黄金
夕日をゆっくりと眺めるのは、別段珍しいことでもなかった。
見下ろせば穏やかに流れる川と、そこに写る紅い陽が。対岸には寂しげな木々、そして、その向こうにあるビル群、沈んでいく太陽。
秋の黄昏を眺めながら、沢渡 真琴は、最近多くなったため息をついた。
風がそっと髪を揺らした。金色の輝く彼女のツインテールは、辺りの金色を反射してより一層輝いている。
「綺麗……」
意識もせずにそう呟いて、真琴は視線を僅か下、川面に移す。本物の太陽とも見違えんばかりの紅い円を写した川面。
その川面に自分の顔が移っているのが見えたわけではないのだが、もしも、そうであるのならば、今の自分はどんな顔をしているのだろうかと暗鬱な気分になる。
街の喧騒は、中心部から離れたここからではほとんど聞こえない。聞こえてくるのは、川の流れる音と、時折聞こえるカラスの声だけだ。
静けさは、今の彼女には、不安しかもたらさなかったが、もう、逃げている場合ではない。
決断を。
そんなに時間が残っているわけではない。ここで自分が戸惑っていれば、彼に迷惑をかけることになる。それは、嫌だった。
答えはもう決まっている。しかし、真琴は「それでも」などと考えている自分を吹っ切れずにいた。
彼が大切ならば、彼のことを想うならば、答えは決まっているはずなのに、だが、感情はそれを認めようとしない。
真琴は、もう一度大きなため息をつくと、こんなことを考える羽目になったここしばらくのことを思い返していた。
*
「よ、今日も無事、終わったみたいだな」
軽く手を上げる少年を見ながら、精一杯の皮肉を込めて真琴は言ってやった。
「うぅ……どうみたら、無事に終わったように見えるのよぅ」
少年のほうは、服や髪が誰かに悪戯されたかのような真琴の様子を見ながら、笑いを抑えているようだった。
「何笑ってるのよ、潤!」
真琴は、それに気づいたのか、向かいの少年をきっと睨みつけた。
潤と呼ばれた少年――本名、北川 潤と言う――は、真琴と同じ綺麗な金髪(その頂点からは触覚のような癖毛が突き出している)と、年にしては多少幼い顔つきの少年であった。
「いや、笑ってないって」
全然説得力はないが、北川は両手を挙げてそう言ってのけた。
真琴のほうも、これ以上追及しても、労力の無駄だと思ったのか、思い出したように違う話を始めた。
「全く、ここのガキンチョどもは手加減ってものを知らないかしら!」
ここのガキンチョ……真琴は、自分のすぐ後ろを指差しながらそう言った。
その指す先には、どこかアットホーム的なにおいを感じさせる幼稚園が建っている。
真琴のバイト先でもあるその幼稚園は、もう、半年近く前から、真琴が通い続けている場所でもあった。とは言え……
「ちょっと、寝てたスキにこれよ!?」
そう言いながら、今度は自分を胸に手を当てながら、自分の悲惨さを強調する。いや、しようとしている。
未だに、子供のパワーに圧倒されている部分があり、こうやって、元気すぎるガキンチョども悪戯されては、こうやって北川に愚痴るのだった。
「まあ、この頃は、何でも全力投球だからなあ。それに、真琴も十分に子供に見えるよ」
「何でよっ。真琴は、もう完璧に大人じゃない!」
北川は、そう言い返す真琴の頭をポンポンとたたきながら、意味ありげに笑った。
「な、何よぅ」
頭を軽くなでられるうちに、さっきの元気はどこへやら、急におとなしくなる真琴。
真琴からすれば、こんな風にたしなめられるのは恥ずかしかったのだが、それ以上に、心地よさを感じていることも分かっていた。
毎度、毎度のこの光景。それは、北川が真琴を幼稚園に迎えに行くようになってから度々見られる、いつもの情景なのだ。
真琴は、ちょっと拗ねたような顔を北川に見せた後、辺りを見回す。夕日を浴びて、辺りは黄金色に輝いていた。
真琴が北川と出会ったのは、春ももう終わろうかと言う頃だった。
その日、彼女は、発売したばかりの新作のコミックを買いに行ってきたばかりだった。
「ただいま」
玄関を開けて、いつもの台詞。
「あら、おかえりなさい」
迎えてくれるのも、いつもの通り、彼女の義母である水瀬 秋子であった。
義母と言う言葉からも分かるとおり、秋子は真琴の正式な母親ではない。だが、腹違いの子供と言うわけでもない。
真琴は、その年の1月ごろに水瀬家に転がり込んできた記憶喪失の少女だった。
その後、色々な問題などもあったのだが、最終的には彼女は、水瀬家の養子という形で落ち着くことなり、以来、この家に住んでいる。
「あら、あゆちゃんはどうしたのかしら?」
「あゆは、まだ買うものがあるからって……」
ちなみにあゆも、真琴と同じく水無家に養子として引き取られた娘である。もっとも、その理由は真琴とはまったく別のものであるが。
「そう。あ、祐一さんもう帰ってきたわよ?」
祐一とは本名、相沢 祐一と言い、現在この家に居候している高校生である。真琴を最初にここにつれてきたのも彼だった。
「あれ、どうして? まだ、お昼ちょっとすぎじゃない」
「今日は、土曜日だから、学校が早く終わったのよ」
そういえば、そうだっけ、と心の中で納得する真琴。
彼女は、事情もあり現在、学校に通っていないため、曜日の感覚が薄いのも仕方がないのかもしれない。
まあ、それはそれとして、すでに彼女の思考は別の方向へ向かっていた。
(これはチャンスかもしれないわ。きっと、今日は学校が終わって祐一のやつ、気が緩んでるに決まってる……)
そう思いつくと、真琴はなるべく足音を立てずに、祐一の部屋へと向かった。悪戯するなら今がチャンスなのだ。
真琴のその行動は、彼女がここに始めてやってきたときからずっと続いているものだ。最も、最初の頃の目的と今の目的は違うし、頻度も随分減ってきてはいるのだが。
階段を忍び足で登り、廊下の軋む音にも細心の注意を払いながら、ゆっくりと進む。
(よおし、気づいてない、気づいてない)
部屋の前でほくそ笑みながら、ポケットからいざと言うときのために忍ばせてあるねずみ花火と点火用のライターを取り出す。と、
「へ、何やってるんだ? 俺は、そんなんじゃ騙されないぜ?」
祐一の声が、部屋の中から聞こえてくる。思わず、体が飛び跳ねそうになるのを真琴は必死で抑えた。
(バレた!?)
仕方なく真琴が、”せんりゃくてきてったい”を考えていると、追い討ちのようにさらに声が聞こえてくる。
「逃げるのか? 無駄だ。もう、ばれてるんだからな」
撤退ももはや許されない状況のようである。
真琴は、目をつぶりながら、無念と言わんばかりの表情で、部屋の扉をバアンッと開けた。
「くっ……さすがは、祐一って所かしら、でも、何で……」
ゆっくりと、目を開く。
真琴が瞳を開くと、そこにあったのは、ポカンとした表情の祐一と、長い髪の少女、そしてもう一人、見知らぬ金髪の少年が座っていた。
しばし沈黙が辺りを包む。
「あ? 真琴、お前何言ってんだ?」
最初に口を開いたのは、祐一であった。眉を寄せながら、不思議そうに真琴のほうを見ている。
「あ、帰ってきたんだ。おかえり〜」
次に口を開いたのは、長い髪の少女――水瀬 秋子の娘である水瀬 名雪であった。腰まで届く長い髪と大きい瞳が印象的な娘だ。
「う、うん、ただいま……じゃなくて! さっき、ばれてるって……」
真琴の問い掛けに、ああ、と、祐一は眉を寄せながら考えるように軽く上を仰ぎ見たが、すぐに、ああ、と納得した声を出した。
「いや、今、カードゲームでちょっと、賭けをやっててな――」
そう言うと、向かい側にいる金髪の少年のほうを睨むように見る。
「こいつがな、ズルをやったのが見えたもんだからな。卑怯はいけないぜ。な、北川くん?」
皮肉を精一杯交えた声で祐一は言った。北川と呼ばれた金髪の少年は、チッ、と舌打ちをしながら半眼で祐一を見返す。
「よく言うぜ、お前だって前の賭けのとき同じようなことをしてたじゃないか」
北川は、忌々しそうに祐一に言い返す。
「ははん、何のことだかさっぱり分からねえなあ」
が、そんな言葉も祐一は軽く受け流してしまうのだった。
「そういえば、真琴、そんなに慌てて入ってきたどうしたの? それに、『さすが、祐一』って何?」
そんな二人を脇目に、名雪は、指を口元に当てながら簡単な疑問を口に出した。
祐一も北川から視線を真琴に移す。
「あぅう、それは……」
言葉に詰まる真琴。
やっぱりな、などとどこかあきらめの入ったような表情の祐一。
「ああ、どうせコイツのことだから、また、いつものように、俺に悪戯しに来たんだろ」
祐一の台詞を聞いて、真琴はあっさりと動揺の色を見せる。ここまであからさまに分かりやすい態度を取れるもの珍しいものである。
「ま、今はそんなことはいいや。な、それより北川ぁ、分かってるよな?」
「ああ、ビリもしく反則したものは次の昼飯代を二人におごる……でいいんだろう?」
「よろしい。よくできました」
「わあ、北川君。私はいつものメニューよろしくねっ」
ぶすっとしながら、ため息をつく北川。と、ふと思いついたように視線を上げる。
「あ」
視線の先は、真琴のほうを向いていた。思わず、言葉に詰まる真琴。
人見知りの激しい彼女は、いつもはうるさくても初対面の相手には極度に上がってしまうことが度々なのだ。
真琴がどうしようかと、視線を泳がせていると北川が唐突に喋りだした。
「君が、真琴ちゃんだよね。相沢から話は聞いてるよ」
さっきの賭けに負けた(ズルがばれた)時の声とは、打って変わってその声はどこか柔らかみを帯びていた。
そんな声とどこか人好きのする顔つきもあったのだろう、真琴は先ほどの緊張感が緩んでいくのを感じていた。
「オレの名前は、北川。北川 潤だ。相沢たちのクラスメート。よろしく」
そう言って笑う。
「あぅ、うん。よ、よろしく」
真琴も何とか、搾り出すように返事をした。
控えめな返事に、多少、笑顔に苦笑いが混じってしまっていたが。
「お、北川、お前やるなあ。真琴が初対面の相手に、ちゃんと返事をするなんて滅多にないんだぞ?」
「へえ、そうなのか」
言いながら、北川は再び笑顔に戻る。
真琴も少し、ほんの少し笑うことができた。
「ん? どうしたんだ、真琴」
はっと我に返る。隣を見てみれば、怪訝そうにこちらを見ている北川の姿。
どうやら、夕焼けを見ているうちの昔を思い出していたらしい。
「え、ちょっと、潤と会った時のことを思い出してた」
「ああ、最初はお前、すごいビクついてたもんなー」
からかい半分に笑う北川。真琴は、ふんとあさっての方向を向いてしまう。
「あ、あれは、仕方なかったのよ!」
「まあ、それはそれとして、驚いたのは帰り際の秋子さんの頼みごとだよなあ」
そう言いながら、北川は一度空を見上げた後、あさってを向いたままの真琴に視線を移した。
「いきなり、『真琴の幼稚園のバイトのお迎えに行ってもらえませんか?』ときたからなあ」
真琴は、目だけを北川のいるほうに向けた。そこには、なんとも複雑そうな顔をした北川がこちらを見て、苦笑いとも、ただの笑顔とも取れる表情で歩いている。
それを確認すると、何となく真琴は、視線を再び元に戻した。
北川の話はさらに続く。
「そういうことなら、適任のやつがほかにもいたのにな。相沢とか天野とか」
そう。考えてみれば、変な話である。
いくら初対面で好印象をもたれたとは言え、まだ信頼しきっていない北川を迎えによこすなど、あまり良策とはいえない。普通に考えるのであれば、やはり、北川の言うとおり、慣れ親しんでいる者にするべきなのだ。
真琴も、当時は疑問に思ったものだ。迎えをよこすことはいいとしても、何故、北川なのか? と。
正直、最初は不安であった。確かに、初めて彼を見たときは、いい人なのかもと思ったりもしたが、だからと言って、知り合ったばかりの彼をそこまで信用できなかった。
今でこそ、これほど打ち溶け合っていはいるが、最初はやはり、かなりぎこちないものであった。
北川から逃げ出して、迷子になりかけた時もあったくらいである。
だが、今の真琴には、何故、義母が彼を選択したのかが分かるような気がした。
北川にバイトの迎えをされるようになってから、外で友達がたくさんできた。
幼稚園のバイトも、北川のことがあってから何とか上手くやれるようになった。
それらが、全て、北川のお陰ではないのだろうが、確かに何かしら北川の力は働いていたのだ。いや、力と呼べるようなたいそうな代物ではないかもしれないが、それでも、そういった変化がおきたのは事実である。
秋子は、それをどこか予測していたのではないだろうか。
「でも、お義母さんは、結構、色々考えてるみたいだから……」
だが、真琴は、敢えてそれを口には出さず、あいまいに返答しただけだった。
それでも、北川は、うーんなどと唸ってはいたが。
「まあ、いいか。結構、こういうのも悪くないし」
そう言って、再び真琴の頭をポンポンとたたくのだった。
*
あの日から数日がたったその日も、真琴は幼稚園のバイトで大忙しであった。
相も変わらず幼稚園の子供たちは元気のようである。そんな彼らの相手をするのだから、真琴もすでに疲れてはいるのだが、さすがに慣れてきたのか以外とケロッとしていた。
「あ、真琴ちゃん?」
「あ、何ですか?」
園の先生に呼ばれ、真琴は普段では考えられない口調で返事をした。当たり前のことではあるが、少し前の彼女のことを考えれば、随分な変化ではある。
他のみんなが聞いたらどう思うのかしら、などと真琴自身、自分の変化を考えながら、先生の下へ向かう。
「あのね、そろそろ、おやつの時間なのだけれど、哲クンがまだ来ていないの。悪いけど、ちょっと探してきてくれないかしら?」
幼稚園の先生らしいやわらかい笑みを浮かべながら、その女性はそういってきた。
ちなみに、哲クンというのは、哲弘という名前のこの幼稚園屈指の悪戯少年である。真琴が、受ける悪戯も大半はこの少年が関係しているのだが……。
真琴は、少し嫌な予感を感じつつも、分かりましたと素直に答えて、彼の捜索に取り掛かった。
捜索とは言っても、すでに目星はついている。いつもの場所で、また何やらやっているに違いないのだ。
「いつも、あそこで悪戯の準備をしてるのよね、全く子供なんだから」
自分も大して変わらぬことをしていたことに、気づいているのかいないのか、真琴は、そう独りごちた。
そう考えて、真琴は、哲弘のいつもの場所である裏庭に向かう。そんなに大きくはない、いや、むしろ、こじんまりとした感じさえ受けるこの幼稚園を移動するのにそんな時間がかかるはずも無く、程なく目的地に到着した。
目的の少年は――いた。
哲弘は、地面に座りながら必死に何かの作業をしているようであった。
「哲弘!」
ビクッとしながら、哲弘は、恐る恐る振り返る。瞳に移ったのは仁王立ちの真琴の姿だった。
「何だ、姉ちゃんか……」
驚いて損したとばかりに、哲弘はそう言うと、再び作業に戻り始めた。
「何だとは、何よ! 哲弘こそ、どうせこんなところで悪戯の準備でもしてるんでしょ?」
「そうだよ」
事も無げに哲弘。
真琴は、予想もしていなかった答えに一瞬と惑った。
真琴が、言葉に詰まっているうちに、哲弘は作業を進めながらも、彼女よりも先に口を動かす。
「いいじゃんか、ガキなんだから。それにさ……姉ちゃんも少し前まで同じことしてたんだろ?」
ガツンと激しい衝撃を頭に受けたように、真琴は心に動揺が走るのを感じた。何でそれを、この少年が知っているのか?
哲弘は、そんな真琴の表情や様子から考えていることを読み取ったのか、ケケケ、と笑っている。
「何で知ってるんだ? って思ってるだろ」
そこで、哲弘は言葉を切り、ニヤッとした表情を見せた。
「いつも、姉ちゃんを迎えに来る兄ちゃんいるじゃんか。あの人が教えてくれたんだぜ?」
まるで、宝物を自慢するかのようなしぐさで哲弘は胸を張って見せた。
無論、真琴のほうはそんなことよりも、余計なことを教えた北川への怒りが大きくて、そんなことを気にしている余裕は無かったようだが。
(じゅ、潤のやつっ〜〜〜〜〜! 何で、そんな余計なこと教えてるのよっ!?)
一体、どうしてくれようか、とか、肉まん何個くらいおごらせようか、とか、そんなことを腹の中で考えていると、哲弘が思いついたように言ってきた。
「そう言えば、姉ちゃんとあの兄ちゃんってすっげえ仲良いよなあ? もしかすると、恋人ドーシってヤツ?」
恋人同士……恋人って、漫画でよくあるあの……真琴は、そこまで考えて、急に顔が熱くなるのを感じた。心臓の動悸が激しくなっていくのも分かる。
「こっ、こっ、恋人って……そ、そ、そ、そ、そんな訳ないじゃない!!」
赤くなった顔を前に突き出しながら、必死に否定する真琴。無意味な位おおげさに、哲弘に顔を近づける。
哲弘は、慌てる真琴を、満足そうに見ながら、さらに言葉を続けた。
「何だ、違うのか――じゃあ、姉ちゃんの片思いだな」
ブッと思わず吹き出す真琴。
「な、な、なに、なに、なに――」
「ははっ、でもきっと、あの兄ちゃんも姉ちゃんの子と好きだと思うから、セッキョクテキに行けばOKだって」
そう言って、にんまりとした顔を見せた。
普通に見れば、子供の無邪気な笑顔とか、そう言ったところなのだろうが、今の真琴には子悪魔の意地の悪い笑みにしか見えなかった。
「さて」
と、哲弘が立ち上がる。
「あっ、ちょっ、待ちなさいって!」
何とか我を取り戻した(とは言っても、まだ顔は赤いままだが)真琴は、いきなり立ち上がった哲弘を捕まえようと手を伸ばした。
が、それをひょいっと避ける哲弘。真琴は、手を伸ばしながら、2、3歩前につんのめり――
ズボッ
「ズボッ……って?」
恐る恐る、足元を見てみると、見事に片方の足がぽっかりと開いた穴にはまっている。
「このっ! 哲弘ーーーーー!! アンタの仕業ね!?」
「それ以外考えられないじゃないか。あ、でも、それちょっと小細工しといたからなかなか抜けないぜ――っつーわけで」
そう言って、クルンと身を翻す哲弘。
待ちなさいよ、とばかりに手を伸ばす真琴。だが、すでに十分な距離が離れている彼をつかめるはずも無く、空しく手は空をかすめただけだった。
足をじたばたさせるも、彼の言ったとおり、何か仕掛けを施してあったらしく、なかなか抜けそうも無い。
「こらあーーーーっ!」
「大丈夫だって。姉ちゃん、おやつの時間だから、俺を呼びに来たんだろ? 俺がおやつを逃すわけないって」
そう言うと、今度こそ走ってその場からいなくなる。「じゃねー」という言葉だけが、空に取り残された。
真琴は、途方にくれたようにしばらくは彼の走り去っていった方を見ていたが、やがて自分の足元に視線を移した。
「どうしろってのよ……コレ?」
*
その日、真琴が無事救出されたのはおやつの時間が終わり、園児たちがそろそろ帰ろうかと言う時間になった頃であった。
まあ、それはいいとして、その後が問題だった。
いつものように迎えにやってくる北川。変わらず手を振って真琴のことを待っていた。
だが、真琴は、哲弘に言われたことが、気になってしょうがなかった。
自分は、北川のことが好きなのだろうか? 北川も自分に好意を持っている?
そんな考えが、円運動のように真琴の頭を駆け巡っており、北川との帰り道は自分でもはっきり分かる程、ギクシャクしたものになってしまった。
北川も真琴の様子がおかしいことに気づいたようではあったが、とりあえず、深く追求はしてこなかった。
漫画だとこんな風になるのは異性を好きになったから、つまり、”恋”をしたからだと書いてあったような気がする。そう考えるだけで、顔が熱くなる。
でも、自分が感じているのは果たしてそうなのか?
そんな思考の堂々巡りが、北川との帰り道から、家について今に至るまで続いているのである。
家についてからは、特にその状態が顕著になったようで、夕食時などはそのあまりの大人しさに祐一が「お、お前、熱でもあるんじゃないのか!?」と言った風に心配するほどであった。
夕食が終わって風呂に入った後からは、部屋に閉じこもったまま、真琴は、今までに無い感情にひどく戸惑っていた。
どこか焦点の合わない目で部屋の壁を睨みながら、
(誰かに相談しようかな)
とうとう限界に来たのか、真琴もそんなことを考え始めた。問題は、誰に相談するかであった。
電話で相談するよりも、直接話したほうが意思表示をしやすいだろうから、相談相手は、水瀬家の人間と言うことになるが……。
祐一は……却下だ。こんな話をすれば、後々何と言われるか分かったものではない。
あゆも何となく頼りがなさそうなのでパス。
秋子――義母は、うん、きっと理想の相談相手だろう。この家の年長者だし、何といっても既婚者である。過去に幾度と無く彼女からアドバイスを貰ったこともある。だが……。
だが、何となく今度の話は、自分に近い年齢の人に相談したいと言うのもあった。となれば――
ゆっくりと視線を上げて時計を見る。時計の短針は西を示すまでもう少しと言うところであった。
(名雪……起きてるかな?)
力なく立ち上がりながら、意識して静かに歩き出す。
名雪の部屋の前で、立ち止まりながら、控えめにノックする。
「誰?」
名雪の声だ。どうやら、まだ起きていたらしい。
「あの、あたし」
「真琴? どうしたの」
「そう、それで真琴、今日何か変だったんだね」
名雪が真琴を部屋に招きいれて、もう結構時間がたっただろうか。
部屋に入ったものの中々話を切り出せずにいた真琴ではあったが、そう言った様子も気にせずに待っていてくれる名雪の様子に、やがてポツリポツリとではあるが話しを始めたのだった。
「でも、それが何なのかよく分からなくなっちゃって」
「そっか……うん。よく分かるよ、その気持ち。わたしも初めはすごく戸惑ってたから」
「ねえ、名雪はその時どうしたの? その自分が”恋”をしてるって思ったの?」
名雪は、うーん、と少しうなるような声を出したが、やがて、恥ずかしそうな笑みを浮かべながら言う。
「わたしは、きっと”恋”なんだって思い込んじゃったみたい……でも、その時のそれが”恋”かどうか分からないけど、少なくとも、今のわたしは”恋”してるんだってことは分かるよ」
「ねえ、もしかして、昔からずっとその人のことが好きなの?」
「うん……そうだね」
そう言って、ちろっと舌を出す。
真琴は、そんな名雪を見て少し笑った。しばし、二人して笑っていた。
「あたしは……あたしはどうなのかな?」
「それは、やっぱり、真琴しか分からないよ。でも、まずは、その人とじっくり話してみるといいかもしれないよ? いつも通りに」
「いつも通りに……」
「そう。そしたら、何となく整理がついて分かってくるかもしれない」
「でも……」
どこかすがるような顔で真琴は、名雪の目を見た。真琴の目に映る彼女の姿は、どこか秋子と似た母性的な雰囲気を持っている。
思わず、黙ってしまう真琴。聞こえてくる時計の針の音が妙に気になる。
「大丈夫。真琴はこんなにかわいいんだから、相手の人もきっと真琴のこと好きでいてくれるよ」
それは、女性独特の自信感なのだろうか。柔らかい声ながらも、強く真琴の心に響く。何となく、心が落ち着くような感じがした。
「そう……かな?」
「うん。きっと……だよ」
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