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 小さいスタンドライトに弱い光が灯る薄暗い部屋で、ベットに寝転び腑に落ちないといった表情をしながら、北川は天井をにらめつけていた。
 家に到着してから、北川はどうにも疑問が振り切れずにいた。
 いつもの通り、幼稚園の前で真琴を待っていた北川であったが、普通なら、北川の姿を見つけると「いたいたー」などといって走りよってくる真琴が、今日はどうも無言かつ、ぎこちない様子でこちらにやってきた。
「どうしたんだ?」
 と、聞いては見たものの……
「な、何でもない」
 と、どう聞いても何かあったかのようにそう返す真琴。
 帰り道での間も、彼女は終始無言で、こちらから話しかけても何かを考えているようでどうにも反応しない。
 顔もこちらに向けない。と、そう思えば、時々伺うように北川を見ている。だが、北川がそれに気づいて真琴のほうを向けば慌てて顔を背ける。
 他にも多々あるが、そういったようにあからさまに様子が変であった。何かあったのは間違いない。
 だが、問題はそれが何であるかであった。
「オレ……何か、やったか?」
 思わず呟く。
 だが、思いつくことなど何一つ無い。北川は、腕を組みながら状況を整理してみることにする。
 昨日までは、特に代わり映えはしていなかったので、何かがあったとすれば、昨日の夜から今日にかけてと言うことになる。
 まず、昨日の夜だ。が、ここで何かがあれば、恐らく祐一あたりが、真琴の様子がおかしいと報告してくるはずだ。
 そうなると、今日に何かあったと言う線が濃いだろう。
「けど、これ以上考えても分かるわけ無いよな……明日辺りに、相沢に聞いてみるか」
 北川は、右手で無造作にスタンドの電気を消す。
 暗くなった部屋は何も見えない。瞳をつぶって、眠りの到来を待つ北川。
 闇の中で、疑問が反復する。真琴はどうしたのだろう? そして、オレは、どうしてそんなに気になっているのだろう?
 その日は、なかなか眠れなかった。








 朝の学校。この時間帯の教室のやかましさは何度聞いても慣れられない。
 北川は机に突っ伏しながら、なるべく周りの声が聞こえないように腕を頭の周りで丸めて寝ている。
 朝に弱いに北川にとって、朝のHRまでのこの僅かな時間は貴重な睡眠時間なのであった。
 ぼんやりとした暗闇の中でまどろんでいると、机の動く音が隣から聞こえてくる。と、同時に女の声。
「おはよう、北川君」
「おふぁ……」
 北川は、うっすらとする意識でどうにか返事をした。その声の主は、更に何か言ったようであるが、それは聞こえない。言った言葉は予想がつくが。
 やがて、廊下側から激しい音と声が聞こえてくる。
 来たな。と、その音がキーであるかのように、北川の脳が徐々に起動していく。
 目を開けて教室の入り口のほうを見ると、予想通り、そこには祐一の姿とそれに引っ張られるかのよう腕を掴まれ、だらんとしている名雪の姿。
 そして、ほぼ同時に担任の石橋が入ってきた。
「今日は、いつも輪をかけてギリギリねぇ」
「そだな」
 先ほど、声をかけてきた隣の女子――美坂 香里に同意を示しながら北川は石橋のほうに向き直る。
 香里もその長いウェーブの髪を揺らしながら、祐一たちから視線を外した。
 名雪を支えたままの姿で、祐一は肩を大きく動かしている。
「し、新記録だ」
 そんな声が聞こえてきたような気がする。
 祐一たちが席に座ることを確認すると、石橋は、次の授業が進路相談の時間に変更になることを告げて、その他はいつもの通りの簡潔な人数確認だけをしてHRを終えた。
 進路……と考えて、北川は頭が痛くなるのを感じる。
(そうだよな……もう、高校3年だもんな、みんな、バラバラになる。特に、オレは……)
 さてと、と問題を強引に終了させて北川は立ち上がると、祐一の姿を探す。
 と、
「おう、北川」
 その祐一が声をかけてきた。
「相沢、丁度よかった。ちょっと、お前に聞きたいことがあるんだ」
「お前も? いや、実は俺もお前に聞きたいことがあるんだが」
 と言われて、ふと、考えるしぐさをする北川。祐一が、怪訝そうにこちらを見ている。
 と、祐一も気がついたかのように、ん? と声を上げた。
『もしかして、真琴のことか?』
 二人の声がハモった。
 とりあえずは、祐一のほうの話しから聞いてみることにする北川。
 やはり、帰ってきてからと言うものの真琴の様子がどうもおかしいと言うのだ。
 昨日の彼女にいつもの元気さは全くと言っていいほど無く、180度回転したかのように大人しかったらしい。理由を聞いても答えてはくれないようだし、それどころかさっさと部屋に戻ってしまった。
「やっぱりそうか……」
「んで、北川。お前のほうはどうだったんだ?」
「同じような感じだったな。妙に大人しくて、こちらが何か聞いても呆けてるみたいで、何も答えてくれないんだ……ただ、妙にこちらを気にしていたような……」
 お前、何かやったのか? などと祐一が言ってきたので北川は、蹴りを入れて黙らせる。
 結局、有益なことは何も分からなかったな……苦悶の表情でのたうち回る祐一をよそに、北川はしかめ面のまま顔を傾けた。
 やがて、チャイムが鳴った。
 進路相談は名前順に呼び出されるはずなので、早い段階で呼ばれる北川と祐一は、その話はとりあえず切り上げることにした。
 祐一の名が呼ばれ、進路指導室に向かう際に、彼は北川にぼやくように言って来た。
「そういや、お前って進路どうするつもりなんだ?」
 北川は、うーんなどと答えながら、どうするかな? と、答えをはぐらかした。








「お、姉ちゃん、今日はどうしたんだ。いつもみたいに元気がねえなあ?」
 からかい口調で哲弘は、どこか元気がない真琴にそう話しかけた。
「う、うるさいわね。あたしは、本来おしとやかなのよ」
 そう言いながらも、真琴は、それが空元気であることを痛いほど自覚していた。いつものように、哲弘をひっぱたく気にもなれない。
 哲弘は、ああそうですか、とやはにやけ顔で言ってきた。
 真琴は、何なのよと言おうかとも思ったが、どうしてかそういう気になれずにそのまま口を噤む。
 昨日の名雪との相談で、多少落ち着きはしたものの、やはり、まだ戸惑いを真琴は隠しきれずにいた。
「本当に元気ないなあ。姉ちゃん、まさか昨日のことまだ気にしてるのか?」
 その言葉を聞くや否や、真琴がピクッと反応を見せる。
「しかし、姉ちゃんはウブな方だと思ってたけど、ここまですごいとは思わなかったな。今時、レアもんだぜ」
「うっさいわね。子供が生意気言うんじゃないの。子供は子供らしくしてなさいよ」
 哲弘は、肩を僅かにすくめると(あまり、様になってなかったが)ふふーんと自身ありげに笑う。
 続けて、指を左右に揺らしながら
「チッチッ、最近の子供は大人が思っているようなかわいいもんじゃないんだぜ。だいたい、子供らしくにって大人の押し付けみたいなもんだろ?」
 そう言う。まあ、姉ちゃんも子供と大差ないけどな。などと付け加えながら。
 真琴は、どこか流すようにそれを聞きながら、何とはなしに空を見上げた。
 青い空。ところどころに、思い出したように綿のような雲が浮かんでいる。その雲を人の顔に見ようとすれば、まあ、見れないことも無かった。
「ねえ」
 不意に、真琴が口を開いた。
「哲弘。あんた、前にあたしと潤……あんたの言う兄ちゃんのことよ……その人とさ、こ、恋人同士に見えるって言ったわよね?」
 顔は、哲弘のほうを向かずにまるで反対の方向を向きながら、もごもごとそう話す。
「おう。何つーの? 仲睦まじいっていうか、ほのぼのするっていうか、そんな雰囲気だったから」
 そうだ、アットホーム的な雰囲気ってやつだ、と最後に付け加える哲弘。
 しばし、沈黙。
 真琴は、ちらっと哲弘のほうを見た。いつもならにやけているその顔は、今日は珍しく神妙そうであった。
「いきなりそんな話するなんて、姉ちゃん、ついに心を決めたのか? ねえ、どうなのさ?」
「ちゃかさないでよ。心を決めるも何も、好きかどうかもまだ分からないのよ?」
「ふうん。そんなもんかなあ……難しく考えすぎじゃねえの。父ちゃんも言ってたぞ。『難しく思えることほど、実は単調だ』って、よくは分かんないけど、これってつまり難しく考えすぎるなってことだろ?」
 難しく思えることほど、実は単調だ……真琴は、その言葉を心で何度も反復させる。
 彼のことが好きなのかどうか分からない――でも、いつも帰りに彼が来てくれるのを楽しみに待っていた。
 だから、好き? 本当に? ――でも、彼と話すのはとても楽しい。
 変な話されて、意識してるだけじゃない? ――そうかもしれない。でも、そうじゃないかもれない。
 つまるところ、どうなのさ? ――分からない。でも、彼の側にいたい気がする。
「また、そうやって黙り込む……らしくねえなあ。姉ちゃんはさ、いつも通りあの兄ちゃんを困らせてればいいんだよ」
「いつも通り?」
「そうさ。昨日はセッキョクテキなんて言ったけど……やっぱり、普通が一番だな。うん。今日の見てて思った」
「そっか。やっぱり」
 うなずく真琴。
 哲弘は鼻を擦りながら、そうさ、と、大げさにうなずいた。
「哲弘……」
「ん?」
「ありがと」
 哲弘は、真琴のほうは見ないで、おう、とそれだけ答えた。








 その日も、何のトラブルも無く学校は終わった。英語で抜き打ちのテストがあり、生徒たちが一斉にブーイングを鳴らしてと騒いでいたのを除けば、平穏無事そのものであった。
 ちなみに、北川はそのテストで97点をキープしていた。幼い頃、アメリカに住んでいた彼は、英語などお手の物なのである。(とは言え、日本独特の英語問題に悩まされることもあるが)
 北川は、赤みがかった空を少し見上げる。暗くなるのが早くなったもんだな、などと一人感慨にふける。
 彼は、今、もはや日課になってきている真琴の迎えにいく最中であった。
 ただ、今日はそれが終わったらバイトがあるため気楽な気分ではなかったが、それ以上に昨日の真琴の様子が気になって仕方が無い。
 腕を組みながらそんなことを考えていると、やがて、幼稚園が見えてきた。
 時間的にも丁度いいころあいである。
「真琴の姿は……」
 言いながら、彼女の姿を探す。そう時間もかからないうちに彼女の姿を見つけた。確か、哲弘、と言ったか。この幼稚園の悪戯小僧と話している姿が見える。
 北川は声をかけようとするが、昨日の真琴の様子が頭をよぎり、どうしたものかとためらってしまう。
 ふと、真琴が北川のほうを向いた。視線が合う。
 決意を固めて、北川は声を上げた。
「真琴。迎えに来たぞ」
 真琴は、件の少年に押されるようにして、こちらに走ってくる。その足取りは、やはり、どこかぎこちないようだったが
「それじゃ、帰ろうよ」
 そう言って、真琴は、促すように幼稚園の外に向かいはじめた。
 昨日のように、北川を避けている様子はないようであった。
 かすかに感じる安堵感にも似た感情に、ほっと胸をなでおろす北川。真琴が、疑問符を浮かべて見ているの事に気づき、慌てながら、何でもないよとごまかした。
 歩いていると、当然ながら遠ざかっていく幼稚園。夕日の反射がまぶしい。
 肩越しにその様子を見ながら、さしあたっては当たり障りに無い会話からと、北川は普段話しているようなことを思い出しながら、隣で歩いている真琴に話しかけた。
「今日は、いつもみたいに、ボロボロじゃないんだな」
 言ってから、いつもはこんなこと話しただろうか、などと、考えてしまう北川。日常会話などというものは、あまり考えて話すものではないと言う皮肉を痛感する。
 これでは、昨日みたいにギクシャクするだけだぞ、と自分に警告のようなものを入れて、北川は思考を表情には出さないように努めていた。
「うん。今日は、アイツ大人しかったから」
 場を軽くしようと、お前も大人しいけどな、そう言いそうになったが、それは止めておいた。
 そんなことを言って、彼女が、また昨日のようになってしまっては本末転倒である。
「大人しい……ねえ。評判の悪戯少年がどうしたんだろうな?」
 そうは言ったものの、北川には彼がどうしてそういう状況になったかが、分かるような気がした。
 恐らくは、今日の幼稚園でも真琴は、昨日のようにあからさまなほど元気がなかったのだろう。
 以前に、彼と話した時に、そんなに真琴に構うのはどうしてだ? と聞いて、
「だって、姉ちゃん、リアクションがおもしれえんだもん」
 そう答えてきたのを覚えている。
 今日の真琴の様子は、彼にはあまりにも詰まらな過ぎたのだろう。つまりは、そういうことである。
「あ、後、助言を貰った……かな」
「助言?」
 はにかんだ様に、照れた表情の真琴を見ながら、北川は訝しがった。
「幼稚園生に?」
「う……うん。まあ、そう」
 助言……なるほど。今日の真琴が、取りも直さず昨日よりも状態が良好化(と言っていいのだと思う)しているのは、そういうわけがあったのだろう。だが……
(どうして、その話をオレにしてくれなかったんだ?)
 ふと、思いついた考えに顔をゆがめる北川。
「どうしたの? 潤」
「いや、何でもない」
 真琴に言われて初めて気づいたのか、北川は表情が表に出てしまったことに気づいた。慌てて、肩をすくめつつ笑ってそうごまかす。
 幼稚園生に嫉妬してどうするんだ、と”嫉妬”の意味も深く考えずに北川は、心のどこかに急に浮かび上がったその言葉に当惑した。
「ところでさ、何を助言してもらったんだ?」
 北川は、真琴と自身をごまかすように、そう言って話を逸らす。
 おそらく、その”助言”とやらは昨日のことに関係しているに違いない。ならば、彼女が答えてくれるはずはないのだが、一瞬、動揺していた北川の心はそこまで考える余裕がなかった。
「あ、それは、その……」
 北川のほうを見たり、地面のほうを見たり、手をもじもじさせたりと挙動不審になりながら、真琴は言葉を詰まらせている。
 我に返った北川は、まいったな、こんなこと聞くつもりなかったのに、と己の浅はかさを罵った。
 だが、元から昨日のことを聞くつもりで今日は彼女を迎えに来たのだ、ならば、今、聞いてみるしかないのでは?
 北川は、そう考えて決意する。
「真琴……昨日のことか?」
 自身で考えていたよりも随分小さい声で、北川はそう告げた。
 驚いたように、真琴は北川のほうを見ている。
「昨日、様子が変だったから……違うのか?」
「……うん」
 否定するかと思いきや、真琴は素直にそれを肯定した。小さい声と、それに比例するくらい小さい動作でこくりとうなずくのが見える。
 北川は、黙って真琴が次の言葉を続けるのを待った。
「それは、そうなんだけど。実は、自分でもまだよく分かってないみたい」
 うつむいたままで、真琴の表情は北川からは見えない。声の調子から、何となく予想はできるが。
「何に悩んでいるかがか?」
「そうじゃないんだけど……」
 そう言って、真琴は黙ってしまう。
 北川は、ふぅ、とため息をついた。
「オレには、話せないことなのか?」
 真琴は、黙ったままで北川のほうを向いた。
 北川の瞳に移ったその表情は、照れているような不安げなような、ともかく、非常に難解な表情であった。
「いつか」
 真琴が、不意に口を開く。北川は、真琴の顔から視線をずらさないで、その言葉を聞く。
「必ず、話すから」
「そうか。必ずだぞ?」
「うん」
 そう言って、真琴は、昨日と今日で初めてのいつもの笑顔を見せた。その笑みは、何というか一言で表すのなら、そう、魅力的であった。
 北川は、照れ隠しのためか、何とはなしに笑い返した。
 だが、心の深いところで、自問している自分を北川は自覚する。
 いつかとは、時間があってこそのいつかなのだ。そのいつか、自分はまだ彼女のそばにいられるのだろうか?








 真琴が家に到着すると、既に、祐一と名雪は帰ってきていたようだった。玄関には、見覚えのある靴が二組ずつ置いてある。
「ただいまー」
 今日の帰りのことを思い出してか、声が浮かれ気味になってしまうが、まあ、今の彼女はそんなことはどうでもよかった。
 何とか、あれだけ話せたのだ。大丈夫、いつか、きっと話せる。
「あれ?」
 ふと、誰の返事も返ってこないことに気がついて、家の様子を伺う真琴。
 何やら、キッチンの方からたくさんの人の気配がする。皆、秋子も祐一も名雪もあゆも、皆、そこに集まっているのだろうか。
 キッチンに向かうと、案の定、皆、そこに集まっていた。どこか、神妙な顔つきでテーブルについている。
 真琴は、普段なら、決して見ることのない家族の様子に、先ほどの浮かれ具合から一転、妙な落ち着きのなさを感じていた。
「あら、気づかなくてごめんなさいね、ちょっと話していたものだから。おかえりなさい」
「うん。で、話って?」
 真琴がそう聞くと、祐一と名雪がこちらを向く。
「ああ、いや、進路の話だ。まあ、俺も名雪ももう高校3年だからな」
「うん。それで、わたしと祐一は、同じ大学に行くって話になったんだけど……」
 薄っすらと、本当に薄っすらとしか分からなかったが、そう交互に話す祐一と名雪の顔に影がかかる。
 真琴は、そんな様子を察しながらも、二人がどうしてそういう顔をするのかが、まだよく分かっていなかった。
 疑問符を浮かべる真琴を見て、こまった表情をする二人。
 同じくテーブルに座っているあゆは、何かに耐えているような表情で二人を見ている。
 嫌な予感……ふとよぎったその感覚は、次の言葉で実証された。
「ちょっと場所がな、遠いもんだから。アパートを借りなくちゃ、と。ああ、つまりだな……」
 祐一が、珍しく発言に臆している。そんな様子の祐一の姿は、初めて見るような気がした。
 真琴は、彼の言葉の意味を考える。だが、どこか分かっているはずのに、その意味を理解しようとすると、心のどこかに壁ができたようにそれを阻むのだった。
 祐一が、あたふたしている傍らで、さっきまで、じっと黙っていたあゆが唐突に口を開いた。
「祐一君と名雪さん……4月になったら、ここを出て行っちゃうんだよ……うっ」
 それまでずっと、耐えていたのだろう。
 雨が堰を切って振り出すかのように、大声で泣き出すあゆ。だが、それでも真琴は、未だ反応できずにいた。
「あゆちゃん……」
 名雪の心配する声と、なあ泣くなって、となだめる祐一の姿。秋子も寂しそうな表情を隠せない。
「そう」
 真琴は、表情のなくなった表情で、それだけ答えた。








 夕食を食べて、風呂に入って、そして、この部屋で寝転んでから随分時間がたつ。
 真琴は天井を呆けた表情で見ながら、部屋に散乱しているマンガ本を取ろうかとも思ったが、その気力すら起きてこない。
 何で、今まで考えなかったのだろう。予想することくらいはできたはずだ。
 真琴は考える。
 祐一も名雪もそれぞれ、やりたい事、夢、そう言ったものを漠然だったとしても持っている。
 その二人が、いつかこの家を出て行くことは、予想できることだったのだ。
 記憶喪失であるらしいとこの家にやって来てから、既に半年をとうに過ぎて、急速に知恵や知識をつけて言った真琴は、今までのような生活が続くと疑うことなく生きてきた、少し前までの自分がどうしようもなく子供に思えてしまうのだった。
「確かに、この家からは出て行くことになるが、もう二度と会えないわけじゃないんだぜ?」
 あゆをなだめていた祐一の言葉が思い出される。
 確かにそうだろうとも思う。会おうと思えば、きっと会える。けれど、今までのような生活は送れない。それが、どうしようもなく悲しい。
 いつかは、みんな離れ離れになっていく。
 漫画でそんな台詞を読んだのを思い出す。きっと、こういう状況のことを言うのかな、と真琴は自嘲するように呟いた。
 ……北川も、彼もそうなのだろうか?
「いなくなる……潤が? あたしの前から」
 ふと、そんな考えがよぎる。心にできた小さな疑問は、たちまち広がりだして真琴の心を支配した。
 真琴は、はっとするように今日の帰りの会話を思い出す。
「いつか、必ず話すから」
 決意するように言ったあの台詞。
 もし、彼が祐一たちのようにこの地から離れていくのだとしたら。だとしたら、彼はこの台詞をどう思ったのだろうか?
 もし、そのいつかの時に、彼がいなくなっていたら?
「ッ」
 ぐっと押しでそうになる声を真琴は抑えた。
 だが、本当に抑えようとしていたのは、声などではなく心のほうであった。
 昨日の酔ったような感覚とも違うような感じだった。それは、炎よりも熱く、激流よりも激しい、心の奔流。
「必ずだぞ?」
 北川の言葉が耳にこだまする。
 真琴は、必死でそれを抑えながら、いつしか瞳から涙があふれてくることに気がついた。








 アパートに帰還してから、北川は何となく心が温まっていることに気がついた。
 今日の真琴は、いつも通りとまではいかないが、随分持ち直していた。あれなら、もう心配しなくても大丈夫だろう。
 今日の会話を思い出し、気分がよくなる。
 しかし、真琴に対してここまで入れ込むようになるなんて、あの時は予想だにしなかったな。
 そう考えて、北川は薄く笑った。とは言え、悪い気はしない。
 だが……
 のどが渇いてきたので、冷蔵庫から缶ジュースを取り出す。
 北川は、缶ジュースを開けながら、心の温かさの裏に潜む暗い何かが徐々に広がっていくのを感じていた。
「でも、もう、それも後少し」
 意識せずにそう声に出して、北川はそんな靄を取り払うように頭をブンブンと振った。
 飲み終わったジュースをテーブルの上において、北川自身もそのテーブルに肘をついた。
 ふぅっとため息をつく。一度取り付いた暗い思考は中々取り除けない。こんな時は、何も考えないことを考えるのだ。妙な言い方ではあるが。北川式で言えば、これが無心というやつであった。
 一人暮らしのアパートで、時計以外の音は聞こえてこない。
 無心であることをいつしかやめて、北川は、最近は忘れていた寂しさを感じていた。
 と、携帯が着信音鳴らす。
 静かさに完全に溶け込んでいた北川は、突如割り込んできたその無遠慮なメロディに心臓がつかまれるような思いがした。
「驚かすなよなったく、誰だ?」
 愚痴るようにそう言って、北川は携帯を取り出す。
 発信者してきたのは……携帯の画面を見ながら、北川は、噂をすれば影と言う言葉を感じざるを得なかった。
「よう、元気でやっているかあ?」
 携帯の向こうから聞こえてきたのは、何とも能天気な男の声であった。
「まあ、ぼちぼちだよ、親父」
 電話の主は、北川の父親であった。声もどことなく北川に似ているようである。
 北川は、自分の心境とは正反対にえらく元気というか能天気な父親の声に脱力感を覚えていた。
「で、何なんだ? 一体」
「うぅむ。それが、俺にも分からんのだ。まあ、強いて言えば、わが子を心配する親の気持ちが……ってやつ?」
「ああ、そうですか」
 北川は、棒読みでそう答える。もちろん、わざとだ。
 相手側のほうは、全く気にしていないようだ、あまつさえ、そうなのだよ、などと返してくる始末である。
「んで、まあ、本当のところは用件があるんだろ? 思い当たることは、一つしかないけど」
「おお、さすがわが息子だ。察しがいいな」
 北川は、携帯を耳に当てたまま考える。
 別に、電話が来ようともそうでなくとも、結局、変わらないことなのだ。ただ、確認をさせられるだけ。
「分かってるよ。高校を卒業したら」
 北川は、瞳を閉じた。
「そっちに、アメリカに帰る」


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