注:ネタばれ




白砂の夢

著:桃栗三八







「順調に回復しているようだね」
 聴診器を耳から外し、青年は寝巻きの襟元を丁寧に整える少女に人好きのする笑みを向けた。
 それにつられるように少女もまた楽しげに頬を緩める。
「私、もう退院してもいいのかな?」
「だーめ」
「がお……潤ちゃんのうそつき。観鈴ちん、元気になってるって、今、云ったのに……」
 しょんぼりと肩を落とすベッドの上の少女――観鈴に、白衣を着込んだ男性、北川潤はとりなすように言葉を返す。
「いいかい? 観鈴ちゃんの身体はやっと普通の人並みに動くようになったんだ。ここで無理をしたらまた病気にならないとも限らないだろう?」
「じゃあ、ちょっと外に出るのは?」
「駄目だよ。もうすぐ春とはいえ、まだ雪だって降る季節なんだ。身体を冷やさないように気をつけてないと」
 そう云って、青年は椅子にかかったカーディガンを少女の肩にかけてやる。
「でも、やっぱり退屈」
 枕に頭をうずめた少女が、口を尖らせ、物云いたげに若年の医師を見上げる。
 青年は心底困っているような、それでいてどこか少女の反応を楽しんでいるような、どちらとも取れる表情を浮かべた。
「俺で良ければ幾らでも遊び相手になるから」
 観鈴はその言葉に嬉しそうに頷くと、病室のフックにかけたナップザックから、先週、母親に買ってもらった外国製のトランプケースを取り出した。
  「神経衰弱、やろうよ」





「北川先生、お客さんがいらしてますよ」
   昼休み、早々に食事を済ませた北川は、若手の医師らしい熱意を発揮させ、入院患者のカルテが治められた分厚いファイルに眼を落としていた。
 北川は怪訝そうに若干年上の看護婦の顔を見返した。
「晴子さんですか?」
「いえ。女の人には違いありませんけど」
 看護婦は意地悪げにクスクスとこぼした。
 どうも自分はこの童顔のせいで女性に軽く見られる傾向にあるらしい、と北川は首を捻る。
 医師の威厳も何もあったものじゃない、と内心嘆いていた。
 実際、研修期間を終えた今になってさえ、初顔の入院患者の中には、こんな若造に任せて大丈夫なのかと、わかりやすいくらいに表情を崩す者もいる。
   看護婦に客とやらの居場所を教えてもらい、北川は一階ロビーの待合室に出向いた。
 広いロビーだが、水平に軽く視線を横切らせるだけで、客というのが誰なのかはすぐに把握できた。
 ソファの上で背筋をしゃんと伸ばし、長い足を脚線美も露わに組ませたスーツ姿のその女性は非常に目立っていたからだ。
 向こうもこちらに気付いた様子で、手にしていた文庫本をバックに納めて立ち上がる。
 コートを腕にかけ、低い声で、やあ、と挨拶の声を上げる。
「こんちには、聖先輩。いえ、霧島先生」
「先輩と呼んでくれて構わないよ。昔のままで接してくれた方が私も嬉しい」
「はい」
 どちらからともなく口元を笑みが彩った。





 立ち話もどうかということで、二人は病院地下の喫茶フロアに移動した。
 キリマンジャロを傾け、聖はしげしげと後輩の顔を眺めた。
 北川は不思議そうに瞬きをする。
「どうしたんです?」
「元気そうだな」
「え?」
「充実している、と顔に書いてあるよ」
「書いてますか」
 北川は自分の頬を神経質そうに撫でた。
「聖先輩はまだあの街で開業医を?」
「ああ、私はおそらくあそこに骨をうずめることになるのだろうな」
 天を仰ぎ、嘆くような調子で聖が云う。
「いっそのこと、先輩もここで働けばいいじゃいですか。聞いてますよ、院長からお誘いがかかってるんでしょう?」
「確かにここはうちの実家とは比較にならないほど設備も患者数も満ち足りているな。だけど私の好みじゃあない。私は患者とマンツーマンで接することができる今の環境をすこぶる気に入っているんだ」
「もったいないですね、先輩ほどの技量の持ち主が」
「医療技術を神聖視してはいけないよ。結局、医者と患者の関係は裸の人間同志という範疇を破ってはいけないんだ」
「でも俺はこの病院が好きです」
「別に批判しているわけではない。今時、グループ経営でこれほど患者に好意的な医療施設も珍しい。そういう点で非常に私はこの病院の経営方針とそこに働く医療関係者達を高く評価しているつもりだ。ただ……ね、私はここの院長が大嫌いなんだ」
「院長……が?」
「あの脂ぎったツラを見ているだけで、赤く熱したフライパンの底で張り倒してやりたくなる」
「ははは……まあ、その、確かにあの人は好色家で腹黒いところもありますけど、根は善人なんですよ。一介の医師としても尊敬すべき人間だと俺は思ってます」
「やれやれ、君は相変わらず人が良いんだな」
「その手の友人には恵まれているんで耐性がついてるんですよ」
 ひょいと肩を竦めてみせる。
「残念だな。先輩が一緒にいてくれたらかなり楽ができると思ったのに」
  「こいつ」
「冗談です。先輩と一緒にいてトラブルに巻き込まれるのは学生の時分だけで十分ですよ」
「はて? 何のことだ? むしろ可愛がってやったと記憶しているが」
 本気で思い当たる節がないというふうに、聖は沈んだ記憶を探るように顎を摘んでいる。
「嘘ばっかり。研究室でメスを使ってダーツして遊んでたのを、横で見ていただけの俺のせいにしたじゃないですか」
「罪悪に傍観も主観もない」
 きっぱりと云い退ける聖に、北川は、これだ、と苦笑して降参のポーズを取る。
「今となっては良い思い出だな」
「先輩が云わないで下さい」
 呆れたような北川の台詞に、聖は我知らず微笑みを湛えていた。
「君は変ったな」
 唐突なその言葉に、北川は眼を丸くする。
「変った? 俺がですか?」
「うん。変った……余裕ができたと云い換えるべきか」
「余裕なんてありません。今もベテラン患者の相手をするだけで参ってしまいます」
 おどけるように云う北川だが、聖は軽く眼を瞑り頷くだけだ。
「確かに医師としての君はまだまだお尻に卵の殻がついている段階だな」
「お尻……」
「私が云ってるのは人間的な意味でのことだ。医大の頃の君と比べてみて、君は優しくなれたと思うよ」
 北川は言葉に詰まったように唇を数度に渡って震わせた。
「どうした? 急に黙りこくって」
「聖先輩には俺が医学の道に進んだきっかけを話したことがありますよね」
 神妙に頷く聖。
「確か、恋人を病で亡くしたんだったね」
「俺が高校生のときでした」
「恋人の病気を治すために医学を修めようと?」
「合格通知が届いた日に彼女は俺の前から永遠にいなくなってしまった。以来、俺は自分の中に虚ろな空洞を感じながら、それを埋めることもできないまま大学で貪るように勉強を続けました」
「確かにあの頃の君は何かに憑かれているかのようだった。何者に対しても人当たりは良かったし、多くの友人にも事欠かなかったが、君自身が他人との間に決して破れることのない最後の一線を引いていたように記憶している。だが、そうしていなければ君の精神はその悲しみに耐えられずに擦り切れてしまっていたのだろうね」
「先輩が俺に云ったこと覚えてますか? いかに卓越した技術を備えていようが、医師としての心を持ち得ない君は医者になることは諦めた方がいい、そう云って叱ってくれたんですよ」
「そんなこと云ったかな」
 照れたように首の後ろを掻く聖。
「わかったようなことを云うな、と俺は先輩に反発しました。あんたに俺の気持ちの何が理解できるって」
「君の云ったことは正論だよ」
「正論を盾に逃げようとしていたんです。だからこちらの心を見透かすような先輩の言葉が辛かった。あのとき、俺は大学を辞めるつもりでいたから」
「それは知らなかったな」
「耐えられなかったんですよ、亡くした彼女のことも何もかもが。でも先輩がいてくれたから俺は勉強を続けました。それが間違った方法であれ、俺は医師としての資格が欲しかった。そして、どうだ、あんたがこきおろしたこんな俺でも医者になれるんだぞ、って先輩を見返してやりたかった」
「そんなに私は嫌われてたのかい?」
「ええ、嫌いでした。……それと同じくらい好いてもいたけどね」
「複雑な心理だね。だけどそんなに捻れた君を変えたのは一体何なんだい? 君が隣町の病院で研修医として働いていると云って、初めて私の病院に挨拶に来たときは、一体この爽やかな青年は何者だ? と我が眼を疑ったよ」
「ひどいな。でも、それも無理のない話なんでしょうね。俺が変れたのはある母娘のおかげなんですよ」
「母娘……かい?」
「はい。彼女達と再会して、俺は無くしていたものを思い出すことができたんです」
 そう云って、その失っていたはずのものに思いを馳せるようにじっとカップの水面を見つめる年下の医師の顔を見ていると、自然と気分が和らいでいくのが自分でも不思議であり、その詳細を問い詰めることも些細なことに過ぎないように思えてきた。
「深くは詮索しないさ。君が今では立派な半人前の医師として頑張ってくれている。その事実だけを私は先達として誇らしく思うよ」
 それでも半人前ですか、と北川はクスリと笑う。
 ところで話は変るが、と前置きをすると、聖はぐいとテーブルに身を乗り出し、耳を貸せ、というゼスチャーを取った。
「これは風の噂で聞いたんだがね」
「何です?」
「君、女子患者に手を出してるんだって?」
 思わず北川は声にならない声を上げ、椅子から転げ落ちそうになった。
 そして、慌てて周囲を見回すが、幸い誰も気に止めた様子のものはいなかった。
「馬鹿なこと云わないで下さい!」
「その慌てよう……やはり事実だったか」
「やはりって何ですか、やはりって。先輩が妙なことを云い出すから驚いただけです」
 下から覗き込むように聖は首を傾げる。
「本当に?」
「何だって、そんなことを言い出すんですか」
「いやね、さる筋から聞き及んだところによると、大層、君が懇意にしている患者がいるらしいじゃないか」
「いませんよ、そんな娘」
「しかしね、何でも君とその少女とは昔からの知り合いだと云うし」
「昔も昔、大昔のことです、まだ俺が中学生で彼女が小学生の頃でした」
 云って、北川はしまった、というふうに顔を顰めた。
 後輩の言葉に戦慄したという様子で聖は眼を見開く。
「やはりいるのか。しかも、そんなに幼い頃から眼をつけていたなんて……北川君、私は今、初めて君に恐怖しているよ」
「勝手に恐怖しないで下さい。それに彼女とは十年以上も会ってなかったんですよ、子供の頃の話です」
「そして今やお互い身心共に成熟した大人の付き合いをというわけか……ふっ」
「鼻で笑うな」
「まあ落ちつきなさい。さあ、水でも飲んで」
 コップの水を一息に飲み干すと、そういえば、と北川は会話の軌道修正を図った。
「佳乃ちゃんは元気にしてますか?」
「あからさまに誤魔化そうとしているようだが、まあいい乗ってやろう。さて、佳乃のことなんだが、困ったことに看護婦になるとか云い出してな」
「看護婦? へえ、いいじゃないですか。先輩も佳乃ちゃんに仕事を手伝ってもらった方が嬉しいでしょ?」
「むう……それなんだが、私は佳乃にはスチュワーデスになって欲しかったのだ」
「聖先輩……思考が昭和入ってますよ」
「居候は居候で面白がってるし困ったもんだ」
「居候?」
「ああ……君は会ったことがなかったか。国崎とかいう男が半年ほど前にふらりと現れてな……」





 午後の回診の途中、北川は思うところがあって、観鈴の病室を尋ねた。
 ノックをしても返事がないので、そっとドアを開けて中を覗うと、ベッドの上で穏やかな寝息を立てている観鈴がいた。
 観鈴を起こさないようにと注意して、床に落ちた雑誌を拾い上げる。
 南に面した個室は日当たりが良く、暖房要らずだ。
 おそらく本を読んでいる内に、そのままうとうとと寝入ってしまったのだろう。
 腰に掛かった毛布を少女の肩を隠すようにして引き上げると、ふと、その首筋に浮かぶ粒のような汗の玉に気がつく。
 北川は窓際に寄ると、じりじりと観鈴の肌を焼く日光を、カーテンを閉めて遮った。
 薄暗い部屋の中、壁のフックにかけられたタオルを取ると、そっと少女の首周りを拭う。
 それに反応した少女の睫毛がぴくぴくと数度痙攣するように動いた。
 さて目覚めるかと思われた少女は、小さな呼吸を繰り返し、再び夢の世界に引き込まれていく。
   夢……そう、かの眠り姫はその永劫の眠りの中で一体どのような夢を見ていたのだろうか。
 そして目の前の少女は輪廻する悲哀の刻の中で何を見てきたのだろう……。
 青年は我知らず、ベッドに広がる少女の髪の一房を手に取り、それを梳っていた。
「はは〜ん」
 あからさまに悪意を含んだ響きに、北川はぎょっとして少女から飛び退り、部屋の入り口を振り返った。
 そこにはニヤニヤ笑いを貼りつかせた、青年よりも多少年嵩に見える黒髪短髪の女性が立っていた。
「晴子さん」
「ぷぷ、見てたで〜」
 努めて動揺を押し殺すと、北川は毅然とした態度を保ち、少女の母親に向き直る。 「何か誤解をしているようですね」
「あかんあかん。いまさら取り繕ったかて。観鈴を見る今のあんたの眼……その意味がわからんほどうちは人生経験乏しゅうないで」
 納得できかねるという様子の北川だが、晴子は釈明の余地を与えない。
「まあ、ええわ、ちょっと部屋の外に出よか。あんたを捜してたとこなんや」





「はあ〜……最近寒いなあ」
 一階ロビーの隅に据えられた喫茶コーナー。
 湯気を立てる紙コップを手に、晴子がぼやくように呟く。
 それに対する北川の感想は非常にあっけらかんとしたものであった。
「そうですか? 寒も明けたし、俺は過ごしやすい陽気になったと思いますけど」
 硝子越し、寒風に揺れる中庭のケヤキに眼を移して北川が云う。
「寒いもんは寒いんや。潤坊は北国で暮らしとった経験がそう云わせるんやろうけど」
「潤坊はやめて下さいよ。子供の頃ならいざ知らず、お互いに今やいい大人なんだから」
「あんたはまだ子供や」
 そう云って、ずずと派手な音を立てて熱い液体を啜る。
 意外なことに晴子は猫舌だった。
「晴子さんは昔からそうだ。大して歳も違わないのに俺のことを子供扱いする」
「子供扱いされとるって意識するところからして幼い云うとるねん」
「そう仕向けたのは誰ですか」
「不満やったら、うちのこともガキの頃みたいに晴子おねーちゃんって呼んでもええで」
「お姉ちゃんって歳でもないでしょう」
「あちゃ、手厳しいな」
「で、俺に話って何なんです?」
「ん……観鈴のことなんやけどね」
 それまでとは打って変わって神妙な晴子の口調に北川は居住まいを正す。
  「正直に云うて欲しいんや……あの子の病気、本当に治ったんか?」
「治りましたよ。再来月には退院できるはずです」
 正面から北川に見つめられ、晴子がついと眼を逸らす。
「そうか、それならええんや」
「まだ不安なんですか?」
「夢をな……たまに見るんや。あの娘が苦しんどるのにうちはどうにもしてやれん夢を。そして目覚めてみれば無性に悲しくなるんや」
「大丈夫ですよ。現に今の観鈴ちゃんがいるのは晴子さんが頑張ってくれたからじゃないですか」
 そやな、と晴子は沈んだ顔を上げる。
「それともう一つ聞きたいことがあんねんけど」
「ええ、何でも」
「あんた、敬介に会っとるやろ」
「え……」
「まさか、観鈴にあいつが父親やて」
 その険のこもった口調に、慌てて顔の前で手を振る北川。
「云ってませんよ。敬介さんもその辺のことは了解してくれています」
 なおも晴子は疑わしげに北川を睨め付けていたが、やがて了解したように頷く。
「それはそうと、潤坊。あんた、今夜は暇か?」
「すみません、夜勤が入ってるんです。何か用事が?」
「用ってほどやないねんけどね。最近ご飯を作ってやる相手がおらんからちょっと寂しいなあって」
 晴子は以前の勤めを辞め、新しい職場で働くようになってから、夜は必ず家に帰るようにしていた。
 いずれ観鈴が退院したときのためだと、本人が話していたことを北川は覚えている。
 今の髪型も仕事に差し支えがないようにと、自分でカットしたものらしい。
「晴子さん。今度、一緒に飲みに行きましょうね」
「あかん。うちは今、禁酒してんねん」
 そう云って、晴子は白い歯を見せて笑った。





 草木も眠る丑三つ時。
   机に向い、コリコリとペンを走らせていた北川は、窓の外で蠢く、カーテンに映る不穏な翳にぴくりと肩を震わせた。
    一階の南に当たるこの部屋の外はちょうど中庭に面しており、昼間には老若男女の患者の憩いの広場となっている。
(だけど、こんな真夜中に一体誰が?)
 最近は深夜の病院に忍び込む泥棒も少なくはないと聞く。
 北川は掃除用具入れからモップを取り出すと、慎重に壁伝いに移動し、窓際に身を屈めた。
 カーテンの隙間からそっと外の様子を覗った北川は、拍子抜けしたように詰めていた息を吐き出す。
 そしてカーテンと窓とを一息に開けると、暗闇の中、驚愕の表情を浮かべる翳に向って怒鳴りつけた。
「こら!」
「わあっ!」
 水色のパジャマにピンクのカーディガンを重ねたその人物は、すってんころりという音が似合いそうなほどに見事な転び方をした。
  「がお……お尻打っちゃった……」
 涙目で臀部をさする少女に北川は呆れた表情を向ける。
「観鈴ちゃん、何してるの?」
「にはは……見つかった」
「もしかして、部屋を抜け出してきたのか?」
 北川の口調に硬さが増す。
 観鈴は俯き、ぽそぽそと唇を動かす。
「……て、天体観測」
「え?」
 云われて窓から身を乗り出す。
 見上げた夜空は宝石を散りばめたかのように鮮やかな青や黄に光輝いていた。
「へえ」
 感心したような北川の声に、観鈴は我が意を得たとばかりに微笑む。
「ね、綺麗でしょ」
「でも、夜中に黙って外に出るのはいけないことだよ」
 眉を顰めて云う北川に、観鈴はしゅんとして俯く。
「ごめんなさい」
「仕方がないな」
 北川は机の前に戻ると、引き出しからメモ帳を取り出し、何やら書きつけ始めた。
 その様子を観鈴は窓枠に手をかけて不思議そうに見ている。
 やがてペンを置いた北川は、ぽかんとこちらを注視している観鈴を振り返り云った。
「書置きだよ。何かあった時に看護婦さんに俺の居場所がわからないと一大事だろう」
 観鈴のポニーテールがぴょこんと跳ねた。





「うわあ!」
 一際高い観鈴の歓声が中庭に上がった。
 唇に指を立ててみせる北川を見て、慌てて声を潜める。
 檻から解放されたばかりのウサギのように芝生の上を掻け回る観鈴を見ていると、つい半年前までは歩くこともままならなかったという現実が嘘のようだ。
(あれは……悪い夢だったのだろうか)
 だが悪夢はそれを見る者を永劫に縛り付けようと棘の鞭を振るう。
 その戒めから解き放たれる者――それは目の前で草木と戯れる無垢な少女のような、その少女を愛してやまない母性を持った人物のような、そういう人間だけなのかもしれない。
 そして、自分も。
 この少女により悪夢の淵から救われた人間の一人だ。
 花壇の前にしゃがみ込んで早咲きのスミレの花を突付いていた観鈴が、くちゅん、と可愛らしいクシャミをした。
「そろそろ部屋に戻った方がいい」
「でも」
 不満げに観鈴が首を伸ばす。
「寒いんだろう?」
 観鈴はぷうと頬を膨らませると、膝に手をついて上半身を丸める北川の懐に飛び込んだ。
 戸惑う北川の手が宙を掻く。
「観鈴ちゃん?」
「寒くなんかないよ」
 観鈴の小さな手が白衣の下のセーターをぎゅっと引っ張る。
    胸に押しつけられた髪から花の香りが漂う。
 一瞬、その顔を躊躇の色が掠めたが、北川は白衣の裾を持ち上げるようにして観鈴の背中に手を回した。
「潤ちゃんはもうどこにも行ったりしないよね」
 身体を覆う白衣の中から顔を仰け反らせて観鈴が問う。
「唐突な質問だね」
「子供の頃、潤ちゃんが引っ越していっちゃった日、私泣いちゃったんだよ」
「……そうなの? 見送りに来てくれなかったからてっきり嫌われたのかと思ってた」
「悲しかったんだ。凄く、凄く……頭の中が真っ白になるくらい」
「観鈴ちゃん」
「潤ちゃんがいなくなって……往人さんがいなくなって……お母さんがいなくなって……」
 その震える肩を北川は強く押えた。
 少女の爪が青年の皮膚に食い込む。
「そして、潤ちゃんが帰ってきたとき……」
 ふっと脱力したように観鈴は北川に身を預けた。
  「私、嬉しくてまた泣いちゃった」
 そう云ったときの観鈴はもしかしたら本当に泣いていたのかもしれない。
 悲しいかな、この娘は顔に出さずに泣くことのできる人間だということを青年はよく知っていた。
 だから青年はただ一言だけ、初めて彼女のために、ごめん、と謝った。
 病棟から風に乗って「北川先生」と呼ぶ声が届いた。
「婦長が呼んでる……もう行かないと」
「また外に出てもいい?」
「俺が一緒のときならね。さ、婦長に見つからない内に早く部屋にお帰り」
「うん……おやすみなさい、潤ちゃん」
 観鈴は爪先立ちに伸び上がると、鼻を擦り付けるようにして顔を押し付けた。
 間髪置かずに離れると、その表情を見せることなく、中庭の小道、病棟の翳を目指して小走りに駆けて行く。
 それを見送った北川は、寒気に冷たくなった指先で、まだ温もりの残る唇を撫でた。
 一瞬、何か云いたげな晴子の顔が脳裏に浮かんで消えた。
 くく、と自然、口の端から笑みがこぼれ落ちる。
 さて、少しの間とは云え、職場放棄した事実を何と言い訳しようか、と考えながら北川は踵を返す。
 仄青い月光に照らされ、白衣の裾が踊るように翻った。




FIN




著者あとがき

医者と患者って……いいよね?(謎)
さて、観鈴シナリオ異聞。
この場合、往人は佳乃シナリオに進んでいます。
つまりAIR=北川篇・観鈴シナリオのエピローグと云ったところでしょうか。
(本編もないのにエピローグがあるかい! というツッコミは置いときます)
個人的な趣味で観鈴は救うことにしました。
おそらく本邦初の北川+観鈴SSを書く機会をくれたyoshiさんに感謝!


管理人感想

と言う訳で、桃栗三八さんより、お返しSSということで、北川×観鈴を書いてもらいました。
っていうか、私自身もなんと無茶な注文をしてしまったのだと、いまさらながら思っていたのですが……。
驚きどころは、やはり、北川が医者になっていたことでしょうか。しかも、聖の後輩とは……。
また、北川の高校時代に付き合ってた人物も気になりますなあ。
そして、どちらかと言うと、仲の良い兄弟と言った感じの二人、この後、どういった関係になっていくのでしょうか?
ともあれ、桃栗三八さん、無茶な注文を受けてくださり、ありがとうございます。

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