仮面

てぶくろ


 礼拝堂の椅子を拭くほのかの手が滞りがちなのを
クリスは見逃さなかった。
ここ数日どうも彼女の様子がおかしい。
「Oh! ほのか、悩みでもあるのですか?」
 上っ調子の質問にほのかは躊躇いがちに口を開いた。
「……実は、御主人様のことなのです。ここでの御主人様は私の
知っている方とはまるで別人に思えて……」
 クリスが大袈裟に肩を竦める。
「そうなのか? オレの知るブラザーはアグレッシブ、オフェンシブ、
ワイルド……えーと、乱暴者と言うのかな。
それに、重要なオピニオンリーダーだ」
 ほのかが深い溜息を吐いた。そこが問題なのだ。
「龍閃組ではいつも控え目で、美里さんと蓬莱寺さんの意見を
尊重してらっしゃったのですが……
鬼道衆での立場は随分と違うのですね」
 覚えたての日本語がクリスの脳裡をよぎる。
物は言いよう、という言葉だ。
唯我独尊の美里と他人の話を聞かない蓬莱寺に張り合える者など、
そうそういるものではないだろう。
「きっと、私の理解が足りないのでしょうね」
 彼女の溜息にクリスは胸を痛めた。
彼の拙い日本語では、複雑な内容は説明できない。
「そうだ、あの地味な面打ち師に会ったらいい。
この前ペルソナについて話したんだ」
「はぁ……判りました。会って参ります」
 納得できないままにほのかは頷き、礼拝堂を後にした。


 弥勒の工房に響くのは鑿を使う音だけだった。
声を掛けるのが憚られて、ほのかは戸口に立ち、作業を見詰めていた。
両足と片手で器用に面を打つ男の横顔は真剣そのものだ。
 突然、弥勒の体がぐらりと揺れ、横倒しに倒れた。
面の上に倒れない、見事な職人魂だ。
「ああっ! 弥勒さん!?」
 駆け寄ったほのかに揺り起こされて弥勒が目を開ける。
「……すまない。細かい部分だったので息をするのを忘れていたようだ」
 ほのかは声を出さずに主に祈りを捧げる。ここにも迷える子羊が……。
「それで、俺に何か用か? 俺には面の話しか出来んぞ」
 クリスと交わした会話を繰り返すと、弥勒は重々しく頷いた。
「南蛮の言葉では人が心に纏う面のことをペルソナと言うらしいな。
……俺は時々、本当は人間には素顔など
ありはしないのではないかと思う。
人間はその時々によって万の顔の面をつけ、生きていく。
自分の素顔がどれなのか、誰も知らない。本人とても、な。
それこそが人間の本質なのではないか」
いきなり饒舌になった弥勒に内心驚きつつ、ほのかは感心する。
「龍さんが君に見せる面と俺に見せる面が違うのは当然だろう。
そして、俺は龍さんと呼び、君は御主人様と呼ぶ。
これは俺達が見る面に与えた名だ」
「つまり、私達が見ることが出来るのは
御主人様の一側面に過ぎないと……」
「そもそも、面は己の本性を隠すだけのものではない。
面自体が性格を持ち、いつしか身につけた者の本性に
取って代わることもある。そうだ、俺のこの新しい面は……」
「あの……」
「うむ。この悲壮な表情はある人物を写したものだ……」
「えと、私……」
「俺には関係のない戦いだと思っていたが、
得ることもあったな。これからの面は……」
「……」
 弥勒の話は一刻ほど続いた。いや、まだ続いているのだが、
ほのかはそっと工房を出た。身代わりとして棚にあった霊女の
面を置いておいたから構いはしないだろう。
 弥勒の言はもっともだが、彼自身は相手によって
面を付け替えたりはしなさそうだ。
「よぉ、何してんだ?」
 疲れ果てたほのかを呼び止める者があった。
火邑だ。彼女は億劫そうに尋ねてみた。
「火邑さん……御主人様をどう思われますか?」
「どうって、たーたんはたーたんだろう?
御屋方様の信頼も厚いし、腕も立つ。
一緒に戦場に立っていると心強いぜ。
ま、火行の俺様あってのたーたんだけどな」
 同じ炎使いとして自分の方が役に立つということは胸にしまい、
主に己の傲慢を謝罪した。舌で罪を犯す前に会話を切り上げ、
礼拝堂へと急ぐべきだろう。そろそろ晩の祈りを捧げる時刻だ。


 礼拝堂の扉を開けると、説教台の御神槌が聖書から目を上げた。
ほのかは頭を下げる。
「お掃除をクリスさんにお任せしてしまって申し訳ありません」
「いいえ、構いませんよ。悩み事は解決しましたか?」
 ほのかは曖昧に頷いた。判った事は自分の知っている龍斗は、
他の者が知るよりも好ましいものだということだ。
そう伝えると、御神槌は微笑した。
「私の存じ上げている龍斗師も慈愛に満ちた素晴らしい方ですよ。
私はあの姿が真実なのだと信じています」
 ほのかの顔が輝く。
鬼道衆の一員である御神槌の評価も自分と同じなのだ。
「ええ、嘘偽りであのように振る舞えるわけありませんものね。
……有難うございます」
「では、共に住む兄弟、姉妹達のために晩の祈りを捧げましょうか」
 礼拝堂は喜びに満ちた厳かな祈りで満たされた。


 寝汗をびっしょりとかいて、龍斗は跳ね起きた。
指先で顔に触れ、夢から覚めた事を確認する。
モヤモヤする気持ちを払うために、隣で気持ち良さそうに
寝言を言っている風祭を取り敢えず蹴っておいた。
 最近、仲間から変な呼び方をされるのが悩みの種だったのだが、
夢の中では弥勒に貰った面を付けて、彼等を無視していた。
そこまでは良かったが、その面が行道面・菩薩だと知った瞬間に
悪夢になった。どうやっても面は外れず、菩薩笑いが止められなかった。
自分の発したうふふ、という笑い声が今も耳の奥底にこびりついている。
「人が気持ち良く眠ってたのに、何しやがる! たんたんッ!!」
諸悪の根源とばかりに風祭を睨みつける龍斗の目は据わっている。
 鬼哭村に風祭の甲高い叫び声が響き渡るのだった。

《終》



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