blue moon
今日はきっと兄さんは来ないのだろう。
暁人は心の中で何度かそう繰り返しため息をついた。
兄の来ない夜――それは暁人にとっては自分で自由に使える時間だ。
このまま本を読み続けることもできる。そう思うと少しうれしくて、いつもならページを来る動作もはずみがちになるのだが、今夜は胸の奥がチリリと痛む。
それは何故かと言うと、兄が来ない本当の理由を知っているからなのだ。
仕事だと言う兄の言葉をずっと信じてきていたのだが、しかしそれが偽りである事に気付いたのは、比較的最近のことだ。
ある朝のこと、暁人は見つけてしまったのだ。
兄と二人でむかえたいつも通りの朝の光の中で、兄の背に幾筋もの生々しい爪痕があることに気付いた。
自分がやってしまったのだ、と申し訳なく思い謝ろうとしたが、しかしふと自分の爪に目をやりおかしいと思った。
深爪ぎみに切りそろえられたばかりのこの爪ではあそこまで傷はつくまい。
ということは、まさか…。
兄さんは他の誰かと…。
考えただけで気が重くなり、暁人は読書をやめて窓辺に立った。
空を見れば白く輝く満月が光に溢れた街の上にとどまっている。
こんなに明るい夜空のもとでは月明かりなどという言葉はもはや死語に等しいが、しかしその冴え冴えとした、どこか天空になじまない異質な雰囲気は全く損なわれていない。
かつて…まだ何も知らない頃、兄と二人でこうして月を見たことがあった。
その時兄は月を美しいと言った。
何かを迷っているような、そんなまなざしであの天体を見つめていた。
暁人はまだ何も知らなかったから、その時は月をただ美しいと思ったのだ。
この異質な雰囲気など気付かなかった。
星空の中の異端――天体でありながら大空をまどい、満ち欠けを繰り返す、取るに足りない小さな衛星。
神々の世界にあってもヒトの世にあっても異端にしかなれない、そんな兄のヒトならざる者としての習性がこの月のリズムに同調しているということに暁人は薄々気付いていた。
今夜は満月。
きっと兄にとっては特別な日なのだろう。
だから…だからきっと兄は帰ってこないのだ。
今頃は他の誰かと、兄が自分としているようなことをしているのかもしれない。
「僕だけじゃダメなの?」
窓の向こうの満月にぼんやりと問い掛けてみる。
「それとも僕じゃダメなのかな?」
今はまだ満月の夜だけだが、もしかしたらこの先暁人は必要とされなくなるのかもしれない。
全てを投げ出してまでついてきた兄に捨てられたら、一体自分はどうなってしまうのだろうか。
兄が望んでくれるから、暁人は今ここにいるのであって、存在理由などそれ以外にはありえない。
世界を終りに導く選択をしたのも、全ては自分を望む兄に寄り添うためだった。
その唯一の拠り所である兄の寵を失ったら…。
絶対に捨てられたくない。でも…。
胸に広がる不安を小さなため息に乗せて、暁人は月を見上げるのだった。
to be continued...
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