山を抜けると、突き抜けるような青が広がっていた。
 海――青い海が広がっている。そして、透明な空も。何処までも青く、何処までも続き、互いに境界線が無いのではと思う程に透明な海と空。
 辺りからは、ウミネコの声も聞こえてくる。
 やっとのことで抜けた山の先にあった光景は、今までの疲れを一気に拭い去ってくれるかのような、それほどの美しさをもって彼――北川 潤を迎えてくれた。
 降り注ぐ日差しの中、海を下方に望む道路から、北川はついに見えてきたその光景に言葉を奪われながら見入っていた。
 思わず、首に掛かる銀細工のネックレスを掴む。母からもらったものだ。今となっては、彼女と北川を繋ぐ唯一つの接点。
 北川にとっての大切な宝物であるそれを握るのは、彼が感動など、心を揺さぶられるような状態になった時に出る癖だった。
 もっと近くで見てみようか……ふっとそんな思いが湧きあがってくる。
 否定する要素は無かった。
 もとより、何の当てもなく始めた旅なのだ。ならば、こういうことにこそ時間を割くべきなのだろう。
 大それた理由をつけながら、北川は自転車から降りて、海の近くへと降りていった。






         旅日記






 理由は、単純だった。
 旅がしたい――ただ、それだけ。理由と言えるのかどうかも怪しいようなそんな欲求が、北川を今回の一人旅に赴かせたのだった。
 実を言えば、今回のような自転車での一人旅は、初めてのことではなかった。
 そも、北川は”旅”というものが昔から好きだった。
 初めて、旅……少なくとも、旅のようなものをしたのは、小学生低学年の頃だっただろうか。
 あの時は、確か自転車で隣街に行っただけだったが、少なくともそれがきっかけであるのは確かだった。
 それから何度旅をしただろう。夏休みの長い期間を利用してのたった一人での旅……自分の足で、目で、肌で、その土地を感じることは北川にとってこの上ない喜びになっていった。
 大人になったら世界中を旅する旅人になろうかと、そう本気で考えたこともあるほどに、北川は旅が好きになっていたのだ。
 そして、それは、高校3年を迎えたこの夏でも変わらずに。
 小さな荷物を持っての一人旅。今年は南の方へと、それだけを考えてついにここまでやってきた。
 焼けるような太陽の下、汗をかきながら自転車をこぎ、限られた予算で宿を取り、時には野宿もする。そんなこんなを繰り返しながら――
 北川は、そんなことを考えながら、歩くたびに近づく海と、感じるその潮の匂いを心地よく感じていた。
 別に海が初めてなわけではないが、一人旅でやっと辿り着いたと言うスパイスが、よりそれを強く感じさせてくれたに違いない。
 更に、歩を進めるとやがてはっきりと海岸が見えてくる。と、
「ん?」
 思わず声を上げる北川。
 その海岸には、人が立っていた。少女……多少遠いので、はっきりとまでは分からないが、それは少女だった。
 ポニーテイルにした金色の髪を潮風になびかせながら、その少女は、遠く海、或いは、空の果てを見ているようだ。
 一体、何をしているのだろう?
 そう考えてしまった自分を無粋に思いながらも、どうしてか気になってしまう彼女のそんな様子に、北川の好奇心は抑えられるほど大人しいものではなかった。
「や、こんにちは」
 なるべく平常を装って、その少女に話し掛ける。
 少女は、一瞬、びくっと身をすくませると、ゆっくりと北川の方へ振り返った。
 彼女の顔がこちらに向く。
 整った顔立ちをした少女だ。幼さは残るものの美しいと言えるのではないだろうか。
 そして、その瞳――淡い青色の瞳――まるで、空をそのまま映したようなその瞳に、北川はしばし引き込まれるような錯覚を覚えた。
「あ、あの」
 少女は、おずおずとそう言って来た。
 はっとする北川。どうも、呆けていたらしい。改めて、少女の顔を見ようとする。
「ああ――」
「あのっ、いいお天気ですね!」
 北川が、返すよりもその少女は僅かに早くそう言って来た。
「え? ああ、そうだね」
 多少戸惑う北川。
 まさか、このような風に言ってくるとは思わなかった。
 予想していたのは、特に感情のこもらない人付き合い程度の肯定か、やんわりとした遠まわしの拒絶の言葉か、或いは、こちらの素性を疑うような疑問の台詞だったのだ。
 ともあれ、どちらかと言えば、そんな冷ややかな反応を予想していただけあって、彼女のような反応は考えていなかった。
 更に言えば、突拍子もないと言えばいいのだろうか、どうも、的外れな気がしないでもない台詞も原因の一つだろう。
 まあ、突拍子もないと言えば、北川も人のことは言えないのだが。
「君は、一体、何をしてたんだ?」
 北川は、気を取り直して、兼ねてからの疑問を言葉にする。
 唐突、かつ、無粋な質問であるとは思ったが、遠まわしであれば良いというわけでもないので、北川は直接的にそう聞いた。
「空を……見ていたんです」
「空を?」
 そのまんまな答えに、北川は多少、疑問を覚えながらもそれ以上は聞かなかった。
 それは、無粋なことであるし、更に言えば、その理由など北川自身の旅をする理由と同じなのかもしれないからと思ったからだ。
 つまりは、空を見たいから空を見た、と、そういうように。
 それに、理由などは後付できるものだ。その根底を聞こうとしても、きっと自分には分からないだろうし、恐らく、彼女自身にも答えられないだろう。自分が、旅が好きである本当の理由を答えられないのと同じように。
 北川はそう考える。
「そっか。邪魔しちゃったな……」
 そう言って、立ち去ろうとする北川。
 冷たいような気もするが、旅の中で人と出会い、別れるのは当然のことだと北川は思っていた。
 こんな感じに、一言二言しゃべるだけでお別れと言う例だってたくさんある。
 自分と彼女の関係は、つまり、そう言うことなのだろう。
 とは言え、妙に印象に残る少女ではある。後に書く旅日記には、彼女のことが書かれるのだろうか。
「あ、ま、待って」
「……お?」
 後ろから聞こえてくる声に、夢想から解き放たれる北川。
「どうしたんだい?」
「あの……お腹すいてないかなあって……」
「は? ああ、まあ、すいているにはすいているけど」
 やっぱり、どうも妙な調子の少女だと北川は思った。
 どうも、調子が崩されるような気がする。が、何故か悪い気はしない。
 北川が、そう考えているうちに、少女の顔に笑みが浮かぶ。
「じゃあ、わたしの家に来ませんか? お昼、これからだから」
「えっと……それは、ちょっと悪いよ」
 別に、彼女に他意があるとかそう思っているわけではない。彼女の様子を見ていればそれは分かることだ。
 だが、いきなり、初対面の人間から施しを受けるのはやはり抵抗があったのだ。
 そんなこんなで出てきた答えに、彼女は僅かに顔をゆがめる。
「そ、そうですよね。いきなりで……にははっ」
 苦笑いと言うのだろうか。
 少なくとも、笑みではある。彼女のその表情は。
 だが、彼女自身気づいているのか、気づいていないのか……それは、哀しみを帯びた笑みだった。
 そして、何よりも感じるのがその笑みが使い古されたような感じがしたということだろう。
 余りにも自然に出てきたその表情は、彼女が昔から頻繁に使ってきた顔なのであろうと、北川に想像させた。
 そう考えてしまったからだろうか。
「んー、でも、路銀も余り無いしなあ……君が、本当にいいって言うんなら、ちょっとお世話になろうかな?」
 その言葉を契機にぱっと明るくなる少女の顔。
 海と空の青を背景にしながら、その笑みは北川にはとてもさわやかなものに感じた。
「ほ、ほんと?」
「ああ」
「ほんとのほんとに?」
「うん」
 ぱあっと一際明るいものが少女の表情を覆った。
 そう答える北川に、少女は思い出したように言ってくる。
「そう言えば、名前……わたし、神尾 観鈴って言います」
「神尾……観鈴――へえ、何かとても似合っている気がするな」
 北川が、そう言うと観鈴は嬉しそうに笑う。
 つられて、笑顔になる北川。
 とりあえず分かることは、北川と彼女の縁が、気まぐれな旅の神様によって、もう少し長いものになったと言うことだろう。







「へえ、自転車で旅をしてるんですか」
「ああ、でも、夏休み限定の、だけどね」
 観鈴の家に行く道すがら、二人はそんな会話をしながら歩いていた。
 北川は自転車を押しながら歩き、隣を観鈴が歩く。
 このあたりは本当に田舎のようで、人もほとんど見かけず、ただのどかな雰囲気が辺りを包んでいるばかりだった。
 溢れんばかりのセミの声と、時折、鳥の声も聞こえてくる。
 北川は、今、自分の”旅”の話をしているところだった。
 初対面の二人に、共通の話題が分かるわけも無いので、とりあえず、北川は自分の”旅”の話をし始めた訳である。
 彼女は、その内容に興味を持ったようで、懸命にその話を聞いたり聞き返したりしてくる。
「じゃあ、北川さんはまだ、旅続けるんですか? まだ、夏休み入ってからそんなに経ってないし」
「そうだなあ……そうなるのかな」
「そうなるのかなって……」
 彼女の疑問も最もだろう。
 だが、北川は自由奔放な旅を好んだ。
 決まったルートを行くのではなく、ある程度指針を決めたら、後は風のように気の向くままに。
 そう言う旅こそが、北川にとっての”旅”だった。
「ううーん、なんつーか、行き当たりばったりな面があるから……本当は良くないんだろうけどさ。でも、オレはそっちの方が好きだから」
「でも、いいと思いますよ?」
 そう言って、にははと笑う彼女。
 北川の方も、そう言われるとやはり悪い気はしなかった。照れたように、頭を掻く。
「と、そうだ」
「はい?」
「そう、それ、敬語は止めよう。オレばっかり、普通に話してるのも気が悪いし」
 そう言うと、観鈴は不思議そうな、いや、嬉しそうな表情を見せた。
 もしかしたら、彼女の方もそうしたがってたのかもしれないな、そう思うのは北川の傲慢では決して無いだろう。
「うんっ」
 観鈴の笑顔は、その証明になっただろう。
 そのまま、体ごと思い切り力強く頷くように観鈴。
 と、その勢いのせいだろうか、いきなり、ステンとばかりに転んでしまう。
「何やってるんだよ……ほら、手を貸してやるから――」
「う、うん」
 やれやれとばかりに、手を差し出す北川。が、
「わっ」
 その声は、どちらのものだったか。
 手を借りて、身を起こそうとした観鈴ではあったが、再び、何かにつまづき転んでしまう。
 北川もその勢いのまま転ぶ。
「いってて……」
「あの……ごめんなさい」
「いや、別にいいさ。それに、二連続で転ぶなんて珍しいものも見れたしね」
「が、がお……」
 その行為は、北川にとって何故か新鮮な感じを与えるものだった。正確に言えば、彼女の一挙一動が北川にはやたら新鮮に映るのだ。
 それは、思いのほか、自分が彼女のことが気に入っている証拠なのだろうか。
 今度こそちゃんと立ち上がる観鈴を見ながら、まるで、他人事のように自分のことを考えてみる北川。
 しばらく、歩きながら結局その答えは出なかったが……
「あ、見えてきた! あれだよ、わたしの家」
 その考えがまとまらないうちに観鈴が声を上げる。
 彼女の指差す先には、確かに家が一軒。
「へえ」
 北川が、思わずそう漏らしたのは、その家が”家”と感じられる佇まいをしていたからだった。
 木の塀に、木の建物、そして庭……北川の想像する”人が住む家”の体現がそのままそこにあるようで、どうも北川は不思議な感触を感じていた。







「何か雰囲気のいい家だね」
 外から見たときに感じた通り、家の内装も北川の予想を裏切っていなかった。
 古い感じのする内装――無論、いい意味でだ――に、懐かしさを感じる雰囲気。
「そう……かな?」
 そう言いながらも、まんざらでもない表情をする観鈴。
 誉められたことを純粋に喜んでいるらしい。
 北川は、そんな様子をほほえましいような羨ましいような心持ちで受け止めながら、再び、辺りを見回した。
「あ、とりあえず、あがってね」
「お、おう、そうだな。じゃ、改めておじゃまします」
 何となく、ぎこちない雰囲気を感じながらも、玄関で靴を脱ぐ北川。
 その最中、そういえば、と、北川は気づく。
「そういえば、君以外には誰が住んでいるんだ?」
「え? うん、私と……お母さんと」
 お母さんという言葉の前に、僅かな間があったのは北川の気のせいだったのだろうか。
 いや、気のせいではないだろうな。そう、心の中で否定しながら、北川は隣の少女の顔をこっそり覗き見る。
 その表情は少し前までの明るいものではあるが、僅か……僅かに影が射しているのが北川には分かった。
 それが、先程の言葉によって出来てしまったものならば……
「ん? 観鈴、帰っとったんか?」
 ふと、奥から声が聞こえてくる。女性の声だ。
 それとほぼ同時に姿を見せる女性の姿。
「あ……ただいま」
 観鈴の話によると、この家に住んでいるのは、彼女と後1人だと言う。
(そうなると、この人が観鈴ちゃんの母親ってことになるのか、にしても……)
 若い。
 クラスメートの母親にもやたら若い人がいるけれど、それとは違った若さを感じる。
「そこの男は誰や? まさか、観鈴のコレかぁ?」
 にやにやしながら、小指を一本立てる。
 どうやら、軽めの性格のようだ。が、悪い印象は受けない。
 そんなことを考えながら、北川ははっとする。
「あのっ、お母さん、違うの――」
 弁解を始める観鈴に、やはりニヤニヤとしたままの観鈴の母親。
 北川は苦笑いしながら、そんな様子が妙におかしいものに感じていた。







 セミの大合唱と気だるくなるような暑さ、それは、例え家の中に入っても何ら変わることなく北川を包んでいる。
 居間から見える外には、青い空と遠くに広がる入道雲。
 北川は、観鈴が昼食を作っている間、居間で何をすることもなくただ呆けいていた。
 できることと言えば、意識を漂わせるように夢想することだけ。
 空を見上げながら、まるで自分がその中を飛んでいるような錯覚を覚える北川。
 とはいえ、そんなことをしていても、このうだるような暑さから逃れられるはずもなく……
「しかし……暑い」
「何や、若いもんがだらしない」
 北川のだれた声に、奥から声が掛かる。観鈴の母親――晴子であった。
「何せ、冬国で育ったもんで……」
「確かに向こうのもんにはこの暑さはちときついかもしれへんけど……それより、そろそろ飯できるで?」
「ああ、どうもすいません。何か、世話になっちゃって」
「かまへんて。それに、礼いうなら、観鈴に言ったりて」
 手を振りながら、晴子はそう言う。
 それでも、多少の気後れは感じたが、それこそ相手の迷惑になるかもしれないと、北川は表面上は笑顔で返した。
 それに気づいたのか、気づいていないのか、晴子の方もそれ以上は言わなかった。
「ところで、あんさん、何でここに来たんや?」
「あれ? 言いませんでしたっけ……夏休みを利用しての旅だって」
 そう答える北川に対して、晴子は気難しそうな、困ったような表情を見せる。
 ほんの僅かの間、沈黙が流れたかもしれない。北川は、怪訝そうに春この表情を見ていたが、やがて、彼女が口を動かした。
「いや、うちが聞きたいのはそう言うんじゃなくて、観鈴と――」
 刹那、台所のほうから声が聞こえてくる。
「お昼ご飯できたよー」
「……飯、出来たみたいやな」
 その声に中断されてか、晴子はその先は言わなかった。
 或いは、晴子自身も自分で何を言わんとしているのかが、分かっていなかったのだろうか。
 ともあれ、北川にはその先を聞くことは叶わず、ただ、疑問符を頭に浮かべることしか出来なかった。
「そうですね」
 やがて、奥からお盆にどんぶりを乗せて観鈴が姿を現した。
「今日は、ラーメンだよっ」
 テーブルにどんぶりを置きながら、観鈴は何故か嬉しそうに言う。
「ふぅむ、暑い中でラーメンってのもいいかな」
「とりあえず、冷めんうちに食おか」
 ラーメンから漂ってくる香ばしい香りに食指を刺激されながら、北川は、予想以上に腹が減っていることに今更気が付いた。
「ほれ、観鈴はよ食べよ、北っちなんかもう我慢できんって顔してるで?」
「あ、そうだね」
 にははと笑いながら、観鈴は急いで席につく。
 北川としては、頭を掻きながら、照れたような仕草をするほか無かった。
 とはいえ、こののどかな雰囲気は北川としては、気分の悪いものではなかった。
「そや、観鈴」
 ラーメンを食べながら、不意に晴子がそう言った。
「何?」
「この後、しばらくしたら、うち仕事に行くから」
 カタンと、観鈴の手の動きが止まる。
 北川は、不意に感じた違和感に眉をひそめながら、その手を止める。
「え……今日は、いつもと時間が違うよ?」
 が、確実にその言葉がきっかけだろう。
 何か、先程までと違う重苦しい雰囲気が辺りに立ち込めるような気を、北川は今度ははっきりと受けた。
「まあ、そういうこともあるて……いつもみたいに、帰るのは遅くなるから」
「う、うん……がんばってね」
 話はそれで終りのようだった。
 晴子は、何事も無かったようにラーメンを食べ始める。
 北川も気まずい雰囲気のまま、手を動かし始めたが、気になって観鈴の方をちらっと見やった。
 観鈴の方は……箸は動いていたが、しばらくラーメンの量が減ることは無かった。







 日はすっかり沈んで、もう空には星や月がくっきりと見える程になっていた。
 星は、都会のように街の光が星の淡い光を飲み込まないために、その姿ははっきりとしており、さながら星の海のごとく空を埋め尽くしていた。
 涼しげな風が、夏の暑さに火照った体を冷やしていくのが分かる。
 辺りから聞こえてくる虫の音も今日は何故か心地よいもののように感じた。
 外に出て、その風景に心を奪われながら、一方では、今日のことを思い返している自分を北川は感じていた。
 とりあえず、この辺りに宿はないと言う話なので、北川は今日のところはこの家に泊めてもらうことになった。
 さすがに、それはまずいのではないかと思った北川だが、野宿はあまり進んでやりたいものではないし、観鈴が熱心に勧めてきたこともあってそれに甘んじることにしたのだった。
 だが、今、北川が考えていたことは、そんな事ではなかった。
 今日のあの二人の会話……観鈴のこと、それを考えていた。
 どちらにせよ、自分が立ち入れる領域ではないのは分かっていたのだが、生来のお節介癖がそれをそのまま放置しておくことを拒んでいた。
 彼女のことについては色々と予想は出来る、が、あくまで予想だけだ。真実はわからない。
 だが、本人に直接聞くわけにもいかず、北川はこうやって、星を見ながら気を紛らわしていたのだが……
 結局、考えてしまう。煌く星が答えてくれるはずも無いのに。
「あ、北川さん」
 不意に声が掛かる。観鈴の声だ。
「ああ、観鈴ちゃんか」
「あの、何してたの?」
 ふと、北川はデジャビュのようなものを感じた。
 それは、確か、今日彼女に出会ったときに自分も質問したことだ。
 それが、何だかおかしく感じられ、北川は口元に笑みが浮かぶのを抑えられなかった。
「空を見てたんだ」
「わあ、星が……いっぱい」
「この辺は、こんなに星が見えるんだ、すごいね」
 空を見上げたまま、北川はそう言った。
 観鈴もつられるように星空に魅入られている。
「うん。でも、今日はいつもよりずっとずっと多い……」
「そうなんだ」
 しばらく、虫たちの声が辺りを支配した。
 時折感じる風の感触だけが、時の進みを感じさせてくれる、そんな柔らかく静かな雰囲気が辺りを包んでいた。
「なあ」
「え?」
「観鈴ちゃん、君は――」
「?」
 言葉を切る北川。
 一体、何を聞こうとしているのだ。
 自分で聞こうとしておきながら、本当は何を聞こうとしていたのか分からないことに、苛立ちを北川は覚えていた。
 今日の彼女の様子のことか? それとも、観鈴と晴子、二人のことについてか? それとも……
「いや、何でもないよ」
 観鈴は、何やら良く分からないと言う表情だったが、しばらくすると、彼女の方も口を開いた。
「そういえば、北川さん、同じ質問したよね? 今日、初めて会った時にも」
「そだったな」
 やっぱり、彼女も覚えていてくれたようだ。
「わたし、空を見ていたの」
 北川は黙って聞いていた。
 予感と言うのだろうか、それとも、他の何かだろうか?
 それが、これから彼女が話すことはとても大切なことだと、そう告げていた。
「あの空の向こうに、もう1人のわたしがいるような気がして」
 それは、普通に聞いたら冗談のように聞こえるかもしれない。
「空の上でたった独り苦しんでいるもう1人のわたしが――」
 しかし、北川には、その話は冗談には思えなかった。
 それは、彼女の真摯な声故か、その儚げな表情故か……だが、どちらにせよ、北川に答える術は無かった。
 彼女の背負っているもの、それが何かは分からない……分からないが、それは、きっと今の自分が受け止めるにはあまりに重過ぎる……。
 ただ、黙って聞いてやるだけ、それが今の北川の精一杯だった。







 次の日の昼、北川はこの辺りから、また旅を続けることになった。
 一宿一飯の恩義を返せず終いだと言うことは心苦しかったが、神尾家の人間には特に気にするなと言われたし、それ以上に、何かを急がそうとする北川の心が出発を決意させたのだった。
「んじゃあ、気いつけてなー! 観鈴もしっかり見送ってやりぃ」
 晴天猛暑の中、北川は、自転車押すのを止めると、声の聞こえてくる方に向き直った。
 隣を歩いている観鈴も母の声が聞こえてくる方を見やる。
「それじゃあ!」
 一宿一飯の恩義もこめて、大きい声でそう返す北川。
 そんな様子の北川を見ると、晴子は満足したように家の中へと入っていく。
「さて、じゃ、途中まで行こうか」
「うん」
 観鈴は頷くと、再び北川の隣を歩き出した。
 何も無い道路を、特に会話も無く進んでいく。ただ、自転車と足音とセミの声だけが響いていた。
 何を話したらいいのか、北川も観鈴も良く分からないのだ。
 北川は、会話が無くなれば作るタイプではあるのだが、今日に限って何故かそう言う気分にはならなかった。
 夏の暑さによって体を伝う汗が、妙にリアルに感じられる。
 そんな中、先に口を開いたのは観鈴だった。
「北川さん、本当にもう行っちゃうの?」
 その言葉から滲み出る雰囲気に押されながら、北川は隣を歩く観鈴を見た。
 その表情は、昨日見せたような苦しげな、何かに耐えているような顔。北川は、ぎょっとした。
「あ……ああ、いつまでもお世話になっているのも悪いしね」
 とっさにそう答える北川。半分くらいは当たっているのだから、これでも良いはずだと、そう理由付けながら。
「悪いことなんかないよ、もうしばらく居たって……」
 その声も表情も余りに真剣なものだったため、北川にはすぐに答えることが出来なかった。
 まだ、出会ってから間もない人間に何故ここまで入れ込むのだろうと、そう言う疑問もあった。
 ただ、それは一瞬だけ。すぐに別の考えが北川を包んだ。
 それは、昨日の出来事……観鈴とその母親のこと、二人で一緒に星空を眺めたこと、そして、空――
 それらの思いが罪悪感にも似た感情となって北川を包み込んでいたのだった。
 このままでいいのか、と。このまま知らぬ振りしていていいのかと、そう北川の中の何かが訴えかける。
 だが、それがただのお節介であることも北川は理解していた。他人の入ってよい領域の話ではないということも。
「また、来年も来るよ」
 時間をかけながら、北川の出した答えは後者の理由によるものだった。後悔の味が、口の中に広がるような錯覚を北川は覚えていた。
「そっか、そうだよね……にはは」
 またあの笑いだ。苦しさを我慢したような作り笑い。
 いや、観鈴自身が造っていることに気づいているのかも怪しいものだ。
 そう考えて、ちくりと心に痛みを覚える北川。首に掛かっている銀細工の握る。と、
「あれ?」
 握ったつもりだった。
 いつも当然のように、そこにあるネックレス。北川が、まさに肌身はださずに持っている宝物。
 それが、無い。握ろうとしてもそこには無かったのだった。
 がばっと、バックを地面に下ろすと中身を勢いよく探り始める北川。
「どうしたの?」
 隣からは、観鈴が突然の北川の変わりように驚きながらそう言ってくる。
「ない……ない、ない!」
「え? 何が?」
「ネックレスが、無くなったっ!」
「ネックレスって昨日、北川さんが付けていたものだよね?」
「そうっ。あれオレの宝物なんだ」
 その慌てぶりが情けないと感じる余裕すらなく、北川はひたすら焦りまくっていた。
「確か、昨日のお昼にはなくなっていたような気がするけど」
 そんなばかな、そう北川はうめいた。
 本当に肌身は出さず身につけているあのネックレスは、風呂とか寝る前とかぐらいしか外さない。そも、北川には外した記憶などなかった。
 ならば、一体何が……。
 ふと、脳内に閃くものがあった。
 そう感じるや否や、北川は既に走り出していた。







「ない。やっぱり、ない」
 内から湧き上がってくる焦燥感をかきむしるような感覚で、北川は呆然とそう呟いた。
 地面這いつくばりながら、辺りを探し見るも全く目的物は見つからない。
 と、向こうから人が走ってくるのが見えた。
「はあ、はあ、き、北川さん、いきなり走り出して……」
「あ、ごめん」
 足をとめながら、観鈴は呼吸を整えると、辺りを見回した。
「ここは……」
 観鈴が辺りを見回している間にも、北川は這いつくばった状態のままで、必死に辺りを探っている。
 と、観鈴が気づいたように言ってきた。
「が、がお……ここって、二人で転んだ場所? あの、もしかして……」
 観鈴が、恐る恐るといった様に、北川の方を見た。
 北川は、立ち上がってほこりをぱたぱたと払う。
「ああ、とりあえず、昼にはなくなってたなら、考えられるのはここだけだから」
「あっあの、ごめんなさい!」
 北川も驚くような声量で、観鈴はそう言った。
 しばし、驚いたままの北川だったが、やがて、自分の失策に気づいたように困った表情になった。
「あ、いや、別に君が悪いわけじゃないよ。それに、ここだって単なる予想に過ぎないわけだし」
「でも……転んだのわたしの責任」
「そういうなら、それを止められなかったオレの責任でもあるさ、だから……」
 とりあえず、観鈴はそれ以上は何も言ってこなかったが、その顔に苦悩の表情が浮かんでいるのを見つけることは簡単だった。
 彼女の性格を考えれば、こういう風に謝って来ることは、容易に想像できたはずだ。
 たった一日の付き合いだが、それくらいのことは分かる。
 感情に任せてこの場に直行してしまったことを後悔しながら、北川は心の中に苦いものを感じずにはいられなかった。
「しかし、どうするかな……」
 しばらく、そう考えていると、観鈴が自分をじっと見ていることに、北川は気づいた。
「どうしたんだい?」
「北川さんには、迷惑かもしれないけど、しばらくここに留まって、探してみたらどうかな?」
「そうだなあ。やっぱり、そうするしかないか」
「じゃあ、わたしの家に泊まっていくのはどうかなっ?」
 詰め寄るように体を北川に向かせ、覗き込むように北川の表情を見る観鈴。
 期待と不安の入り混じったようなその様子に、北川は笑いを抑えられなかった。
「な、何で笑うのかなぁ?」
「いや、何でもないよ。でも、そうだな、それもいいかな」
「ほ、ほんと?」
「本当」
「ほんとのほんとに?」
「嘘ついてどうするよ?」
 観鈴の表情がぱあっ明るくなる。
「おわっ!」
 そうしたかと思うと、観鈴が感極まったかのように、北川に抱きついてきた。
 困ったような、照れたような表情をする北川。
「にははっ」
 そんな笑い声が聞こえてくる。
「ま、いいか」
 北川は、照れた顔を隠すように空を見上げた。どこまでも続く青い、空。
 どこかに旅の神様がいるのだとしたら、もしかしたら、ここで何かをやらせようとしているのかもしれないなと、半ば運命論じみたことを考えてみる。
 だがどちらにせよ、北川がこの空の美しさと観鈴のことを旅日記に記すのは、まだ先のことになりそうだ。


FIN



あとがき:
結構長くなってしまいました。予定よりも。
本当は、もうちっと簡潔に終わらす予定だったんですけど。
という訳で、続きそうで続かない短編第二弾です(爆)
でも、まあ書きたい事はあらかた書けたのでいいかな、と。
ちなみに、この話で描かれている北川こそが、私の中で最も強く感じている北川像です。
それが、表現できたどうかは分かりませんが。

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