『LOST』


 渓谷に歌声が響く。
 魂そのものを揺さぶるその旋律に、眩暈すら覚える。
 それでも、歩みを止めることはない。
 やがて、森を抜けた。

 地面を覆う草花から突き出たいくつかの岩のひとつに座り、女は歌い続けている。
 彼は腰まで伸びた緋色の髪を揺らして女に近づく。踏みしめる足元のこまやかな花々は、日が落ちてから咲き乱れるそれとは違い、幾分つつましやかだ。
 背を向けたままの女は果たして彼の存在に気付いているのかいないのか、ただ淀みなく流れるその旋律が渓谷を渡りゆく。


「やっぱりあなただったのね、アッシュ」
 手入れの行き届いた鋼色の長い髪がふわりと風にゆれる。振り返り微笑む女の顔は、確かによく見知った人間のものだ。だが、そこに浮かぶ笑顔は、彼と彼が持つ記憶のいずれとも一致しない。
 以前の自分なら、2年前までの自分のままであったなら、女の浮かべる表情にこんな違和感を覚えることもなかっただろう。ただ顔を知っている、という程度の認識だったあの頃ならば。
 だが、今は。
 はからずも受け取ることとなってしまったもう一つの記憶が、彼が知ることなど無かったはずの彼女との思い出が、女に訪れた変化を教えてくる。それが、あまり好ましい変化ではないと告げてくる。

 女は、よく笑うようになっていた。
 もともと、あまり感情を表に出さない娘だった。おのれの感情を律しようとするあまり、過分に無表情を装うことが多いような少女だった。それでも時折見せる心からの笑顔に、激しく心揺さぶられた記憶は、あまりに近く、ひたすらに遠い。
 女はよく笑うようになっていた。かつて見せていたそれではなく、まったく異質なものへと変わり果てた笑顔を。


 決定的な何かを、根こそぎ失ってしまった微笑みを。


「ルークがね、そろそろあなたが来る頃だって、教えてくれたの」
 そうして笑い、女は虚空へ向けてそっと手を伸ばす。視線の先にあるのは、朽ちた大地の名残とかわらぬ青空だけのはずだ。だが、そのどちらも、彼女の目に映ってはいまい。
 伸ばした手のひらに、真白いそれが重ねられる。笑みを深くする女の視線の先、そこには、風でも吹けば掻き消えてしまいそうなほど儚い、赤い影があった。

 2年前、二度と果たせぬ約束だけを残し、消えてしまった彼のレプリカ。
 彼の裡に、かわした約束の記憶だけを残し、消えてしまった彼の半身。

 レプリカは、その肉体の構成に第七音素しか持つことができない。そして彼のレプリカは、第七音素そのものといえる存在だった。
 さらに女の謡う歌は、通常のものとは大きく違い、第七音素の集合体を呼び出すために謡われたものだった。

 女が謡い、呼び出したのは。
 とうに燃え尽き消え果てた焔の、僅かに残る哀れな影。

「ルーク」
 愛しい焔の名をささやく女の横顔は、まぎれもない恍惚に満ちている。
 胃のあたりが鉛でも飲み込んだかのように沈むのを感じながら、彼は女がよびだした淡い影を見つめた。
 記憶にあるものと寸分たがわぬ、どこか幼さの残るあどけない笑顔を浮かべ、それはささやき続けている。



 ――ティア。
 俺は、ここにいるよ。
 ずっと、そばにいるよ。
 ティアが歌ってくれれば、何度でも、
 なんどでも、かえってくるよ。
 ティアのそばに、かえってくるよ。


 ――やくそく、したから。



「ルーク」
 そうして赤い影が青空に溶けて消える頃、女はまた歌いだすのだ。
 もう一度、あの影を呼び出すために。

「ルーク……」
 青空の果てに緋色の影を探す女に抱くこの想いは、
 冷たい刃を突き入れられたかのごときこの胸の痛みは、
 彼が持つべきものではない。


 女は歌い続ける。
 幾度でも、呼び続ける。


END
2006/04/07