黒猫

てぶくろ


 どんよりと曇った空は重苦しく、オレの小さな体を押し潰すかのようだった。
もはや、空腹の感覚もなく、声も出ない。
お義理程度に敷かれたタオルは湿り、オレの体温を奪っていくに過ぎない。
それでも、この汚れたタオルには懐かしい匂いがこびりついている。
僅かに残る温かな記憶。オレを抱え込む優しい前足、
甘い乳、オレの短い毛を撫でつける舌……。
もう、それ以上は思い出せない。
乳房を奪い合った兄弟達は何処に行ったんだろうか。
オレの隣の冷たい固まりに見覚えはあるが、嫌な臭いがするだけだ。
また大きな影が通り過ぎていく。
大きな影はオレを見下ろし、隣の小さな影が耳障りな音を立てる。
小さな影は嫌いだ。
一度、小さな影に暖かい所に連れて行かれたことがある。
でも、すぐにここに戻された。
暫くは暖かい所と甘い飲み物の記憶に苛まれた。
知らなければよかったんだ。
オレにはここしかない。
あるのは空っぽの胃袋だけ。


 小さな影が幾つかオレを囲んだ。
冷たい水をかけられて、オレは跳び上がる。
全身の力を振り絞り、縺れる足を交互に前に出す。
無様な足取りで格子を潜り抜け、繁みの下に身を横たえた。
意識が薄れる。


 物音がした。
くっついた瞼をこじ開けると、眩しい光が目に飛び込んできた。
「マダ、生キテイル……」
 光が温かい息を吹きかける。
オレの凍えた尻尾がパタンと動いた。
ヒゲが震える。
何だろう、この光は。
持ち上げられると自然にオレの咽喉が鳴り出した。


 マリィはボロ雑巾のようになった黒猫を抱き上げた。
骨に直接皮を貼り付けたような痩せた体は軽く、
湿った毛はバサバサとして艶がない。
全身から異臭が漂い、それは死を思わせた。
黒猫がピンク色の鼻を震わせて微かな声を漏らす。
「……生キテイル、マリィト同ジ、生キテイルンダネ……」


 温かいベッドの中でオレは大きな欠伸をした。
マリィはぐっすりと寝ている。
この家に来てからマリィは明るくなったが、よく魘されるから、
オレが起きていて見張ってやらなければならない。
規則正しい寝息にオレは満足した。
トン、とベッドから降りると、オレは台所に向かった。
この家はよく片付けられているが、
狩りを楽しめる程度には小動物や昆虫がいる。


 台所には葵がいた。
マリィをここに連れて来た女だ。
彼女はぼんやりとテーブルの上のカップを見詰めている。
ミィ、とオレが小さな声を上げると、
彼女はゆっくりとオレを見下ろし、微笑んだ。
「お腹がへったの? ミルクをあげましょうか?」
 オレの尻尾が感謝の意を表すために横に揺れる。
葵が冷蔵庫からオレ用のミルクを取り出した。
人間用は濃すぎるからと言って、決して飲ませようとはしない。
彼女はオレが皿に顔を伏せるのを見守っていたが、辛そうに口を開いた。
「……私がしようとすることはマリィを苦しめるかしら。」
 オレは慌てて顔を上げた。
葵がオレのヒゲについた白い小さな球を拭き取る。
その瞳に浮かぶ色を遠い記憶の彼方に見た気がした。
オレを連れ出し、箱に戻した小さな影がこんな目でオレを見ていた。
あの時、唇が紡いだ言葉は「サヨナラ」だったが
オレはその意味すら知らなかった。
 今なら判る。
葵はマリィとオレを置いて何処かに行こうとしている。
行かないでよ、オレはマリィのそばにいるよ、でもオレだけじゃ駄目なんだ。
彼女は知ってしまったから。
暖かい世界を、仲間のいる世界を。
もし、あの閉ざされた世界には戻されたら、マリィの心は壊れてしまう。
溢れる思いを伝える術もなく、オレは情ない声を上げた。
「メフィスト、あの子をお願いね……」
 葵がオレの背中を撫でる。
オレは彼女の翻意を促すように、体を擦りつけて甘えた。
彼女がオレの眉間と耳の付け根をカリカリと掻き、毛並みを整えてくれる。
「……もう、行くわ。
あの子を、みんなをこれ以上戦わせるわけにはいかないもの」
 彼女がオレを抱き上げて、マリィの部屋へと運ぶ。
マリィは幸せそうに眠り続けていた。
葵は無言で立ち尽くしていたが、オレをベッドに下ろすと、立ち去った。
 無駄と知りつつ、固く閉ざされたドアを肉球で叩く。
こんな時でも爪を立てないオレ自身の礼儀正しさがもどかしい。
 オレに《力》があれば……
オレは無力感に打ちのめされ、ペタンと腰を下ろした。


 等々力不動尊に静寂が戻る。
武器を下ろした面々には安堵と激しい戦いの興奮の名残が見られる。
京一が木刀を袋にしまいながらホッと息を吐いた。
「美里も無茶な事するぜ」
「そうだよ、葵! ボク達心配したんだからねッ!」
 小蒔が頬を膨らませ、葵は俯いた。
勝手な事をして心配させた挙句に
戦いを回避できなかったことが悔やまれる。
マリィが無言で葵の背中にしがみついた。
細い肩が揺れ、嗚咽が漏れる。
葵は彼女を抱き締めた。
「みんな、ごめんなさい……。マリィ、心配させてごめんね」
 小蒔が目尻を拭い、男連中は照れくさそうに顔を逸らせた。
 マリィの肩からずり落ちそうになったメフィストが
ひょいと、摘み上げられる。
「……お前も頑張ったな」
 首根っこを掴んで揺さぶりながら、生後三ヶ月足らずにして
鬼道衆頭目に止めを刺した仔猫を龍麻は納得の行かない思いで見詰める。
メフィストは歯を剥き出して満面の笑顔を浮かべるのだった。

《終》



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