双影
てぶくろ
人々で賑わう往来を桧神美冬は苛立ちも露に歩を進めていた。
剣呑な雰囲気に町人達は自然と道を開け、何事かと怪訝そうに顔
を見合わせるが、美冬は意に介さなかった。
すれ違い様に侍風の男の肩が翳め、美冬は眉根を寄せる。
だが、関っている暇はない。
行き過ぎようとした彼女の背に怒鳴り声が叩きつけられた。
「待て、そこの女。武士の肩に触れて素通りする気か?」
「……失礼した。では、先を急ぐゆえ御免」
冷徹な表情を向けられ、男が醜く顔を歪めて
彼女の腰の大小を睨みつける。
「直参旗本に無礼を働き、それで済むと思うのか? 女だてらに
棒振り剣術を齧っているようだが調子に乗るなよ」
美冬は内心で深く溜息を吐いた。この奢った姿はかつての自分自身だ。
重い口を開こうとした彼女の肩に背後から手が置かれる。
振り返ると霞梅月が静かに首を振って見せた。
「争うだけ時間の無駄ですよ。……貴公は、もう行くところだった。
そうですね?」
言葉に乗せられた“力”は僅かなものだったが、男の意思を奪い、
歩き出させるには十分だった。
その頼りない足取りは、まるで酔漢のようにしか見えない。
美冬がほっと息を吐く。
「かたじけない。……世話になったついでと言うのもなんだが……」
梅月が頷く。「ええ、貴女がお探しのもののところまでご案内します」
鎮守の森は昼と雖も薄暗く、一種異様な静けさに満ちていた。
梅月は無言で古びた堂を指し示し、美冬は恐る恐る縁の下を覗き込む。
「おぎん! 居るのか?」
か細い鳴き声に続き、負傷した猫がゆっくりと姿を現す。
胸元と前足にこびりつく乾いた血が痛々しい。
美冬は薄汚れた猫を大切そうに胸に抱き締めた。
「もう、心配させおって……三日も戻らずに、
本当にしょうのない奴じゃ……」
「傷を負っていますね」
覗き込んだ梅月に美冬は満面の笑みを向けた。
先程の張り詰めた雰囲気は微塵もない。
「フフ、これは敵に向かって行って出来た傷、武勲の一つと申しましょう。
霞殿、お手伝い頂き誠にかたじけない」
美冬が猫の背中を慈しむように撫で、尻尾を指に絡める。
それに応じて猫の咽喉が鳴り始める。
梅月は一人と一匹の交歓を不可思議な面持ちで見詰めていた。
「失礼を承知でお尋ねします。何故獣を愛でられる?
獣の寿命は人より遥かに短い。別れは必定でありましょう」
美冬は視線を伏せた。その顔には微かな憂いと確固たる信念がある。
「……想像するのも恐ろしいが、別離の時が来たら、
恐らく私は取り乱すでしょう。でも、おぎんと出会った事を
決して後悔致しますまい。
……共に過ごした時間の全てが私の中に刻まれているのですから」
梅月が笑みを浮かべた。
「貴女は強い方だ」
「幾多の重圧を抱えている貴方ほどではありません。
それに、私がこう言えるのは龍斗様と蓬莱寺京梧やピセル……
それと皮肉なものですが鬼道衆のお陰です」
度重なる敗北の後に感じたのは敵愾心ではなく、
抱えていた傲慢と同量の自己嫌悪だった。
酒に溺れてでも、忘れたかったのは愚かだった自分自身だ。
だが、ピセルと共に龍泉寺で戦った時に全てが吹っ切れた気がした。
命を失ってもなお祖国を思い続けるピセルの強さに美冬は
己の卑小さを知り、恥じた。
そんな彼女をピセルは温かく励ました。
護るべきものがあり、護ろうとする心がある限り、まだ間に合う、
決して遅すぎることはないのだ、と。
以来、彼女の剣は更に鋭く冴えたものになった。
美冬の腕の中でおぎんが大きな欠伸を漏らし、彼女は相好を崩す。
「……梅月殿がご覧になる時の流れの中では、斯様な小さな生き物は
さぞ卑小に思われるのでしょうね」
梅月が頭を振る。
以前ならば迷うことなく頷いていただろうが、今は違う。
運命という大きな流れを動かすのは強い人の思いだ。
ならば、人に影響を与える全ての事物には意味があるのだろう。
現にこの薄汚れた猫でさえ、美冬を心配させ、
安堵させ、笑顔を引き出したのだから。
龍斗達と出会ってからはそう思えるようになっていた。
「さて、日の暮れないうちに戻りましょうか。
おぎんには膏薬が必要でしょう」
梅月の言葉に美冬は頷く。おぎんは既に眠りに落ちていた。
「もー、梅月先生、何処行ってはったん?
うち手習い全部終わらしてしもうたで」
龍泉寺に真那の甲高い声が響く。
「それはそれは……で、算術は如何でしたか?」
真那が背を向け、言いにくそうに呟く。
「その、ウチのな、手足の指全部使っても足らへんかってん。
でな、猫の手も借りたいって言うやろ?
猫寄せで借りてんやん……それで、時諏佐先生がな、
話があるって……ほな、うちはこれで!!」
脱兎の如く駆け去る彼女の後ろ姿を梅月は
こめかみを押さえて見送った。
渋々と襖に手を掛ける。
予想以上に荒れ果てた室内に端座する時諏佐の表情に、
さしもの梅月の背筋も凍る。如来には程遠い、六条御息所の
生霊もかくやという凄絶な笑みが浮かんでいたからだ。
ドスの利いた声には温かみの欠片もない。
「弟子の不始末は師の責任。明日職人を入れますから、
畳、襖、障子、その他諸々……お願いしますよ。
それから、涼浬だけではなく多くの商家から苦情がきていますからね」
一度は秋月の名を捨てようとした彼だが、
家の有難味をつくづく思い知らされる。財力あっての物種だ。
その事を知っただけでも龍泉組に入った価値はあったというものだ。
「……これが宿星か……」
感慨深く梅月は呟くのだった。
<終>