過ぎるものがあった。

「御意。 黄八幡の実力、楽しみですなあ。
  あ、そう言えば殿、先日お側に挙げました藤孝、お眼鏡に叶いましたでしょうか?」
「うむ。腹も据わっておるようじゃし、なかなかの切れ者と見たわ。 良き者を推挙してくれたの」
「これは有りがたい仰せをば。あの者は遠縁ではありますが、我が一族期待の出来物でございましてな…」


 開戦よりはや二年。既に「強敵」としての今川家は、わしの脳裏からは消えつつあった…


(天下)
●浅井家滅亡。



< 永禄十二(1569)年・春 >

「遂にここまで来たか… さすがに感無量じゃな」
 挙兵より十五年目… 遂に当家の所領は1000万石を突破した。
 最早かつての二強たる北条(607)・今川(117)が仮に手を結んだ所で、恐れるべきものでは無い。

「あと一歩。日の本を、天下を制するまであと一歩よ…」
 わしは沸き立つ心を押さえるかの様に息を吐くと、能登への旅路を急いだ。
 北条家との決戦の前に上杉家に引導を渡し、越中に陣を張る綱成殿を刺激せんが為に…



「しかし… 北条・今川双方を相手にしてよくもまあ、今迄生き残って来たものですなあ」
 決戦迫る七尾城下にて、感に堪えぬ、といった風に清綱が唸る。
「軍神、という通り名が伊達では無いという事じゃな。だからこそわしも、こうして最大級の‘礼’を尽くしている訳よ」
 わしの言に、やや苦笑気味に清綱も肯く。
「成る程… 相手を上回る兵を用意するのが‘礼’ならば、確かにこれ以上丁重なものはそうはありませぬな」

 そしてそうこうする内、敵の喚声が我が耳にも飛び込んで来始めた。
「やはり打って出て来たか… さて、清綱、いざ軍神殿の戦歴に最後の華を添えてやろうぞ!」
「心得ております! いやあの謙信殿と戦えるとは、武士として嬉しゅうございますぞ!」

 かくして四万八千対三千、という16対1の戦いは幕を開けた。しかしこの圧倒的な戦力差の前には最早武略の介在する余地がある筈も無く、我が軍の半数以上が敵影すら見ないまま、一方的にその幕を閉じる事になったのである。


 そしてわしは間髪入れずに城攻めを開始したが、最早同家に我が大軍から城を守り切る力が残っている筈も無く、僅かの攻防の末に敵の抵抗は潰滅。 燃え盛る七尾城内で謙信は自害して果て、北条高広・村上義清等五将は城を出て我が軍門に降った。

 かくして天下にその武名を轟かせた軍神は、天へと帰っていったのであった…


(他国)
●北条勢、加賀に侵入。 金沢城を包囲開始。


(天下)
●織田(信行)家滅亡。



< 永禄十二年・夏 〜前編〜 >

「ち、父上。一大事、一大事でございます! 我らが退路が、金沢城が北条家の大軍に包囲されている由!
我らの軍は敵地にて孤立しましたぞ!」
 野陣にて手紙を書き綴るわしの元に、突如久通が血相を変えて飛び込んで来たのは、七尾落城後幾許もせぬうちの事であった。


「うむ、そうじゃの。綱成殿自ら率いる四万六千余の大軍が、十重二十重に金沢城を取り囲んでいるそうじゃな」
 わしが詳細を付け加えてやると、奴の狂態は益々悪化していった。
「よ、四万六千! 我が方とほぼ同数ではございませぬか!」
「うむ、一気に総力を結集してくるとはの…
 流石は黄八幡、義元殿や氏豊とは肝の据わり方が違うわ…」
「父上、何を呑気な… 既に越中方面にも万を超える敵影あり、との報もございますぞ!」
「ああ、それは氏豊の軍よ。いよいよ自棄になったか彼奴め、北条家に降ったとの事じゃ」
「…! な、ならば我々は…」
 わしの述べる詳報に益々不安を掻き立てられたか、一人で右往左往し続ける久通。
 その様にわしは溜息を漏らしつつも、不安を取り除いてやる事にした。


「…のう、久通よ」
「はっ…?」
「危機と好機、というものはの、存外隣り合わせである事が多いものよ。殊にそれが戦においては尚更、の…」
「……?」
 何やら困惑を隠せぬ久通に対し、わしはなおも言を継いでいく。

「予定では、高天神を落とした親興の二万四千が大聖寺に向かっておる筈じゃ。
つまりは、東西から北条勢を挟み撃ちにする体勢が取れる、という事よ」
「…で、では父上は始めから敵を誘い出す事を?」
「まあ、の。一気にこれほどの大軍を集めてくるとまでは思わなかったが、奴ならばわしを討ち取れる絶好の機会 を逃すまい、とは思うておったわ」
「……」
「さらに言えばの、今越中を攻め落とせば北条勢も随分と面白い事になるわ。
…孤立し殲滅の危険を孕んでおるのは奴等も同じよ」
 まだ頭の中が混乱しているのか、なおも呆然としている久通を、わしは一喝した。


「久通! 呆けている暇があったら直ちに越中・富山へ攻め入り、敵の退路を絶ってくるのじゃ! この戦、まさに天下分け目ぞ!」
「ぎ、御意!」
 慌てふためき、脱兎の様に駆けていく久通を見送り、わしは思わず苦笑を浮かべる。
「全く、なんとも線の細い奴よの。 これでは先々が思いやられるわ…」
「…殿程の神経を持たれる方など、そうはおりますまいがな」
 突如聞こえた声にわしが後ろを振り返ってみると、いつの間にか側にやって来ていた清綱が、わしの呟きを耳にしたらしく苦笑いを浮かべて佇んでいた。

「ふん。…来たか、清綱?」
「御意。西方より上がりしは、確かに三つの狼煙でございました。無事親興殿は大聖寺まで参着された様で…」
「ここまでは手筈通り、か… よし、我等も出陣じゃ!
敵も大軍、気を引き締めて掛からねば、逆に我らが黄八幡にとって食われようぞ!」


 かくして我が勢五万三千余と綱成勢四万六千余の激突、世に言う「坊津の戦い」の幕は、間もなく切って落とされようとしていた…



< 永禄十二年・夏 〜中編〜 >

◆越中・久通勢◆

 父上の命を受けた私は、敵の退路を遮断すべく二万五千の兵をもって越中へと進撃していた。

「敵勢は一万六千。数と部将はまあたいしたものに見えますが、如何せん、総大将があれでは…」
「敵勢の士気の弛れ具合、とても戦をする気がある様には見えませぬな。
若、所詮はあの氏豊ずれ。一気に蹴散らしてやりましょうぞ!」

 私の左右に馬を立てる米原綱寛と中村則治が、そう口々に総掛かりを促す。
 …我が軍の急進の為か、突然の降伏の為か、勿論理由までは解らない。 だが確かに、私ですら感じる程敵勢は浮き足立っている様だった。

「あい解った。…一気に片をつけるぞ! 全軍、突撃!」
 かくして私の号令一下、我が軍は地を揺るがす程の大喚声と共に敵陣へと斬り込んでいったのである…



◆同時刻・加賀坊津◆

「流石は綱成殿。見事な布陣ですなあ」
 そう、親興が惚れ惚れと敵陣を見つめている。
 南北にずらりと立ち並ぶ槍の林、そしてその中央に威風堂々と聳える「三つ鱗」と「八幡」の旗…
 それはまさに堂々たる決戦の陣であった。

「ふふふ、お互いこの戦に破れれば殲滅されかねんからのう。まさに天下分け目よ」
  わしもにやりと我が陣を見つめてみる。
  我が軍も敵勢と同じく、南北より槍の林を連ねて全てを喰らい尽くさんとする、威風堂々たる決戦の陣であった。


「親興、左翼の差配はそなたに任す! 伊丹軍の強さ、久方ぶりに存分に見せてもらうぞ!」
「御意! 殿、我らが武功を独占してもお恨み下さいますな…」
 にやりと笑みを残し、親興は陣へと駆け去っていく。わしはそれを見送ると、我が直属のつわもの達にあらためて顔を向ける。

「直正・清綱・藤孝、準備は良いな!」
「御意!」
「今は言わせておきましょう。我等が家中の最精鋭であるという事実を、敵にも親興殿にも見せ付けてやりますぞ!」
「我が隊も、今か今かと出番を待ち兼ねております… 殿、御下知を」
 わしは三者三様の返答に肯き返すと、法螺を吹かせ合戦の開始を告げた。
「それ、天下の行く末を賭けた大勝負じゃ! ものども、思う存分槍働きせよ!」


 両軍の総力をぶつけ合う死闘が続く中、わしは敢えて我が本隊を最前線へと向かわせていた。
 …そこには黄金の八幡旗と綱成殿の胴間声が、高らかに響いていたからである。

「綱成殿、お初にお目にかかる。この久秀のお相手は如何かの?」
「おお、久秀殿か! …天下一の梟雄が首、この黄八幡が頂戴致す、いざ! 勝った、勝った!」

 高笑いと共に、綱成殿の騎馬隊がわしの本隊を蹂躪せんと突入してくる。
 そしてその猛攻はやはり並大抵のものでは無く、瞬く間に我が精鋭が千を越える被害と壊乱の兆候を見せ始めた程のものであった。
 しかしわしは兵を励まし、必死に四半刻あまりの時を耐え抜く。 敵に流れを変える一撃を食らわすその時まで…


 やがて馬のいななきが、馬蹄の響きが、綱成殿の左右を包み込む様に木霊する。
 わしの虎の子たる直正と藤孝の両騎馬部隊が、遂に敵本隊の側面へと回り込む事に成功したのである。
 …そして乱戦の最中、綱成殿を咄嗟に支援出来る敵勢は既に周囲には居なかった。

「赤井直正、参る! 黄八幡殿、いざ御印頂戴仕る!」
「細川藤孝見参! 綱成殿、お覚悟召されよ!」

 そして両隊に呼応し、わしも体勢を立て直しつつ即座に反撃に転ずる。
「それ、いまこそ好機ぞ! ものども、かかれ、かかれい!」

 …かくして金色の八幡旗は泥土の中に倒れ、我が軍は勝鬨を挙げた。坊津においても、勝利は我が手に落ちたのである。



< 永禄十二年・夏 〜後編〜 >

「でかしたわ、久通…」
 わしは次々と届けられる北条家諸将の首級を前に、遠く越中に居る筈の息子を、珍しくも心中でほめそやしていた。
 奴が先んじて富山を落とした事により、北条勢はこの地にて文字どおり一網打尽となったのである。

 綱成殿を筆頭に、氏繁・氏政・氏照・氏忠・氏邦等北条一門衆の首。小山・千葉・小野寺等外様諸侯の首。浅井長政・本庄繁長・色部顕長等重臣達の首…
 それはまさに、まごう事無き北条家主力の壊滅であった。


「これで天下は定まりました、かな」
 親興がにっこりとわしに笑いかけてくる。
 奴はあの激戦を誇示するかの様に、未だ泥と返り血に塗れたままの格好であった。
「まだ、まだよ… 勝ち誇るのは、東国全てを討ち平らげてからで良いわ」
 わしのその返答に、親興の笑みも益々大きくなる。

「ならば、まだまだ武功の立てがいがございますな! いや、楽しみでござる!」
 呵呵と笑いながら陣へと戻る親興を見送りつつ、わしはとりあえずは兵を休ませるべく全軍へと下知を下す。
「皆の者、大儀であった! 今宵は思う存分、勝利の宴を楽しむがよいぞ!」

 それが、天下分け目の大戦を制したわしの勝利宣言であった。


(天下)
●北条綱成討死。 旗下大名葦名盛氏跡を襲い、葦名家となる。



< 永禄十二年・冬 >

 北条家が変じて葦名家になったとて、奴等が従わぬ限りわしの進撃が止まる事は無い。久しぶりに勅使が我が元を訪れたのは、わしが小諸城の包囲にかかっていたそんなある日の事であった。
 なおその御状とは、忝けなくも諸国征伐の功を賞しての御昇進の沙汰ではあったのだが…


「しかし右大臣とは… また随分急な御沙汰よのう」
 幾つもの位階を飛ばしての突然の叙任。それもあの先例に喧しい公卿達の所業という事を考え合わせれば、いかにわしとは言え、いささか戸惑わずにはいられなかったのである。

「やはり殿があまりに官位に無関心ですので、朝廷の面々も恐れを抱いたのではありますまいかな… 」
 のんびりとした調子で、藤賢がわしにそんな意見を述べてくる。
「恐れ、じゃと?」
「御意。 なにしろ殿は何をしでかすか解らぬお人、という専らの評判ですからな。まあ様子見と御機嫌取り、という事でありましょうよ」
「ふ、そうか。 …もしやわしが主上を弑し奉る、とでも噂が流れておったのかの」
「そうですな。まあ他にも天下の神社仏閣を焼き払うとか、穀潰しの貴族達を悉く配流するとか、まあ面白き噂には事欠きませぬ様で…」
 そして何故か妙に嬉しそうに、藤賢はわしに自身で耳にしたという噂の数々を披露してきた。

「…全く、わしはまるで悪鬼羅刹か鬼畜天魔の様に思われておるじゃの。まあ、痛くも無い腹を探られるのもつまらぬしの、此度はありがたくお受けするとしようか」
 くだらぬ事ではあるが、流石にわしも苦笑せざるを得ない。まあ悪い噂を流される覚えなど、今更あらためて考えてみるまでも無い事であるし、気にしても仕方無き事であろう。


「御意。もし執り行うにしても、今しでかす必要は無いでしょう。
 やはり楽しみは天下統一後に取っておいてもよろしいかと…」
「藤賢… まさかお前が噂の火元ではなかろうの?」

 

元亀元年へ


戻る