恋の予感
今日もあの人はいるかしら。いつもどんな女性にも、優しく微笑むあの人は。
時折ふと、寂しそうに微笑むあの人は。
今日もあの子は来るだろうか。つい、と前を向き、強く輝く瞳を持つあの子は。
時折ふと、その瞳に自分を映して頬を染める、あの子は。
落ち着いた雰囲気のアンティークで統一された店内には、ゆったりとした音楽が流れ、
カップルや若い女性が、色とりどりのアルコールや食事を楽しんでいる。
その中の一番奥のテーブルに原と壬生屋が座っていた。何回か後輩の壬生屋と共にこの店を訪れていた原は壬生屋がこの店のバーテンダーである瀬戸口に一目ぼれ状態であることを見抜き(というより壬生屋の態度で気付かない方が無理なのだが)、瀬戸口、壬生屋の共通の友人として、何とか仲を取り持とうとしているのだが、そのつど、壬生屋から「そんな恥ずかしい事はしないで欲しい」と止められ、歯がゆい思いをしていた。
今日も壬生屋は瀬戸口に声をかける気配はない。
ただぼんやりとカウンターの瀬戸口を見ながら、手元のグラスを指で無意識にもてあそんでいる。
「まったくしょうがないわねぇ…」
溜息交じりに原がつぶやき、「ちょっとお手洗い」と壬生屋を残して姿を消す。
「お待たせ」
席に戻った原は一人ではなかった。壬生屋が気になっていたバーテンダーの青年を連れている。突然の事に、壬生屋は原と瀬戸口とに交互に視線を動かして事態を飲み込もうとしている。
「瀬戸口隆之君よ。こちら壬生屋未央さん。今年入社したばかりの私の後輩なの」
瀬戸口目当てらしい、隣のテーブルの女性客がヒソヒソと何か話していた。
「やあ、こんばんは。可愛いお嬢さん」
瀬戸口はいつもの調子の良さそうな笑顔で、壬生屋未央と呼ばれた女性を眺めやった。
見るからに都会に出てきたばかりです、という女の子だ。
化粧も薄いし、スーツもかわり映えのない紺のもので、就職活動中の学生かと思うほどだ。
だが、けしてこの店にいる美女たちに見劣りするでもなかった。
大きな青い瞳は、戸惑う彼女の態度とは裏腹に、どこまでも真っ直ぐで強い意思を持っているように感じられ、長い黒髪は店内の暗い照明でも艶やかに輝いている。ただそれが人目を引くことに彼女自身が気付いていないようだった。
ああ見えても世話好きな原が、東京にも会社にも、男にも慣れないこの子を、からかいながら面倒みているのだろう。
「ほら、挨拶くらいしたら?」
「はっ、はっ、はいっ!わた、わたくし…」
原に促されて我に返った壬生屋が、慌てて椅子から立ち上がろうとした。その拍子に手元のグラスが倒れる。
「え?」
「わっ!」「きゃあっ!」
小さく悲鳴をあげる瀬戸口と原。まだほとんど口をつけていないグラスが床に落ちて割れ、3人の足元にガラスと中身のカクテルが散った。店内が一瞬静まり返る。
原の足元はほとんど濡れてはいなかったが、逆にグラスが倒れた方向にいた瀬戸口は、膝から足元にかけて黒いスラックスが濡れ、染みをつくっていた。
それを見てさっと青くなる壬生屋。
「も、申し訳ありません!!」
壬生屋はぶん、と音がする程頭を下げるとそのまま、二人を見もせずに走り出して、店を出て行ってしまった。
呆気に取られていた原が小さく溜息をついて、腕を組んだ。
「あらあら…、仕方ないわねぇ、動揺しちゃって可愛い子。ごめんね、瀬戸口君。この続きはまた今度…」
原が瀬戸口を振り返る。瀬戸口は壬生屋が出て行ったドアの方を呆然と見つめていた。
「瀬戸口く〜ん?」
原が瀬戸口の目の前で手の平をヒラヒラさせると、瀬戸口ははっとして原を見た。悠然と微笑んでいる原。
「素子さん…」
「わかってるわよ、ほら、早く行きなさい」
「はは、貴女には敵わないよ」
「ついでに言っておくけど、彼女を泣かせたらひどいわよ」
「わかってる。じゃあ!」
軽く原に手を振るようにして、瀬戸口は店を出て行った。
残された原は席に座ると、足元に散ったグラスを見つめながら頬杖をついた。
「はぁ…。こんな美女をこんな状況に一人きりにするなんて、なんて連中なのかしら。」
そういいながらも顔は笑っている原だった。
「あの、お怪我はありませんか?」
一人の店員が声をかけてきた。若くてぽややんとして初々しい青年だ。
「あなた、初めて見る子ね」
原に声をかけられた青年は真っ赤になって答えた。
「えっと、僕…じゃない、速水といいます。まだ入ったばかりなので…」
原は緊張しながら割れたグラスを片付けている速水という青年を、
くすくすと笑いながら見つめていた。
「ねえ、君。わたし、足が濡れちゃったのよ。なにか拭くもの持ってきてくれない?」
「あ、は、はいっ!かしこまりました」
速水は顔を真っ赤にしたまま、原のもとを辞した。カウンターに向かう途中、何度かテーブルや椅子の脚に
躓いたりしている速水の後姿を原は頬杖をついたまま、興味深そうに眺めていた。
壬生屋は店の裏手に回って建物の壁に手をつき、上がった呼吸を整えようとしていた。
裏通りにはは街灯もほとんどなく、月明かりだけが、乱れた壬生屋の髪を照らしていた。
──嫌われた!嫌われた!あんなみっともない事してしまって…。最低、最低です、わたくし──
突然背後からかかる低い声。
「どうしたんだい?せっかくの綺麗な顔が台無しだよ」
「あ…」
壬生屋は瀬戸口の姿を確認すると、怯えるように後ずさった。
「あの、すいません、制服…。クリーニング代ならお支払いしますから…」
一歩二歩と後退しながら、答える壬生屋。
「いや、そうじゃないんだ。そんな事じゃなくて。俺は…」
瀬戸口が一歩踏み出すたび、壬生屋も一歩後退する。
月灯りが二人の姿の長い影を作り出している。
言葉が出ない。
こんな場面は何度もあった。どうやって女性を慰めればいいのか、心得ているはずだった。
壬生屋の髪が夜風にふわっと舞い、彼女の香りが瀬戸口にも届いた。
化粧も、香水の匂いもしない。だが、石鹸の香りをも違う、何か甘い香りが壬生屋から香ってくるような気がした。
彼女はきっと綺麗になっていくだろう。化粧の仕方も覚えて、流行の服を着こなし、それに相応しい男と結ばれて幸せな家庭を築くだろう。
なぜだろう、その事を考えると、とても不愉快な感情が沸き起こってくるのを瀬戸口は自覚した。
上京してきた女性が美しく成長し、成功を手に入れる姿を見ていく事は、都会でこのような職業を持つ自分にとっては喜ばしく、むしろそんな女性の成長ぶりを見守っていくのは楽しみのひとつでもあった。
今までも何人もそんな女性と出逢い、別れてきたというのに。
「俺は、その…」
「…?」
「君の事、もっと知りたい…と思う…」
「…え?」
突然の言葉に壬生屋は目を見開いたが、それ以上に瀬戸口自身が自分の言葉に驚いていた。
瀬戸口は片手で口を覆って壬生屋の視線から逃れるように横を向く。
自分が何を言っているのかも、目の前の女性にどんな感情を抱いているのかも、わからなかった。
──俺はこの子を口説こうなんて思ってるのか?いや、口説くにしたってもっとマシな言葉があるだろうに。なんであんな陳腐なセリフしか言えなかったんだ?今までで最低だろ、あんなセリフは──
瀬戸口は、夜目にも明るく見える髪をくしゃくしゃと掻きむしった。
「あ〜、とにかく、あれだ。明日も店に来て欲しいんだけど」
言いながらまた瀬戸口は『最低だ』と思っていた。壬生屋は不思議なものでも見ているかのように瀬戸口を見ている。
「嫌かい?」
瀬戸口の言葉に壬生屋は慌てて頭を振った。
「じゃあ、約束だ」
どうにか笑顔を作って壬生屋に微笑みかけた瀬戸口だが、やはり今まで女性に向けた笑顔の中ではきっと最低な笑顔なのだろうな、と思っていた。思いながら手を差し出す。
恐る恐る自分の手を差し出す壬生屋。その手を瀬戸口がそっと握った。
「約束…な?」
「はい、約束…です…」
緊張しながらも、笑顔で答える壬生屋。その笑顔をみて、さらに余裕がなくなっていくのを感じる瀬戸口だった。
「ちょっと!何してるのよ!」
店に戻る瀬戸口を見つけるなり原が駆け寄ってきた。
「な、何してるって…。ああ、壬生屋さんなら大丈夫、ちゃんと駅まで送ったから」
「え、駅まで送った…って、それだけ?飲みなおすとか、デートに誘うとか、なんとかあるでしょ?」
「今日、初めてまともに口きいたばかりの子じゃないか」
焦って赤くなる瀬戸口の様子に愕然とする原。自分と初めて会った時には随分と馴れ馴れしく近づいてきたくせに、まさか本命にここまで弱いとは…。
「でも、私はもうデートの約束しちゃったわよ」
「は?」
原は速水の方を向いてウインクしてみせた。それに気付いてあわてて目を伏せる速水。
「速水?ウソだろ…?」
呆然と立ち尽くす瀬戸口。
女性の扱いには絶対の自信を持ってきた瀬戸口だったが、どうやら今度は後輩に先手を取られたようである。
そう、自分達の仲が恋と呼べるようになるには、まだまだ、遠い──。
安全○帯かよ!(三村ツッコミ)いや、タイトルが思いつかなくて…。
これはですね…。某てつおさんが「瀬戸口にそっくりなウエイターを発見。そして彼目当てらしいOL二人組みがいた」とのメールをうけまして、妄想したものです(爆)。
瀬戸壬生より、瀬戸口と原との会話の方が多いような気がしますが、きっと気のせいでしょう!
瀬戸口は本当に駅まで送っただけなんでしょうか?ええ、きっとそうです。(笑)
彼はそういう男なんです!(笑)
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