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『動く』 楽しみにしていますよ その一言を残し、男は背を向けた。 見えなくなるまで後ろ姿を睨み付けていたカズは、見えなくなると同時に、きつく、唇を手の甲でこすった。先ほどのあの感触が消えるように。思い出すと、くらり、と頬が熱くなった。 忘れてしまいたい。 そう思ったが、手首にはくっきりと掴まれた跡が残り、どうしても目に入る。見てしまうと、先ほどの事が思い出されて、顔を歪めた。 「…なんだよ…わっかんねぇ…」 呟き、頭を2回程横に振った。ため息を吐く。 「……初めて、だったのになぁ…」 わざわざ文句を言いに行く程惜しくはなかったが、落ち込んでしまう程度には理想があった。 好きな人とする事。 いつとか、だれととか、具体的には考えていなかったが、好きな子とするんだろうなぁ、とは思っていた。 それが。 まさかバトルをしに来て奪われてしまうとは思わなかった。 もう一度ため息を吐く。それから、目をこすった。目蓋が熱い。 途端にもうひとつ、忘れたい事を思い出してしまって、ちいさく唸る。 負けた事は悔しい。それから、唇を奪われた事もそれなりに悔しい。それから…、泣いてしまった事が。 「…もぅ、やだ」 両手で顔を覆い、呟いた。 これから先、このバトルの事を考える度に思い出すだろう。 初めてエアトレックの試合で負けたのだ(と言っても2回目ではあるが)。なかなか忘れられるものではない。…こんなにも勝ちたいと思った事はないのに。機会があれば、また戦いたいし、勝ちたい。…そして、そう思う度に、思い出すのだろう。 泣き出しそうな、ため息をひとつ吐いた。 こつん、と壁にもたれた瞬間、衝撃で身体が揺れた。 どこかでなにか、崩れたような、音。 立ち上がり、出口の方へ駆けた。 待ち伏せよう、と思っていた訳ではない(その証拠に姿を見てもただ目を細めただけで動こうとはしなかった)。 ただ、離れがたかっただけだ。 もしかしたら、もう会えないかもしれない。らしくもなく、そんな不安に足が止まった。 たかが1回バトルをしたような、そんな子に? 可愛いとは、思った。 痛みつけて、啼かせて、敗北をその身に叩き付けるのは楽しそうだ、と思うくらいには。 でもただそれだけのはずじゃないか、と自分で思う。確かに、思いもかけぬ反撃は受けたし、あのスピードに反応できた事には驚いたが、けれどそれだけだ。 そう思い、息を吐いた。 「…認めなければ、なりませんかね」 自分のてのひらを見つめた。この手で殴った、そう思うと感触がよみがえる。 ふ、と観念したかのように笑う。 (僕は…たった1度、戦っただけの…、あの子の実力を認めている) そうでなければ、彼がエアトレックで上へ進む為の手助けをしたいとは思わなかっただろう。 (…そして) 左は唇に手を置き、目を細める。 確かに触れた。初めてだろう、その感触に腕の中で震えた。そして、泣いた。 目を閉じた。 心臓から血が巡り、手足が軽くしびれるように浮ついた。その感覚は久しぶりだった。 (そして、僕は…彼の事を) |