< 永禄七(1564)年・春
>
年は明けたが、わしはひたすら攻めに徹し、吉川領を侵し続ける。
二度の合戦に勝利したとは言え、依然として吉川家とは大きな地力の差がある事に変わりは無いからである。
奴等に体勢を立て直す暇を与えては、当家に傾きつつある状勢など、何時またひっくり返るやも知れぬ。今は少しでも敵地を削り、当家を太らせておかねばなるまい。
一方武田家も最早放ってはおけぬ。たとえ敵の背後に北条家の威光があろうとも、奴の様な「狐」を野放しにしておいては、いざという時にどんな変事を招かぬとも限らぬ。
「吉川家の牽制に役立つので今迄は手を出さずにおったが、あえてわしの尾を踏むと言うのなら、その期待に応
えてやらねばの…」
わしは高松攻めの軍から一万の兵を引き抜き、一路鳥取城へと向かった。しかるに高信はわしの進撃を知るや城を捨て逃げ去り、わしはあっさりと同城を取り戻したのであった…
(他国)
●吉川勢、岡山城を包囲。
< 永禄七年・夏 >
鳥取奪還より幾許も経たぬ中、突如武田家重臣・佐世清宗が当家に馳せ参じて来た。
東からわしに、西からは吉川に攻められている武田家中は早晩自壊するであろうと予想してはおったが、はしなくもそれが露になったと言えよう。
またわしは、鳥取城の備えを固めるや岡山城を救援すべく軍を発したが、城を包囲していた吉川勢は、わしの主力軍を見るや否やあっさりと讃岐へと引き上げていってしまった。
強力な水軍を擁して自由に海路を行き来する奴等に対し、元来大和より勃興した当家にはまともな水軍力と言うものが無い。
何とか策を講じねばならぬが、先立つものは兵備で手一杯なのが現状である。
さて、九州・四国攻めにも絡むこの問題を如何にしたものであろうか…
(天下)
●朝倉家滅亡。
< 永禄七年・秋〜冬 >
前々から不審な挙動を見せていた大村純忠がとうとうその姿を消した。夜陰に乗じ、吉川家へと帰参した様である。
「ふむ、一年半か。土産が役に立ってくれればよいがの…」
奴には様々な当家の「内情」が伝わる様に、わしとしても微力ながら協力して来た。是非それらが今後の吉川家を導く指針になって欲しいものだ。
この秋、わしの最初の目標は武田領・米子。吉川勢の猛攻を受け、まさに落城せんとしている同城を救い、当家で「保護」する為である。
そしてわしが一万八千の兵を進めると、既に高松城陥落により退路を失っていた包囲軍六千は、わしに対し決死の野戦を挑んで来た。
そして一気に敵本陣を潰さんと進撃したわしは、中途にて意外な知己と再会する事となったのである。
「ふふふ、こんな所で会おうとはの。久米田以来か、友通?」
「…! 久秀っ! 貴様が、貴様さえ謀反を起こさねば三好家も、わしも…
貴様だけは生かしておけん!」
そう、それは怒りに震える三好家の遺臣・岩成友通であった。
「ふむ、まあ少しは落ち着け、友通よ。わしとは違いそなたの金石の如き忠義には、今は無き長慶殿・義賢殿もお喜びであろうてな…」
「ひ、久秀、貴様っ〜!」
わしの当て擦りに激怒した友通は、旗下部隊に一気に突撃を命じた。
しかし残念ながらその命は実行される事無く、敵陣は側面より崩れたっていった。
「直正、後は任せたぞ!」
「承知!」
そしてわしは奴の憤怒の叫びに送られつつ、敵本陣へと斬り込んで行った…
かくして此度の戦いもわしの勝利に終わり、米子も垣屋・甲斐・岩成、そして御曹司輝元という、毛利勢四将の墓標となった。
そしてわしは勝利の凱歌を挙げつつ、勢いに乗り武田本拠・月山富田へと兵を進めて行く。
なお高信が重臣・山中鹿之助と共に自害して果て、山陰が完全に我が手に落ちたのは、この年の冬の事であった…
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