eclipse
〜光がもし戻るなら〜
気持ち悪い…。

身の置き所のないような不快感に見を縮めながら、暁人は嫌な感じの汗がにじむのを感じた。

気を紛らわそうと教科書を目で追うが、アルファベットの羅列は働かない頭にとって何の意味も持たない。

そうこうしている内に、強い吐き気が沸き上がってきた。

もう駄目だ。

「先生、お手洗いに行ってきても良いですか」

暁人は挙手しそう言うと、承諾を待たずに席を立った。

体中の熱が引いてゆく感じがする。

とても不快だった。それ以上に吐き気がひどく、暁人は出来る限り急いで退室した。

本日二度目となる退室に、教室にどよめきが広がった。

朝から元気がなく顔色の悪い暁人を誰もが心配に思ったが、そのただならぬ様子に誰も声をかけられなかったのだ。

沈んでいる、という言葉では軽すぎる、傷付いている、という言葉では足りなすぎるその様子は、いつもの暁人とは全く異なったものだ。

「久神、どうしたんだろう?」

ふとつぶやいた一人に皆が無言の同意を示す。

一体暁人はどうしてしまったのか。それは誰一人として知る由もないことだった。





先程吐いた時に胃の中のものは全て戻したはずなのに、後から後から吐き気が襲ってくる。

口の中を刺激する酸が気持ち悪い。暁人はひとしきり吐いて、一段落した後教室に戻った。

顔色のあまりの悪さに教師は保健室に行く事をすすめたが、もう大丈夫です、と短く答えて暁人は席に着いた。

シャープペンシルを取り、自分がいない間にすすんだ板書をノートに写し、意識を授業に集中させようとした。

もう考えたくはなかった。父のこと…そして父の死のこと。考えれば考えるほど暁人の血の気は引いてゆく。

あの忌まわしい出来事の後、暁人は父を憎く思った。死んでしまえばいいとさえ思った。

あんなことを…あんなことをした父を許せるはずもなく、心の中で呪ったのだ。

しかしそれが真実になった今、暁人は深い罪の意識にとらわれた。

確かに自分は死を願った。しかしこの呪いが本当になるとは思いもしなかった。それなのに父は死んでしまった。結局自分が殺したも同然なのだ。

「久神…久神!」

名を二度呼ばれ、暁人は我に返った。

「訳してくれ」

どうやら指名されたらしい。全く別の考え事をしていたため何をしてよいのかわからず黙ったままでいると、しびれをきらしたのだろう、教師は「久神らしくもない」と言いながら和訳する箇所を教えてくれた。幸い知らない単語のない文だったので、暁人は問題なくこなすことが出来た。

しかしこのことは、クラスメイト達に暁人のことを本格的に心配させるのに十分だった。





兄にだけは知られたくない。心配もかけたくない。

暁人は下校途中、ずっとこの事だけを考えていた。

今日一日、クラスメイト達の自分に対するまなざしを見れば、自分がどれだけ異常であるかがわかる。

長年一緒にいる兄ならば、間違いなく何かあったと気付くだろう。

そしてそれが何であったのかも気付かれてしまうかもしれない。

昨夜遅く、一週間ぶりに帰宅した兄に両親の死を告げられた時、暁人はショックのあまり涙を流したが、それは両親の死に対する純粋な子供の反応だと、そう受け止められているだろう。今朝の沈んだ様子もそれで説明がつく。

だから、これから気を付けてさえいれば、兄にはこの事に気付かれないで済むかもしれない…。

そう考える頃には兄と二人で暮らすマンションへと着いていた。





弟を気遣って、総一郎はいつもより早く帰ってきた。

温め直して夕食の支度をし、兄は暁人の部屋へと向かった。

「暁人、夕食にしよう」

どこかいたわるような響きを含んだ兄の声に、もしや気付かれたのではとびくりとするが、しかしこれはきっと両親を一度に失い落ち込む弟への優しい気持ちから生まれる響きだろうと思い直し、暁人は取り乱さずに済んだ。

兄は昔から優しかった。いつでも暁人のことを一番に考えてくれる、温かく頼もしい存在だった。

しかしもしあのことを兄に知られてしまったら…兄はどう思うだろう?

絶対に知られたくない。

暁人は食欲がなく気持ち悪かったのだが、出来る限りの作り笑いで、

「今行くよ、兄さん」

と答えたのだった。





いつもより多く笑顔を見せる暁人に、総一郎は胸がつぶれる思いでいた。
そしてその笑顔がどこかひきつれたものであることも彼を辛くさせた。

一見いつもと変わらぬ夕食の風景であるのに、明らかに空気が違う。

そのことに暁人も気付いており、だから笑顔を作るのだった。必要のない場面で、次々と。

夕食を済まし、部屋を出た暁人は、ドアが閉まるのを確認してから早足で手洗いへと急いだ。

抑えていた吐き気が溢れるようにこみ上げてくる。

嘔吐の苦しさに喘ぎながら、胃の中のものを体外へと捨てていると、背中に優しく手があてられた。

兄の手だ。

兄が背中をさすってくれている。耳元に感じる、自分を気遣い心配する声…。

「暁人、大丈夫か?」

この声を聞いていると、いっそ暁人は全てを打ち明けて泣きたい気持ちで一杯になる。

しかしそれはしてはいけないこと。もし知られれば、この優しい手は、声は、二度と自分に向けられなくなるかもしれないのだから。

もう吐くのはやめよう、と暁人は吐き気をこらえようとした。それを察したのだろう、

「全て戻しなさい。胃の中が空になれば楽になる」

兄に促され暁人は胃の中のものを全て戻し、用意してくれた温かいぬれタオルで口のまわりをぬぐった。

「ごめんなさい、兄さん」

済まなそうに言う暁人から使い終わったタオルを受け取ると、総一郎は一瞬辛そうな顔をしたが、すぐに優しい微笑を浮かべ、

「きっと疲れているのだろう、謝ることはない。勉強はいいからもう寝なさい。」

と優しく暁人の肩に手を置いて促した。

この優しさが暁人には辛かった。

血の繋がりがないことを知ってしまった今となっては、申し訳ない気持ちで一杯だった。





 暁人が食べ物を受けつけなくなり、生きること全てを放棄して少しずつ消えうせてしまおうとしたのは、それからすぐのことだった。





「暁人はもう…。」

もう、笑ってくれないのだろうか。諒は悲しげに顔を曇らせる。

「まさか…まさか羽山が裏切るとはな。」

総一郎も珍しく怒りを露わに吐き捨てる。

「どうしよう、暁人がもう二度と笑ってくれなかったら。くそっ。」

一度ならず二度も、二度ならず三度も…一族の忌まわしい慣習に大事なものを奪われた悔しさに、諒は唇を噛み締めた。

諒にとっての光…暁人という存在は彼にとってどれほど大きな救いとなっていたことだろう。

あのきれいな心と、見る者の心まで温かくするような笑顔は諒にとってかけがえのない宝物だった。まさしく光だった。

しかしそれは失われてしまった。

一族の忌まわしい慣習によって。人間らしさを全く無視したけだものの欲望によって。

大事なものは全て奪われてゆく…。

あまりに激しく深い怒りと悲しみに満たされて表情を失った諒の瞳に無意識的な涙が満ちる。瞳のふちに張り結ばれたしずくの玉を総一郎の唇が掬い取ってゆく。まるで悲しみを諒の中から吸い取るように。

それはまさに悔しさと悲しさを分かち合う行為だった。

いつものような行為への前戯ではなく、ただそれだけのためにある行為だった。

音もなく降りつもるような静寂の中で、言葉を交わすこともなく、しずくを通して二人の心は深い悲しみと嘆きを共有し交流した。

重なり合う心の中には暁人の輝く笑顔があった。


to be continued...

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