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*
北川 潤と言う男は、彼の学年内に置いて、かのトラブルメーカー相沢 祐一と並び、それなりに有名人である。
それは、彼の人付き合いのよさ然り、先導性然り、祐一のような派手さはなくとも、影から皆を支えていると言う事実がそうさせているのだろう。最近では、祐一とつるんでいることも無関係ではない。
面倒見がよくて、付き合いやすい男。それが、北川 潤の周りからの評価であった。
そう言った性格ゆえ、北川には友人も多かった。
アクティブにスポーツで青春の汗を流しているようなそんな人間から、どちらかと言うと家で本を一人読むことが好きなような人間、更には、一筋縄ではいかない人間――例えば相沢 祐一など、彼の友人関係は幅広い。
そんな彼ではあるが、意外にもこの高校に来る前のことや、私生活についてなど、彼自身のことについてはあまり知られていない。
「そっちに、アメリカに帰る」
携帯越しにそう話しかける北川の声は、彼自身も驚くほど落ち着いたものであった。
北川は、幼少の頃をアメリカで過ごした。家族は、父と母に妹二人、そして北川自身を含めた5人。
幼少の頃とは言っても、生まれたときからそこに住んでいたわけではなく、彼が3歳になって間もなく父親の仕事の都合でそちらに渡ることになったのだ。
「ほう、今度は素直だな? あの時は、あんなに嫌がったってのに」
電話越しの相手、北川の父はからかうように、そう言って軽く笑った。
彼が再び、日本の地に住まうことになったのは、それから数年後、丁度、小学生になりしばらくした後だった。
理由は、母と父の不仲によるものだった。仕事による行き違いが原因と言う、家族が別れ離れになるにはありそうな話ではある。
だが、母も父も離婚まで考えていたわけではなく、一度、距離をとって生活する――つまりは、別居の道を選んだ。
今では、そういったことはないが、当時は仕事で家を留守にしがちだった父親に対して、北川は良い感情を持っていなかった。
家庭で話をする機会は父よりも、母のほうが断然多かった。
そんな北川が、母を選ぶのは当然だったのだろう。彼は、母について行き、妹たちは父の元に残った。
そして、母親が、移住先に決めたのは、母と北川自身の生まれ故郷である島国にある街。現在、北川が住んでいるこの街であった。
元より、この街に戻ってくることを望んでいた母である。ここに住むことになったのは必然かもしれない。
「あの時は、まだ、ガキだったから。でも、もうこれ以上迷惑かけられないしな」
北川は、自嘲気味にそう答える。電話の相手は、この言葉を聞いてどう思っているのだろうかと、ふと北川はそんなことを考えた。
アメリカに住む前までは住んでいたこの街で、北川は母と共に穏やかな生活を続けた。
母の顔にも笑顔が戻るようになった。それは、時間の経過だけではなく、この美しい白の街の情景がそうさせたのだと、北川はそう思っていた。
父親と再度、一緒に生活して欲しいと言う願いはあったものの、母親と二人でのこの街での生活は、北川にとって掛け替えのないものになっていった。
だが、北川が日本に完全になじみ、もはや彼が外国からやってきたことを知るものが少なくなった頃――現在の高校に入学して間もなくであった、その変化は起きた。
母の急死。原因は、何でもない、ただの交通事故であった。
母親の死体の前で、北川は泣かなかった。悲しさも感じない。ただ、心が虚ろになっていくような酷い虚無感を感じていた。
母親の葬儀は迅速に行われた。日本で。父も妹も急いで駆けつけた。
葬儀の終わったその日、北川は今まで泣かなかった反動か、火がついたように大声で泣いた、いや、叫んだ。
妹たちも泣いていた。
父は――泣いていなかった。少なくとも息子の前では。
「潤。帰ろう、アメリカに」
泣き叫ぶ北川に父はそうやって声をかけた。それは、きっと優しさにあふれた言葉に違いなかったのだ。
だが、妻の死を目の前にしても泣くことを見せなかった父の言葉に、北川は、無機質な響きしか感じ取れなかった。
「嫌だ。オレは残る」
それは、日本での母の思い出の強さか、或いは父親への反抗か、今の北川からすればガキの屁理屈と同然であったが、当時の北川は頑としてそう言い続けた。
そんな息子に対して、父は狼狽した。彼は、一つの提案をした。
それは、高校卒業までは日本で生活し、卒業後にアメリカに戻るというものであった。
父の表情は、複雑そうであった。その表情を見ながら、北川はゆっくりと首を縦に振った。
北川は、そんな過去のことを思い出しながら、しばらく無言なっていたことに気づく。
「あ、悪い」
「……何がだ?」
とぼけたような調子の父の声。もしかしたら、相手も自分と同じことを考えていたのかもしれないと思い、北川はそっと苦笑した。
「ふぅむ。まあ、少しはまだ反発するかと思ってたら、そう思ったほどじゃないな」
「だから、もうガキじゃないんだって」
「二年や三年たっただけで、ガキから大人を自称するとはなかなか傲慢なヤツだな」
冗談で言っているのか、本気で言っているのか、父はそうやって豪快に笑う。
北川は、この場に父の頭があったら踵落としくらいやってやろうかと、半ば本気でそんなことを考えた。
「うるさいな」
「そういうな。まあ、用件はこれだけなんだ。実は、妹たちが最近、そのことをしきりに気にするものだからな」
「そっか」
何といえば分からずに、北川はそれだけ答えた。確かに、一緒に家族全員で一緒に暮らしていた頃、妹たちは、彼によく懐いていた。恐らくは、一般の家庭の兄妹たちよりもずっと。
北川が、アメリカに帰る理由、それは父への詫びと、そしてこの妹たちへ会うためなのだ。
時々、電話で話すこの妹たちは、高校卒業したら、という台詞をよく言ったものだ。嬉しそうに。
その都度、北川は罪悪感にも似た感情に捕らわれ、「ああ、帰るよ」とそう言った来たのだ。それは、決して偽りのものではなかったし、北川の気持ちにも変化があった。
変化……北川が一人暮らしをするようになって、二年をとうに過ぎた。
長いとも短いとも言えないその時間で、北川は考えた。母のこと、父のこと、妹のこと。
母は常に優しかった。だが、実はその優しさに甘えすぎたのではないかと思うようになった。
父の考えは分からなかったが、今は分かる気がした。彼は、厳しくて、そして優しかった。
妹たちは、どう思ったのだろう。母についていったこと。日本に残るといったこと。
とどのつまり、自分はただのわがままを言っただけなのだと北川が認めるまで、そんなに時間はかからなかった。
今度、アメリカに帰ることは、きっと正しいことに違いない。
日本での友人の別れは辛いが、祐一たちが事情を知れば、きっと背中を押してくれるだろう。何だかんだ言っても、友達思いの連中だ。
日本での思い出も、忘れなければいい。母のことも、記憶に強く刻まれている。
アメリカで待つ妹たちにもこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。父も、きっとそれを望んでいる。
だが。
それでもまだ、この地に残りたいと思っている自分を北川は自覚していた。理由も知っている。
(真琴……)
自分に懐いてくれる少女。彼女に言えるだろうか?
もうすぐこの街から出て行くなどと。
*
休日の午後。
大きい繁華街や、イベントスポットがある訳ではないこの街はいつもより静かであった。
人通りの少ない通りを抜けながら家に向かう真琴は、片手に肉まんの袋を抱えながら、ぼんやりと歩いていた。
静けさは、特に嫌いではなかったが、今は厄介だった。そういったものは、意識しようとしまいと人を思考の迷宮に誘おうとする。
最初は、それに抗っていた真琴であるが、それも僅かな時間でしかなかった。
いつしか、知らぬ間に迷宮は彼女を囲んでしまっていた。
昨日からずっと頭から離れない――もしも、北川がこの街を出て行くのだとしたら――その考えは、考えれば考えるほど真琴を粘着質な不安で包み込むのだった。
祐一も名雪も来年の春には、この街を出て行かなければならないと言う。
その事実は、北川ももしかしたらそうなるのではないかと、真琴に考えさせてしまうには十分なものだった。
この半年で仲良くなれて、そして、今まで感じたことのなかった感情を抱かせてくれた彼が、もしいなくなるのだとしたら……
真琴は、かぶりを振った。
「まだ、そうと決まったわけじゃないんだから」
自分にそう言い聞かせて、その考えを強制終了させる。
ふと、見慣れた屋根が見えてくる。もう、住み慣れた「我が家」。
迷宮で彷徨っているうちに、いつの間にか家のすぐ近くまでたどり着いてしまったらしい。暗い気持ちを抱えたまま、玄関に入る。
「あれ?」
いつもの見慣れた玄関に、見慣れぬ靴。客でも来たのだろうか?
「まあ、いいや」
だが、真琴はさして気にせず。玄関を上がり、階段を上っていく。
廊下を歩き、祐一の部屋の前を通り過ぎる。と、
「……そうか」
声が聞こえてくる。祐一のだ。誰かと話しているのだろうか?
見れば、部屋の扉が、僅かに開いている。声が漏れてきたのは、そのせいだろうか。
ともあれ、真琴は、何とはなしにゆっくりと、部屋の中をのぞき見た。
相手は……
*
「……そうか」
どこか寂しげな声を出したのは、相沢 祐一であった。
彼の瞳には、やはり同じような表情をした男が写っている。
北川 潤。彼もまた、寂しげな表情は隠せずにいる。ただ、こちらは、どうにか笑おうと努力して、少し引きつった笑みを浮かべていた。
彼らは、祐一の部屋で、テーブルを挟んで座りながら向かい合っていた。
「ああ、本当は、もっと前に言うべきだったのかもしれないけど。どうしても、な」
「全くだ。とは言え、お前が決めたことだしな」
祐一は、苦笑いを浮かべながら、そう返した。
北川は、すまないな、と頭を下げた。
そんな北川に対して、祐一は、恥ずかしそうに、大げさに両手を振る。
「お、おいおい。謝ることじゃないだろ? それに、家族が揃うんだから、いいことじゃないか」
「ああ、これ以上、家族に迷惑かけられないし、約束だからな」
引きつった笑みは、既になく、どこかすっきりした表情の北川。
(そうだよな。これ以上、わがままは通らない)
ふと、窓の外を見ると、もう僅かに、日が紅くなり始めていた。
そうして、一瞬、ぼうっとしていると、祐一が感慨深そうな声を出した。
「けど、お前にはもう簡単には会えなくなるな」
「そうだな。何だかんだ言っても、やっぱり遠いからな」
「アメリカに帰る……か」
*
「……は、もっと前に……べきだったのかも…………けど……」
声が、小さくてよく聞き取れないが、北川の声だ。ここから、確かに姿を確認できる。
真琴は、とり付かれる様に、その会話に聞き入っていた。
最初は、普通に中に入っていこうかとも思ったが、どうしてか中に入っていくことを拒む何かが、真琴をこういう行動に走らせていた。
それは、彼らの会話の断片や、或いは雰囲気から、どうやらそれが、とても真剣な話だと言うことが分かったからかもしれない。
(それにしても……)
何を話しているのだろうか? 言葉が完全に聞き取れず、かなり断片的なため全く分からない。ただ、
(嫌な、予感がする)
そう、何かが告げるのだ。これは、とてもよくない、と。
彼らの会話は、更に続く。それでも、内容は未だによく掴めない。
いきなり、祐一が慌てて両手を振る様子が見える。何を焦っているのだろうか?
「家族が揃う…………じゃないか」
聞こえてきたのは、そういう台詞だった。家族? 誰のだろうか。真琴は、更に大きく首をかしげた。
次に聞こえてきたのは、北川の声。同じく、よく聞こえないが、どこかすまなそうな感じを受ける。
(やっぱり、よく分からない)
だが、神様は皮肉屋なのかもしれない。次の台詞は、はっきりと聞こえた。聞こえてしまった。
「けど、お前にはもう簡単に会えなくなるな」
一瞬、時が止まったような錯覚を覚える真琴。
簡単に会えなくなる? 混乱する真琴の思考の裏側で、彼女は、冷酷なほどに論理的にその意味を分析しようとする思考をはっきりと感じ取る。
何故、こんなときに限って、そういう風に頭が働いてしまうのだろうか?
真琴は、どうにかそれを止めさせようと、心の中でもがいた。
(止めて)
心の奥底に、悲痛な叫びがこだまする。だが、止まらない。
今、この部屋には、祐一と北川の二人がいる。そんな中で、祐一が言う。「もう簡単に会えなくなるな」と。
(止めてよ)
誰に?
それは、当然、北川に向かってだろう。
と言うことは……
(と言うことは、なんて考えないでよ)
うずくまりながら、声が出てしまうのを、物音を立ててしまうのを必死に抑える。心の中に、防壁を作ってしのぐ。
部屋から、声がまた聞こえてくる。
「アメリカに帰る……か」
防壁は、崩れた。
*
ガタッと物音が聞こえた。部屋の外だ。続いて、走り去っていくような激しい足音。酷く不安定な感じがする。
「何だ?」
慌てたように、北川が部屋の扉を開ける……誰もいない。というか、走り去ってしまったのだろう、さっきの物音から察するに。
「何か、すごい物音がしたな。人が走って行くみたいな」
後ろから、祐一の声がかかる。
「そうだな」
うなずく北川。と、祐一が怪訝そうな目つきで自分の足元、扉のすぐ下を見ているのに気が付いた。
つられるように、足元を見る。
「これは、コンビニの袋か?」
何故、こんなところに? 訝しがりながらも、そっと中身を見る。
ゆげが顔にかかる。まだ、暖かい。それは……
北川の顔が露骨に歪んだ。
「おいっ、北川!?」
袋を投げ捨てて、その場から飛び上がるように走り出す北川。あさっての方向に向かって投げられたコンビニ袋からは、まだ暖かい肉まんがこぼれ落ちていた。
勢いはそのままに、廊下を駆け、階段を飛ぶように下りる。玄関の扉は乱暴に開かれたままだった。
「真琴っ」
うめくようにその名を呼ぶ。
彼女は、さっきの話を聞いていたに違いない。迂闊だった。
走りながら、靴を履く。途中で、何度も転びそうになる。彼女は、どこに行ったのだ? 必死で探す。
彼女を探す傍ら、脳裏に浮かんでくる思考の波。
もっと、早く話しておくべきだったのか? それとも、やはり、アメリカに帰らずこのままこの街で過ごすべきなのか?
前者に関しては、遅すぎる。後者は……
(今は、真琴を探すことだけを考えよう)
狭い十字路を横に曲がって、更に先に進む。
小さい後姿。大きく振られる黄金の髪。
「真琴ぉ!」
逃げる彼女の肩を強く掴む。細い、肩だ。小刻みに震えている。それは、単なる疲労によるものだけではないことは、明らかだった。
「真琴。その、聞いてくれ」
北川の声もまた震えていた。何をいえばいいのか分からない。
真琴は振り返らない。
ただ、弱々しげながら、北川の手から逃れようとしているのが分かる。
彼女は、そのままの状態でうめく。
「潤は、その、アメリカに……あぅっ」
よく分からない台詞を残して北川の手を弾き、そのまま走り出した。
北川は、呆然としながら、弾かれた手をさする。そんなに強く弾かれたわけではないのに、酷く痛い。
そのままの状態で、北川は動くことが出来なかった。
空の赤みは、金色と交えてより深くなっていった。
*
放課後の校舎。黄昏の風景と合わさって、怪しげな雰囲気を醸し出す教室内で、北川は、正にたそがれていた。
窓に寄りかかりながら、外の風景を眺める。校庭では、体育系の部が赤い陽を受け、めまぐるしく動き回っていた。
教室には、北川一人しかいない。
授業が終わり、HRを終えてからずっとこの場に立ったままでいたのだ。
あれから、数日が経った。その間、真琴とは一度も会っていない。あれから、ずっと彼女は幼稚園のバイトを休んでいるのだ。
だが、例え、バイトをしていたとしても会って何を言えというのだ?
(アメリカに行くから、もうほとんど会えなくなる、とでも言えと?)
北川は、唇をかみ締める。
「北川」
声。祐一の声だった。
北川は、振り返らないままで、言葉を返す。
「何だ、まだ帰っていなかったのか?」
「随分、辛辣な言い方だな」
言われて、そんなとげとげしい口調になっていたのかと、北川自身はっとする。
そんな沈黙に気づいてか、
「ああ、別に皮肉みたいなもんだ。本気じゃない」
祐一は、そう弁解する。
とは言え、実際、言葉に多少なりとも棘があったのは確かだろう。北川は、今日、クラスメイトに機嫌ちょっと悪くないか? などと言われたばかりなのだ。
やれやれ、と、自分にあきれるようにため息をつく北川。北川としては、せめて、外面には出さないようにしているつもりなのだが。
祐一は、肩をすくめた。
「北川、お前、ずっとそうやってるのか?」
「まさか、そろそろ帰るよ」
冗談じゃないとばかりに北川は言う。最近は寒いのだ。教室で黄昏たままでいるのにも限界はある。
そんな北川に対して、祐一は首を横に振った。
「違う。そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味だよ?」
「分からないのか? それとも、分からない振りをしているだけか? まあいい、真琴のことだ」
北川は、それこそ苦渋の表情で振り向いた。本人は、きっと隠しているつもりだろうが、全くそれは効果を出していない。むしろ、隠そうとして余計に顔に出てしまっている。
その表情のままで言う。
「どうしろっていうんだ、今更」
祐一は、再度肩をすくめた。さっきは、見えていなかったから北川は、気づくはずもなかったが、やけに芝居がかった仕草だ。それだけ、「やれやれ」を表現したいということだろうか。
「それは、お前が決めることだろ?」
「訳が分からない。お前は、オレのところにやってきて、このままで良いのかと言う。でも、何をすればいいのかと聞けば、お前の好きにしろ、だと。何だ?」
もともとイライラしている北川に、友人のこの態度。北川は、悪意を隠そうともせず言葉にそれを叩き付けた。
だが、祐一は気を悪くするわけでもなく、ただ、言葉を返す。
「ほったらかしにしとくのは、良くないって言ってるんだ……もう、分かってるんだろ?」
分からない。そう言おうとして、口が開かないことに気づく。
しばらくそうしていると、祐一は、お前が決めるんだ、と、もう一度言って、その場から去っていった。
沈黙……の代わりに、外からの喧騒が辺りをしばらく支配した。
そうだ、本当はとっくに分かっていることなのだ、そんなことは。言われるまでもなく。
喉をごくりと鳴らす。分かっている、と答えるのに準備が必要だった。それが、とても重要なものに北川には思えたからだった。
「ああ、分かってるさ」
ゆっくりと、そう答える北川。誰もいないと分かっていても、そう答えないといけない様な気がしていた。
決心を固めるかのように、瞳を閉じた。そして、
(オレ、が決める)
手を握る。強く。
*
夕日をゆっくりと眺めるのは、別段珍しいことでもなかった。特に、最近は、というより、ここ数日は。
「ふう」
沢渡 真琴は、(これもまた、ここ数日増えたものだ)ため息をついた。
あの日から、ずっとこうやって逃げている。
あの日、北川と祐一の会話を聞いてしまったあの日。
あの後、祐一から北川の事情について聞いた。やはり、会話から読み取った内容は間違いではなかったのだ。
(潤は、アメリカに行く)
確認を取らなければ、ここまで深く落ち込まなかっただろうか、などと思うが、どちらにせよ、あのままでも暗い気持ちのままだっただろう。
このままではいけない。と、思う。思うが、どうすればいいのか分からない。
正しい行動は、北川を笑顔で送ること、それとも、泣いて引き止めること? 分からない。
北川は、どうやら、随分前から、アメリカに行くことになっていたのだと言う。ならば、ここで見送るのが一番なのだろうか?
(でも)
そう、「でも」なのだ。理屈だけでは、駄目だった。
ずっと、繰り返してきた。北川は、アメリカに帰るべきだ。でも、それでは心が納得しない。と、まさに延々と。
折角、抱けたこの暖かい感情が消えてしまうのは、どうにこうにも……辛かった。
「あたしは」
瞳の奥が熱かった。涙が、溢れてきそうになるのが分かる。きっと、それが止められない事も。
と、後ろのほうに気配を感じた。
「真琴」
いちいち、顔を見ずとも分かる。北川の声だった。
「じゅ、潤」
振り向けないまま、上ずった声で真琴。
涙は、既にほほを伝っていた。振り向きたくても、恥ずかしくて、それに何を言えばいいのか分からない。真琴は混乱した。
だが、それでも、北川の言葉は続く。
「真琴。こっちを向いてくれ」
真摯な声。真琴は、突き動かされるようにゆっくり振り向いた。
北川 潤は、夕日を受けて立っていた。いつもの飄々とした風貌からは考えられない、強い力を宿した瞳で。
真琴は、涙を拭きながら、考える。
ここで、言わなくちゃいけない。アメリカに行っても元気でねと。そう言うべきだ。そも、アメリカに行ったからといって今生の別れになるわけではないのだ。が、
「ま……」
「あの……潤」
北川は、何か言おうとしたようだったが、それよりも先に真琴が口を開いた。
「ア、アメリカにぃ……」
もう既に、声は涙声で酷いものになっていた。北川は、辛そうに真琴の顔をじっと見ている。
「アメリカに……」
アメリカに行っても元気でね、そう言おうとした。心の中では、既にそう言っているつもりだった。
「……いで」
「真琴?」
言葉の大半は、涙でかき消されてしまったのだろうか、よく聞き取れない。
「行かないでよぉ……」
弱々しく悲痛な叫び。決して大きい声な訳ではない。だが、それは恐ろしく強い感情の声であった。
「初めて……まだ、よく、分からないけどぉ……うっ、でも、離れたくない」
声も途切れ途切れで、しかも、聞こえない部分もあるが、北川にはその言葉の意味が分かった。
それは、北川自身もまた、彼女に似た思いを抱いているからなのだろう。
夕日になびく、彼女の髪の金色が眩しい。北川は、ずっと握ったままだった拳を開いた。
(オレ、が決める)
決めた。
「真琴、オレは――」
*
見下ろせばゆったりと流れる川。対岸には色の付いた木々に、ビル郡、赤い太陽。
対岸の木から飛んできた枯葉に、頬をくすぐられながら、真琴は、月日が経つのは早いものだと、感慨深げに(老人くさく)考える。
あの秋から、もう一年も経つ。
祐一、名雪は、予定通りの大学に合格して、今は、少し離れたアパートで暮らしている。おかげで、水瀬家は、やはり、随分寂しくなってしまったが、彼らも結構ちょくちょく顔を出しにくるので賑やかな事には変わりはなかった。
北川は……
そう考えて、真琴は隣をちらりと見た。
そこに、長身の男が立っている。北川だった。去年よりも、背は伸びただろう。真琴は、全然伸びなかったので、そこは不満なのだが。
彼は、結局、アメリカには行かなかった。
日本に残る、と、彼は言った。真琴は、当然聞いた。
「家族のことは?」
北川は、うなずいて必ず話をつけるから、とだけ言った。
その後、彼と彼の家族の間でどのような話が繰り広げられたかは分からない。ただ、
「オレは、随分、いい人達に囲まれていたみたいだな」
そう笑って言っていたのを覚えている。
「真琴。オレは、そろそろ帰りたいのだが。確かに景色は綺麗だけど、さすがに寒くなってきた」
震える声で、北川は訴える。確かに、寒い。
「帰るって、今日は勉強教えてくれるんでしょ?」
「は? 今日は、違うだろう」
「少しくらい、いいじゃない」
真琴の言う勉強とは、来年、受ける高校受験のことであった。本当は、今年受けようとしていたのだが、勉強を始める時間があまりに遅すぎたため、来年にまわしたのだ。
ちなみに北川は、彼女の家庭教師のバイトをしている。秋子さん、直々の頼みであったし、もとより彼女のために日本に残った北川に断る理由はなかった。
「それに、オレだってレポートやらなんやらが溜まっているから余裕って物があまりないんだ」
「ふぅーん、理系って大変なのね。それは、それとして」
真琴は、『置いといて』の仕草をする。
北川は、ジト目で真琴を見る。彼女は、気づかない振りをしながら、続けた。
「だって、あゆのやつが、一年先に高校に入ったからって先輩顔するのよぅ? 全く」
最近など、あゆ先輩とよびなさいとしつこいのだ、実際。
「そのくらい、いいだろう? 実際、先輩なんだし」
そっけない北川の答えに、真琴がうぅ〜と唸った。
「せんせー、教えてよ〜」
「ぶっ!」
吹き出す北川。今のは、北川的にかなりきわどい奇襲であった。
「お、前……止めなさい、そういうのは」
「だって、実際、先生だし」
言われて沈黙する北川。真琴は、何故か勝ち誇った顔をしている。
しばし黙考した後、北川は言う。
「と、ともかく、それは、止めてくれ」
「せんせー、質問で〜す」
北川を無視して、なおも続ける真琴。最近は、北川はこの手の攻撃に弱いことも分かってきたのだ。
「……聞けって……」
狼狽する北川の顔が妙におかしかった。
赤と金色の夕日に反射して、彼の髪が美しく映える。自分と同じ黄金色の髪が。
「先生の好きな人って誰ですか?」
FIN
あとがき:
やっと、終わりました。
しかし、この話、無駄に長いですなあ。最初は、こんなに長くするはずじゃなかったのに。
ともあれ、「黄金」どうでしたでしょうか? 真琴が、真琴っぽくないような気がしますが、それは、彼女の成長の証ということで(ぉ
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