アビアティック(ベルク)D.I
Aviatik (Berg) D.I
水上機の名門ローナー社のほかには目立った飛行機を設計していないオーストリアにあって、アビアティック社のオーストリア人、ユリウス・フォン・ベルク技師が設計した最初の単座戦闘機である。設計者の名を取ってベルク単座機とも呼ばれる。飛行性能は前任のフェニックスD.Iに比べて格段とよくなっていたが、構造強度に不安があって、急激な旋回や引き起こしなど高度な機動を行うと、途端に主翼がばらばらになる危険性があった。また、エンジンの冷却性能にも問題があり、しばしばオーバーヒートを起こすことでも有名だった。アビアティックのほかローナーなど数社で休戦までに740機が製造されている。
○オーストリア・ハンガリー・アビアティック飛行機工場Oesterreische Ungarische Flugzeugfabrik Aviatik製ほか、1917.2〜休戦
●200馬力オーストロ・ダイムラー列型水冷エンジン1基、最高速度185km/h、実用限界高度6150m、乗員1名、M07/12 8mmシュワルツローゼ機銃2挺
モデルはFlik60J指揮官時代のフランク・リンケ=クロウフォード中尉ObLtn. Frank Linke-Clawfordの乗機、S/N115.32。
ウィーンの士官学校を出たリンケ(クロウフォードはイギリス系の母の姓)は、大戦が勃発すると東部戦線で騎兵隊と歩兵隊の将校を務め、1915年に志願して陸軍航空隊に転籍した。最初は当時の士官の慣例に従って偵察将校となり、複座機で幾つかの戦果をあげたあと、やはり志願してパイロットとなる。パイロットとしての戦歴は1917年から始まり、KD、アルバトロスD.III、フェニックスD.Iを乗り継ぎ、Flik60J時代にアビアティックに転換した。二重帝国第4位のスコアは、すべて1年半余りの単座機時代のものである。
そのパーソナルマーキングから「フェルトレの隼The Falcon of Feltre」と綽名されたリンケは、パイロットとして技能秀逸、人間としても優れた人物であったと評される。階級差別の厳しい当時にあって、とりわけ下士官、兵卒とも分け隔てなく付き合った。
戦死の状況については諸説あるが、10機近くの格闘戦から離脱したか、アビアティックの主翼が脱落して滑空飛行となったところを、交戦中のアンリオ戦闘機に撃墜されたと見られる。墜落地点はバルドッビルデーネの東、グイアの近郊。記録上はイタリア航空隊第81戦隊のアルド・アストルフィ伍長の唯一のスコアとなった。
●最終階級中尉。公認戦果27機。1918年7月31日戦死。

|
キットはローデンの系列と思われるイースタン・エクスプレス。でもパーツは意外と少ない。そしてバリが多い。バリ取りだけで時間を費やす。 この系列は内装などけっこう細かく再現してるのが特徴だが、そこは所詮1/72。ちゃちゃっと済む。実機の風防は面積が少ないのでこの際割愛した。ダボなんかは役に立たないのでピンバイスで穴開け直し。ワイヤスポークホイールの再現はいい加減だが、自作する根性がないのでこのままいく。例によって支柱の長さが合わなかったり、ダボ違いだったり、そこは気合いでテキトーに工作する。フツーの接着剤と瞬間接着剤をうまく利用するのがコツ。でもエキマニを1本ずつダボなしで取付けさせるのはやめろよな…… 下地はいつもの通り、バフ1色。ローゼンジデカールの貼りが毎度のことながらめんどくさい。下面のウッドはクリアオレンジで上塗りしている。プロペラも飽きもせず同じ仕上げ。安定板の支柱はキットにはないので、0.5ミリ黄銅線で自作。塗装指定はあるくせにパーツがなかったり、この辺がいい加減なのは海外製品だからか。 張線は0.2ミリピアノ線。久しく作ってなかったので、合わせが面倒。接着も面倒。操縦索が多くて難儀した。安定板を貫通してないだけまだラクかも。だが左右でガタガタ。マーキング類はキットのものをそのまま使用。ただし胴下の帯だけは手描き。参考資料はお馴染みオコーナー博士の大著。 |
![]() 内装はエンジン、計器盤、フットペダル、操縦桿、座席。 ![]() ローゼンジパターンは胴体と翼上面のみ。 ![]() エキマニがちょっとがたがた。 |


