song for you


「・・・だから、どうしてあなたなんですか・・・」
ひどく掠れた声を痛む喉からどうにか絞り出し、壬生屋は呻くように言う。
掛け布を鼻先まで引き上げての文句は、掠れている上に布に遮られたせいでくぐもった響きにしかならず、目の前の青年に正確な言葉としては届かなかったようだった。洗面器に手を入れてタオルを濡らしている彼は、水音に夢中にでもなっているのか、こちらを振り向くことはない。
どうして、と壬生屋は再度口の中で呟いた。どうしてよりによって、目の前にいるのが瀬戸口なのだろう。こんな情けない姿、他の誰より彼にだけは、絶対に見られたくなんてなかったのに。

端正な横顔を、ぼんやりと眺める。口元に薄く笑みを浮かべた表情は静かだ。普段の軽妙な色も人を食ったような色も、からかう風もない。見慣れない表情に、何だか不思議なものを見たような気持ちになる。

ベッドの脇に腰掛けた瀬戸口は、冷やしたタオルをきつく絞り、そこでようやく壬生屋を振り返った。丁寧にたたんだそれを、露になっている額にそっとあてる。水に濡れたタオルは、熱の高い額にはひやりと気持ちがいい。
壬生屋が目を細めてゆっくりと息を吐くと、瀬戸口は軽く首を傾けて顔を覗き込んできた。
「少しは楽になったかい、お嬢さん」
「・・・はい」
降りてくる柔らかな声に、壬生屋は素直に頷いた。
低い声が優しく鼓膜を震わせる感覚は、心地好い。確かな気遣いの篭る声に、壬生屋は少し複雑な気持ちになる。
これも、初めて聞く声だった。ののみに向ける声とも、他の誰に向ける声とも違う、聞いているだけで心の落ち着く暖かな音。戦場で聞くそれよりも、ずっと穏やかな声音だった。
自分を、一応は心配してくれているのだと、そう感じた。
だがそうと思っても、やはり信じられない気持ちもあって、壬生屋は眉を顰める。どうして常日頃、自分をからかって面白がってばかりの彼が、こんなに優しいのか。壬生屋にはまるでわからない。
病人相手の慈善心からだとしても、彼の優しさが嬉しくないと言えば、それは嘘になる。けれど、どうしても戸惑いの方が強いのは仕方ないだろう。いくら何でも、態度が豹変しすぎている。
瀬戸口はすい、と壬生屋の頬に指先を滑らせた。
「・・・まだ、熱が下がらないみたいだな」
思考がまとまらないのは、この優しい声と、きっと熱のせいだ。肌を掠めた感触に緩く頭を振りながら、壬生屋は熱く潤んだ息を吐いた。

具合があまりよくないのは、家を出た時から自分でもわかっていた。しかし機体の調整や修理や、山積みになっている仕事を思えば、そう簡単に休むという選択肢を選ぶ訳にもいかなくて、とりあえず、とプレハブまで来たはいいが、階段に足を掛けた所で不意に眩暈に襲われた。
どうやら、自分で思っていたよりもひどい体調だったらしいことを、壬生屋はそこで初めて知ったのだ。
重力に従ってその場にしゃがみ込んでしまった自分を、詰所まで運んでくれたのが、珍しく早く登校してきた瀬戸口だった。偶然にしては出来すぎているというか、あまりに性質が悪い。
どう罵られるかと構えた壬生屋を、しかし瀬戸口は一言もからかいもせず、詰所に寝かせ教官に連絡し、欠席の石津に代わり授業を休む形で付き添ってくれた。
授業をさぼる口実にされた気がしないでもないが、けれど瀬戸口は無駄口をたたくことも、自分の用事をするでもなく、看病に徹していた。最初こそ警戒していた壬生屋だけれど、そのいつにない真面目な態度に、逆に戸惑う始末である。
疑ってしまった事には少し罪悪感も覚えたけれど、彼の普段の行いを知れば無理もない事だろう。
『散々、馬鹿にされると思ったのに・・・』
切なげな溜め息を吐きながら、壬生屋は瀬戸口を見上げた。熱のせいか、潤んだ視界に映る瀬戸口の姿は、輪郭があやふやだ。
頼りない視界に目を眇めると、視線を感じてか瀬戸口がそっと額のタオルの上に手を置いた。
「傍にいるから、そんな顔するんじゃないよ」
「・・・・・・っ」
子供をあやすような口調で言われ、壬生屋は熱のせいでなくさあっと顔を朱に染めた。焦点のはっきりしない視線を、寂しがっているとでも思ったようだ。
そんな事はない、と反論しかけた壬生屋だが、しかし降り注ぐ視線にはやはり揶揄の色はなく、何となく気をそがれて口を噤む。普段なら、子供扱いしてからかうところだろうに、何故そうしないのだろう。こっちまで調子が狂ってしまう。

優しさに、甘えてしまいそうになる。
こんな気持ち、きっと自分だけの独りよがりだろうに。
壬生屋は恨めしそうな視線だけで瀬戸口を睨み付けて、やがて諦めたように溜め息を吐きながら、ついでのように呟いた。
「ご迷惑を、おかけしました・・・」
声はやはり掠れ、音は不明瞭だったけれど、今度はちゃんと瀬戸口にまで届いたようだ。紫の瞳が僅かだけ驚きに瞠られる。感情の現れた表情は、意外に幼く見えた。
別に驚かせるつもりはなく、どういう理由があれ、世話をしてくれていることに対しての謝罪と感謝のつもりだったが、瀬戸口には思いも寄らぬ事だったようだ。タオルの上の手も置いたままに、瀬戸口はしばらく軽い驚きの表情で固まった。
何がおかしかったというのだろう。逆に壬生屋も瀬戸口の様子を訝しんで眉を顰めたが、瀬戸口は壬生屋の質問を受けるより先に表情を笑みに崩した。笑みというよりは苦笑に近い、微妙な顔だった。
暖まってしまったタオルを額から外し、また洗面器に向かい直りながら、瀬戸口は冗談めかして呟いた。
「えらく殊勝じゃないか。普段なら、食って掛かるところだろ」
「・・・そんな、人を、怒り虫みたいに・・・」
「俺としては、怒っててくれた方が、気が楽なんだがね」
整わない呼吸が息苦しく、途切れ途切れに反論する。返ってきた瀬戸口の言葉は予想外のもので、壬生屋は一瞬その意味を掴みかねて目を瞬かせた。
何度か、言葉を脳裏で反芻してみるものの、鈍く痛む頭と全身を支配する熱さとに上手く思考がまとまらない。怒ってくれた方がいいと、瀬戸口は確かにそう言ったようだが、普段は自分が怒れば怒っただけ面白がってからかうくせに。ひどい矛盾だ。
しかしそれを口にするもの、面倒に思われた。どうせまともには答えてくれないだろうし、自分にも、今は彼の軽口を受け止めるだけの余裕がない。体のだるさは幾分楽になったものの、意識がずっしりと重かった。熱のせいというより、先程飲んだ薬の効果が現れ始めたのだろう。

壬生屋が諦めを含めた投げ遣りな息を漏らすと、瀬戸口はその辛そうな呼気に、開きかけた口を閉じた。再び冷たくしたタオルを額に乗せ、渇いたタオルで浮き出た汗を軽く拭ってやりながら、少し困ったような顔をする。
「意識も曖昧になってきたみたいだな・・・薬が効いてきたんだろ。熱はじき下がるだろうが・・・気分は悪くないかい、お嬢さん?」
「・・・凄く・・・眠い、です」
今更虚勢を張るのも馬鹿馬鹿しいと、壬生屋は正直に呟いた。瞼が睡魔にゆっくり下りていくのがわかる。意識はまだ大分はっきりとはしていたが、やがて眠りに支配されていくだろう。壬生屋はうつろな目で瀬戸口を見やった。艶を含む紫の瞳が、未だ気遣わしげな光を宿して自分を見下ろしていた。
「もう・・・大丈夫、だと、思います・・・」
無理などせず、大人しく眠るから。
暗に、もう眠るから授業に戻れ、と含めたつもりだったが、瀬戸口はそうか、とぷつりと呟いただけで、動く気配がない。

眠るまで傍にいるつもりだろうかと、壬生屋は鈍った頭で考えた。それはあまり、ありがたくない気がする。このままここにいるという事は、自分の寝顔を晒すという事で、それはやはり、今の彼にやましい所がないのは充分わかってるけれど、抵抗のあることだった。
壬生屋は居心地悪げに身動ぎし、潤んだ瞳で瀬戸口を見上げた。おそらくは親切でここに居てくれる彼に、寝顔を見られたくないから出て行け、とは言い難く、とりあえず視線で訴えかけてみる。
だがしかし、意志の疎通というのはそう簡単にいくものではなかった。
壬生屋の視線を受け止めた瀬戸口は、きょとんとした顔でしばらく壬生屋を見つめ返したかと思うと、突然にっこりと、幼さの残る笑顔で微笑んだのだ。
特に嫌なものを感じたわけではないが、それでも予想とはややずれた反応に、壬生屋は戸惑いがちな声で呼びかけた。
「瀬戸口、くん・・・?」
「心配しなくていい。傍にいてやる、って言ったろう?」
「え・・・あ」
戦場で響くそれとは全く違った、いつになく低く甘い声に、壬生屋は不覚にも、一瞬だけではあるが聞き惚れてしまい、瀬戸口の行動に対する反応が遅れてしまった。
何を思ったのか、瀬戸口は優しい呟きと共にさっと布団を剥いだかと思うと、壬生屋の手をそっと両手で包み込むようにして取りあげたのだ。
高い体温に温もった手に、瀬戸口の両手の感触は冷たい。その温度は心地好かったけれど、瀬戸口と手を繋いでいるようなこの状態に、壬生屋はますます顔を赤らめて口をぱくぱくと何度か開閉した。何をする、と撥ね退ける言葉もでてこない。
状況をどう捉えたらいいものか、半ばパニックに陥りながら、壬生屋は声を出せずに瀬戸口を見た。
見上げた瀬戸口は、ひどく、優しい顔で壬生屋を見下ろしていた。
壬生屋は途端に、先程とは違った意味で言葉を失った。瀬戸口は微笑んではいるけれど、その表情は切なげで儚げで、悲しそうにも見えた。瞳に宿る色には不安が見え隠れして、さらに壬生屋を戸惑わせる。
瀬戸口自身はそれを意識しているのかいないのか、薄く微笑んだまま壬生屋の手を離そうとはしない。
どうして、とも離してください、とも口に出せずに、壬生屋は瀬戸口から目を逸らす。
逃げるつもりではなく、ただ単に視線が交わるのが少し気恥ずかしかった。手を包み込む瀬戸口の両手は、とても大きく、温度は自分の方が高いけれど、とても暖かで、今はそれだけで充分だと思った。
今は、どんな言葉を零しても、それはただの音にしかならず、きっと意味を為す事もない。
伝わる温度だけで、今は。

壬生屋が抗う素振りも見せず再び掛け布に顔半分を隠すと、瀬戸口は包み込む両手に僅かだけ力を込めた。
「子守唄、歌ってやろうか」
「・・・・・・」 唐突な申し出に壬生屋は瞬時に眉を顰め、反射的にいらない、と答えようとして、しかしふと思い立つものがあって口を閉ざした。
この後に及んで子供扱いされている事は癪に障ったが、それより瀬戸口の歌に興味がわいた。
瀬戸口は軍歌が嫌いだ、と誰憚らず広く公言している。皆が戦場でガンパレードマーチを歌いだしても、彼だけは頑として歌わない。歌うこと自体は好きらしく、滝川などを誘ってよくカラオケになどは行っているようだが、壬生屋は瀬戸口の歌声を一度も聞いた事がなかった。
低く甘く、人を落ち着ける響きのその声が、どのような旋律で歌を刻むのか。好奇心に負ける形で壬生屋が黙り込むと、瀬戸口はそれを都合よく解釈して、いくつかの候補から古めかしい歌を選んで口を開いた。

小さく、囁くような声が、柔らかに耳を打つ。
誰もが知っている子守唄だった。緩やかに紡がれる歌声は、常のはっきりとした響きこそないものの、それがかえって優しい、心を落ち着かせる音となって壬生屋の鼓膜を心地好く震わせた。
波立っていた心が嘘のように静まっていくのがわかった。同時に、額のあたりにくすぶっていた鈍い痛みも引き、だるさに支配されていた体から、すうっと重みがなくなっていく。
薬の効果ではない。体から、心から、緊張が抜け落ちて代わりに安堵が広がる。
壬生屋は歌に誘われるようにして目を閉じた。意識はまだ眠りに負ける事はなかったが、自然と瞼が下りた。視界がゆっくりと光を遮断して闇に落ちていく。
喉の痛みも和らぎ、それに伴って呼吸も落ち着いた。深くゆっくりと、規則的に繰り返される呼吸を歌声の合間に聞き取ってか、閉じた瞼の向こうで、瀬戸口が笑ったような気配があった。
子守唄に本当に眠ってしまったとでも思われたのだろうか。それでも目を開けるのは億劫で、壬生屋は目を閉じたままで瀬戸口の歌声に耳を傾けた。

すると不意に、耳に届くその旋律が音を変えた。
『・・・なに・・・?』
母が子をあやす言葉が、一つ息継ぎをおいてその形を失う。調べの柔かさはそのままに、瀬戸口は韻も響きも全く違う、聞いた事もない不思議な言葉で歌いだした。
耳を打つ言葉は、普段使っている言葉とは強弱もまるで違っていた。自分の知らない、どこか遥か遠くの異国の言葉だろうとは思うが、けれどその旋律は、胸に正体不明の懐かしさを灯らせる。
知らない言葉、知らない音楽なのに、何故か懐かしい。
紡がれる声には、先程よりも深い感情が込められているようだった。押し寄せる波のように歌声に重なるそれが何なのか、哀しみであるのか喜びであるのか、瀬戸口の表情を窺い知る事の出来ない壬生屋には、よくわからない。
彼はこの歌に何か大きな思い出があるのかもしれない。察する事が出来るのはその程度だ。いつか、大切な誰かに歌って聞かせたのかもしれない、逆に誰かが彼に歌って聞かせたのかもしれないと。

壬生屋が沈んだ意識の底で考えを巡らせていると、歌声が途切れた。
随分と中途半端な切れ方だった。言葉が理解できないながらもそれを察し、どうしたのだろう、と目を開けようとしたのも束の間、歌声とは一転した低く余裕のない声が降りてきた。
「元気になってくれよ・・・」
掴まれたままの手に、力が込められた。痛みを覚えるほどではないが、包み込む所作よりはずっと乱暴な仕草で。
自分が寝入ってしまったと思っているのだ。打って変わった瀬戸口の様子に、壬生屋は身動きも取れなくなってしまった。そんな彼女の内情など知る由もなく、瀬戸口は独り声を重ねていく。
「そんな、ぐったりしたお前さんなんて、見てても面白くないんだ・・・辛い」
少しずつ言葉を切って語る瀬戸口の声は、つい先程までの歌声からは想像できないような、切なげなものだった。
そして、最後に付け足すように呟かれた言葉が、壬生屋の心を堪らなく騒がせた。
辛い、と彼は言う。自分がこうして臥せっていることが、辛い、と。
それがどういう事なのか、わからない、わけではない。多分。自分が逆の立場なら、同じ事を思うだろう。彼が病気で寝込む姿なんて見たくない。それなら自分が寝込んだ方が、何倍もましだ。
自分が何故そう思うのか、理由は、はっきりとしている。
瀬戸口もまた同じ思いだと、そう、思っていいのだろうか。
取り留めのない思考を遮るように、す、と指先が温度を確かめるように額を掠めた。突然のことに一瞬だけ呼吸を詰めた壬生屋だが、瀬戸口はそれには気付かなかったようで、少し声のトーンをあげて、今度は冗談めかした響きで呟いた。
「早く元気になって、また俺を追い掛け回してくれよ」
心の全てを吐き出せたのか、瀬戸口は小さく溜め息のようなものを落とすと、再び歌を口ずさみはじめた。子守唄ではない、不思議な響きで自分を懐古に酔わせる、異界の歌だった。
 ―――元気になって、追いかけて来い、ですって。
 随分と勝手な事を言う。そんな事を考えながら、しかし壬生屋も悪い気はしなかった。だって、彼のこんな声、こんな様子を窺えるのは、きっと自分だけだろうから。瀬戸口の声でこの歌を聞けるのは、自分だけなのだから。

全身を満たす優越感のようなものに浸り、瀬戸口の声を遠くに聞きながら、壬生屋は思う。
目が覚めたら、この歌を教えてもらおう。
そして今度は彼のために、わたくしが、この歌を歌おう。
きっと彼は困った顔をするだろうが、そんな事など自分の知ったことではない。父と兄以外は知らない自分の寝顔を見るのだ。そのくらいの仕返しは許されるはずだった。否、許されずとも仕返ししてやる。

眠りに落ちる寸前の一瞬、楽しげに微笑んだ壬生屋の表情を、細く旋律を口ずさんだままの瀬戸口は、穏やかな表情でもって眺めた。
今はまだ、彼女の思惑も知らずに。

悠希さんのサイトの一周年記念リクで書いていただいたSS!テーマは『歌う瀬戸口』です!(倒)
メッセンジャーで私がものすごく詳細かつ馬鹿まるだしでシチュエーション(最初はこの世界の言葉から第2世界の歌になるとか、瀬戸口は壬生屋が寝ているつもりで歌っているとか)をリクエストしたんですが、もうそれ以上に素敵な瀬戸壬生で、何回も何回も読みましたよ〜!悠希さん、ありがとうございました〜!


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