『煙草』
春の風があたたかく頬をなでる。
屋上のフェンスに寄り掛かり、ぼんやりと空をあおぎ見ていた。目にしみ込む程に空は青く、春の空とは思えないくらい、高い。とてもいい天気だ。
学生服のポケットに手を突っ込んだ。握りつぶした紙が手に触れ、取り出すとそれは煙草のパッケージで、ほんの少し唇をゆがめるようにして笑みをつくった。
すっかり忘れていた最後の一本を取り出すと、もう一度学生服のポケットに手を突っ込んだ。
口にくわえ、少し息を吸いながら、火をつける。…少しむせた。
「あー…、ひさしぶりだからなぁ」
呟くように言うと、からだを反転させて、フェンスに額をあずけた。少々、食い込んで痛いが気にする程度ではない。
校庭ではどこかのクラスが体育の授業をしているらしく騒々しい。ぼんやりとそれを眺めていた。
「こら、美鞍葛馬!」
いきなり自分の名前を、怒鳴るように呼ばれ慌てて振り返った。
「や、これは、煙草じゃなく…っ、…ってお前なぁ」
「へっへっへっ、ひっかかってやんの」
つうかどっからどう見ても煙草だろ、イッキはにやにやと嬉しそうに笑いながら隣にくると、フェンスに寄り掛かる。そうして、口にくわえていた煙草を奪うと、自分の口にくわえた。すぅーと息を吸った後、思いっきり咳き込む。
「なんだよ、だっせぇなぁ」
「うるせっ。お前だってちょっとむせてたじゃん」
「…見てたのかよ」
バツの悪い顔をすると嬉しそうに笑い
「見てた見てた」
とからかうように言うと、煙草を差し出した。
それを口で受け取り、悪趣味、とちいさな声で吐き出す。
「しょーがねぇだろ。久しぶりだったんだからさ」
「俺も久しぶりだったから。つってもこれで2回目だけどな」
「じゃあ…あん時以来、か」
「そーそー」
あれは多分中学生になって初めての夏休みだったと思う。
いつもの3人で集まって、こっそりと煙草に火をつけた。火がつかないだとか、ついたはいいがむせて大変だったとか、ぎゃあぎゃあ騒ぎながらも楽しかった。
その時の事を思い出して、ふふ、と笑う。
「お前は笑い事かもしれねぇがな…俺の話にはまだつづきがあったんだ」
やたら真摯な顔で語りだした。
「お前らと別れて俺は家に帰る」
うん、とうなずくと口にくわえた煙草が上下に揺れた。
「そしたらさ、リカ姉がいて、ただいまーつって廊下ですれ違った瞬間」
その時の事を思い出したらしく、ちいさく体を震わせた。ひとつ、ため息を つく。
「言うんだ。…イッキ?なにか煙草の匂いがしませんか、ってな…」
そこでうつむくとぽつりと言う。
「俺はその時思ったね…いますぐここから逃げだす方法はねぇかって、それが無理なら今すぐ死ぬ方法でもいい!…と」
いやぁ現役女子レスラー(覆面)の嗅覚をなめちゃいかんね、とわけの分からないことを呟くと、ああ恐ろしいというように頭を振った。
とりあえず、死んだ方がいいような目にあったということか。そういえば、次の日遊びにいったら浮かない顔をしていたように思う。あまり、覚えてはいないが。
幸い、というかのは分からないのが、姉は煙草の匂いに気付いたことはない(もっとも家や自分の部屋で吸ったことはないのだが)。そんなことをぼんやりと考えていたら
「それ以来吸ってねぇの。だーかーら」
ひょいと手早く煙草を奪い取った。取りかえそうと手を伸ばすが、
「だめだめ。これは没収」
言って地面に落とすと、足で踏み付けた。
「あーあ、最後の1本だったのに」
「いいんだよ。お前もやめ、な」
笑いながら言われるとなんだか腹が立つ。すねるように、
「俺は、やめるつもりだったつぅか、忘れてたし」
「どゆこと?」
「だから、その、そんなひまあったら、練習したいわけ、だよ」
その答えをきくと、さらににやりと笑う。
「エアトレックバカ」
「お前には言われたくねぇ」
すねるように唇をとがらせた。
その横顔に人の悪い笑い声をたてたイッキは、不意に、穏やかな笑みを浮かべ、手を伸ばしふわりとカズの頭をなでた。
「な、なに…」
「なにってお前さ、まだ負けたこと、気にしてんだろ?」
「…!」
気付かれないようにふるまっているつもりだったのに。
「あんま考えすぎるなよ。チーム自体は勝ったんだし、…自分のことだけ考えて、さ」
にっと笑うと軽い口調で、気負いすぎ、と言った。
何も言えなかった。その様子にイッキは穏やかな笑みを浮かべたままくしゃくしゃと頭をなでた。
「俺は」
ぽつりと、呟くように言葉を発した。
「…やっぱり、勝ちたかった。チームの為に、お前の…為に、なにより自分の為に」
ふっと自虐的な笑みを浮かべるものの、それは一瞬で消え去って、きつく眉根を寄せた。
「……すっげぇ、悔しい…」
弱音を吐くのは初めてだった。あの時の悔しさは今でもはっきりと思い出せる。それと同時に心の隅で思う。
(嫌だなぁ…こいつ。なんで、こん時ばっかり…)
優しくなるのだろう。
無神経な発言だってするし、自分が一番目立ってなきゃすねるし、いつもいつも前だけ見てるのに。
それなのに、時々こうやって手を差し伸べる。
(…嫌な奴)
そのことが嬉しいのも事実ではあるが、嬉しく思ってしまう自分が気恥ずかしくて、心のなかで呟く。
「俺、あいつに…勝ちたい」
まっすぐに見つめてそう言った。
「どんだけ時間がかかってもいい。あいつに…エアトレックで、勝ちたい」
無理かもしれねぇけど…と弱く言った瞬間、ぱん!と頬を両手で叩かれた。その後、包み込むようにして、ぎゅと力を込める。
「弱気になってんじゃねーよ!お前だったら大丈夫だっての。俺が言うんだから間違いねぇよ」
にっと笑う。…けれど、一瞬、どこか遠くを見る目をしたような気がした。
「よし!じゃあ頑張れってことで」
不思議に思う間もなく、唇を押し付けられた。
「…!」
引き剥がそうにも腕力が違う。顔だけ引こうとしても両手で押さえ付けられて、痛い。
「…ぷ、はっ」
数分してようやく解放され、新鮮な空気を慌てて吸う。
「お前なぁ!」
息を乱しながらにらみつけると、うはは、と嬉しそうに高笑いをしている。
「頑張れよ!」
その笑顔にもう一度思う。
(…ほんとに、嫌な、奴…)
ほんの少し涙がにじんで、気付かれぬように顔を伏せた。
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ぼんやりと、気付かれぬように、いまだぶつぶつ言い続けているカズの、耳の後ろのあたりを見つめる。少し、赤くなった耳とそこからすんなりと流れる首のライン。こうやって下から見上げることなんて初めてじゃないだろうか、と考えた。
(自分の道…か)
心臓の側面が、すこし、焼けるような。その感触に、目を閉じた。
ただのわがままだと思う。ずっと自分の後ばかり追い掛けてくれた。そのおかげで頑張れたことが何度もある。与えられる期待と信頼。それがなくなるわけではないけれど、やはり淋しい。
(ま、進む道は違うけど…)
多分、その道は隣にある、と信じている。
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