<弾正記・第三章>

 

< 弘治三(1557)年・春 >

 乱破どもの報告をちとまとめてみる事にする。 現在の天下の大国は、北条(52万石・万石は以後略)・今川(93)・武田(67)・越後上杉(94)・朝倉(76)・毛利(86)・大友(73)・島津(53)といった者達の様である。

 当家の今の身代は59万石。決して悪くはないが、今川が美濃まで進出し、朝倉が中国へと食指を伸ばしつつある現況では、到底うかうかとしておられぬわ…


 そしてわしは、次に近江への足掛かりを築くべく、直率四千をもって新たに六角領・勢多へと兵を進めた。
「義賢めが他国に出払っている隙に、向こう脛を蹴り飛ばしてやるか!」
 藤賢からは安濃津攻略の報も入っておる。わしも後れを取るものか。


(天下)
●織田(信行)家が今川家に、小山家が北条家に降る。
●肝付家滅亡。



< 弘治三年・夏 >

 近江・勢多が我が手に落ち、守将・島秀安はわしに降った。
 元々はわしと藤賢の二人で始めたこの戦であったが、こうしてだんだんと将が増えてくるのは喜ばしい事だ。


(他国)
●蘆田勢山城に侵入、二条城を包囲す。


(天下)
●長曽我部家・尼子家・相馬家滅亡。



< 弘治三年・秋 >

 若狭方面で変事があったとの報が入る。突如朝倉重臣・堀江景忠が謀反を起こし自立したらしい。
 他家の、それもごく近くの他国の不幸は我が家の吉報である。せいぜい周囲を掻き回して欲しいものだ。

 とりあえずわしは二条城の救援を最優先で行うべく、自ら四千余の兵をもって出陣した。 だが結局単なる空き巣狙いだったか、蘆田勢はこれまたあっさりと兵を退いていった。
 まあこれで敵地で孤立、という最悪の事態だけは免れたのだ。 奴の意図はともかく、とりあえずは良しとすべきであろうて。

 …もっともそんなわしの安堵は、結局長野勢の安濃津奪回の報を聞くまでの短い間でしかなかったのだが。


(天下)
●山内上杉家が越後上杉家に降る。
●里見家・山内上杉家・土持家・山名家滅亡。



< 弘治三年・冬 >

 今川勢は近江・美濃付近で斎藤・六角両家と確執を繰り広げ、鬼十河は四国切り取りに全霊をかけ、朝倉勢は山陰進撃と堀江家討伐に力を注いでいる。
 …いずれもそう遠くない時期にわしの前に立ちはだかる者達であろう。

 かくして奴等にあたる前に少しでも身代を増やすべく、わしは引き続き藤賢に長光寺への進撃を命じた。
 一方安濃津を奪回し図に乗ったか、長野勢が大和に乱入し信貴山城を包囲した、との報も入って来る。 さて、国司殿と同じ目を見せてやるのも一興か…


(天下)
●阿蘇家が島津家に、波多野家が朝倉家に降る。
●伊東家滅亡。

 

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