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静かな、四角い部屋の中で目が覚めた。
どこかで水の匂いがする。不思議に思い、それから自分がどこにいるのか分からずに軽く混乱した。ゆっくり上半身を起こすと、体の節々が痛みを訴える。そこでようやく全てを思い出した。
「…負け、たんだ…」
ぽつり、呟くと顔を歪ませて、きつく手を握りしめた。
握りしめた手を額に擦り付けるように俯いた、その時
「大丈夫ですか」
優しく声がかけられた。
声の主を確かめるようなことはせず、俯いた姿勢のまま小さく目を見開いた。一体誰が声をかけたのか、元々この四角い部屋には2人しかいないのだから考えずとも分かる。
ただ、もういないと思っていた人物が、いまだこの部屋に留まっている事を疑問に感じたが、その理由を本人に尋ねる気はない。ただ、煩わしい、とそう思った。
「…なんだよ、勝ったんだから…さっさと、帰れよ」
不愉快をにじませて言うと、困ったように笑う気配がした。罵倒の言葉が脳裏をよぎったが、どれも言葉にできず、唇を軽く噛んだ。
負けたことを突き付けられている気がして嫌な気分だった。掠れそうになる声を押さえ、ゆっくりと呟く。
「あんたが、あんたが…いると、な、泣けも、しねぇじゃんか…」
ようやく吐き出した言葉を聞いても立ち去さず、それどころか労るように頭の上に手を置いた。すぐさまその手を叩き落とす。
「やめろよ!そんな事、されたって…ッ」
目蓋が熱をもって熱い。目の前がぼんやりと霞み、咽の奥が焼けるように痛んだ。
悔しい。
涙がこぼれないように、目の前の地面を睨み付けるだけで精一杯だった。
「…怪我は?」
少しの間、俯いたままのカズを見つめていたが、静かに口を開いた。
返事はない。
膝をつき、覗き込むようにして視線を向けると、その視線から逃れるように顔を反らした。きつく、唇を噛み締めている。
「血が」
あごに添えるように手を差し出し、親指で下唇を軽く押した。指先に少しだけ血がつく。そんな事には構わず、やや無理矢理に顔をあげさせる。わずかな抵抗を示したが、気力がないのだろう、あっさりと上を向いた。
泣き出しそうに顔を歪めているくせに、まっすぐ、目の前の男を睨み付けている。その表情に笑みを浮かべ、静かに口を開いた。
「こんな風に、戦った相手を気にかけるのは、初めてです」
本当に偽りなく、と苦笑を浮かべ呟く。
「こんな言い方は失礼ですが、本気を出して戦う、そんな事は予想も出来ませんでした。それなのに、僕の本気を引き出したのは、君です。…いつもの、ように籠の中に閉じ込められた小鳥を、弄び、そして終わらせる。ただそれだけの、いつもと変わらない、試合だと…」
優しく微笑み、困っているのか、少し首を傾げた。照れているようにも見えた。
「…君は、強くなる」
一瞬、口を噤んだ。
「もしかしたら…僕よりも。僕は、…」
その手助けをしてみたい、言葉をのみこみ、何故そんな事を思うのかとちいさく頭を振った。
その仕草に睨み付ける目の光を少し弱めると不思議そうな、というよりは不審と言った方が正しい、視線を向けた。視線を受けて、なんでもありません、とほんのすこし眉を寄せて笑う。
ふと、色素の薄い茶色い目に、自分の姿が映っているのをみつけた。
(ああ、なんて…まっすぐに僕を見るのだろう)
例え、嫌悪や不信、警戒心であっても構わない、はっきりとそう思った。
「…君の、名前は?」
質問に、嫌悪感を露にして答えた。
「言いたくない」
視線を反らすためにうつむく。
一体なんの為に、あんな話をしたり、負けた者の名前なんて知りたがるのか、行動の動機が分からなかった。いまだ心に燻っているのは負けた悔しさと情けなさ。それが目の前の男への苛立ちに変わりはじめている。
落ち込む事さえ許されないのか、今だけ泣いてしまえばあいつの前で泣かなくてすむのに、と吐き捨てるように思った。
そんな感情になど気がつかないかのように、ぴしゃりと言い放つ。
「言いなさい」
その物言いは冷たく耳を打ち据え、負ける直前の様子を思い出させた。思わず身が竦む。それでも、素直に言ってしまうのは嫌で、唇を噛む。その様子に思わず苦笑をもらすと、今度は優しく囁いた。
「…教えてください。君の名前を」
一瞬、上目遣いに左を見ると、ようやく重い口を開いた。
「美鞍葛馬」
簡潔にそれだけ言うときつく口を引き締めた。呟くような声だったがきちんと聞こえていたようで、満足そうに笑う。
「今度、字を教えてくれますか?」
答える事はせずに押し黙った。その様子にやはり苦笑を浮かべる。
押し黙ってしまう気持ちは分からないでもない。勝者と話をするのは時間が必要なのだろう。そう分かっていても、この機会を逃す訳にはいかない。
「では…目を、閉じてもらえますか」
「…なんで」
問いには答えず笑顔で、目を閉じて欲しい、と促した。暫くの間、怪訝そうに見ていたが、ゆっくりと目蓋をおろした。
はやくこの場から解放されたいのだろう、素直に従った理由を考えながら、目の保護を目的とした眼鏡を外す。
頬を両手で囲うように触れ、頭を寄せた。濃い落ち着きのある茶色の髪と、色素の薄いやわらかい色をした髪が混ざる。額にふれる感触に身を引こうとするのを許さず、力を込めて軽く引き寄せた。
「なに、を…」
言い終わるのを待たずに言い放った。
「目は閉じていなさい」
反射的に目を閉じてしまい、その事が不愉快だったのだろう、眉を不機嫌そうに寄せた。
(この子の人生に関わりたい)
たったそれだけの仕草に胸がざわめく。
唇を重ねた。
唇が触れた瞬間、目を見開き、そして引き剥がそうともがいた。けれど、それを可能にするだけの力は残っておらず、拘束する腕は少しも動かなかった。その間に、唇は何度もはなれては触れ、下唇を甘くはみ、微かに血のにじむ唇を舐める。
「……や、め」
掠れる声に目を細め、ゆっくりと体重をかけた。体格差もあり、押されると簡単に倒れ込む。背中に冷たいコンクリートの感触が伝わったのか、怯えたような目を向けた。
顔を寄せられると、怯えはすぐに消え、目の前の男をきつく睨み付ける。
抗議の声をあげようと開いた唇をふさぎ、引き剥がそうとする腕を掴み、頭の上で押さえ付けた。
「…!」
唇を舌でこじ開け、歯をなぞると、組み敷いた身体がほんの少し動く。目を細めて笑う。
僅かな隙間に舌を割り込ませ、からめとる。軽く擦るように舌を押し付ける動作を何度か繰り返した。その度に小さく頭を振り、拒絶を示すが、なんの意味も持たない。
微かに咽を引きつらせたのを感じた。唇を、惜しむようにゆっくりとはなした。
何も見ないでいいようにか、きつく目を閉じていた。その目尻から涙が零れ、こめかみの辺りに吸い込まれていった。
涙の筋に唇を寄せたその時、引きつった声で
「…なんで、…んな事、するんだよ…」
ゆっくりと吐き出した。
「…俺が…、負け、た…から、だから!」
そう叫ぶと解放された両腕で顔を覆った。しゃくりあげながら、声を殺そうと歯を食いしばっている。
困ったように笑みをつくると、愛おしいものに触れるように優しく額に手を置いた。
違います、と優しく呟く。おそらく聞こえなかっただろう。…それを望んでの事だったが。
小さく唸るように泣いている。誰にも聞かれないように、誰にも見られないように。…目の前の男以外には。
その事が嬉しかった。
笑みを消し、静かに息を吐いた。
「くやしいですか」
何も答えない。けれど、ちいさく、本当にちいさく頭が揺れた。
「君が負けなければこんな目にもあわなかったのでしょうが…仕方のないことです。君は負けたのだから」
冷たく聞こえるように声のトーンを落とす。
ぎり、と悔しそうに歯軋りをしたのが分かった。
両腕で顔を覆ったまま、叫ぶ。声はもうかすれていなかった。
「絶対に!絶対に…あんたに勝ってみせる!…もう2度と…あんたなんかに負けたりしねぇ!」
叫び終わると同時に顔を覆っていた右手を振った。避けずに、右頬で受け止める。ぱし!と鈍い音が部屋に響いた。
赤くなった頬を右手で軽くさすると、ふっ、と笑いを浮かべた。
「…愉しみに、していますよ」
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