魏の名将
曹操 そうそう
曹操は漢王朝の宦官、曹騰の孫にあたる。
若い頃から正義感に富み、黄巾の乱で名を挙げた。自ら反董卓連合軍を組織したが、その大将には名乗り出ず、名門出身の袁紹にその座を譲った。しかし連合軍内部で仲間割れが起こると彼らを見限り、単独で董卓軍に勝負を挑んだ。しかしこれが裏目に出てしまい、散々に打ち負かされてしまう。辛うじて逃げ延びると、再び力を蓄え始めた。
家臣を能力により正当に評価した曹操の元には多くに人材が集まり、彼らの活躍によってその軍勢は力強さを増してゆく。一度は呂布に本拠地を脅かされたが最後には打ち倒し、強大な力を誇った袁紹をも見事に撃破するなど、その勢力は拡大の一路をたどった。
また、行き場を失った皇帝を自らの手元に迎え入れ、曹操軍は官軍であるという圧倒的に有利な既成事実を作り上げた。
その曹操が挫折を味わうのは、大軍勢を率いて戦いに臨みながらも劉備・孫権の同盟軍に徹底的に打ち破られた時であった。この敗戦の痛手は大きく、しばらくは南の孫権・劉備と事を構えることに躊躇せざるをえなくなった。
最後は人を信じることができなくなり、病気の手術を勧める医者をも殺してしまう。結局はこの病が後を引き、過去に殺した人々の幻覚に悩まされながら衰弱死してしまった。
典韋 てんい
主に曹操の護衛を務め、「悪来」と呼ばれた豪傑である。
曹操が呂布に敗れたとき、逃亡する曹操を逃がすために敵の前に踏み止まった。次々と追っ手を打ち倒すその凄まじい強さに、呂布軍の兵士たちは恐れおののいたという。
その後、曹操が敵のだまし討ちに遭い敗走するという事件がおきた。この時にもやはり、曹操を逃がすために典韋は敵の前に立ちふさがる。しかし敵の罠にはまった彼は武器を奪われ、更に弓矢を大量に浴びせられてしまった。ところがそれでも典韋は倒れない。恐れて敵兵が近寄れずにいる間に、曹操は無事に逃げ延びることができた。
彼は、命を落としながらも仁王立ちで立ち続け、敵の追撃を食い止めたのであった。
夏侯惇 かこうとん
曹操の従兄弟で、曹操が兵を挙げた頃から命を落とすまで、生涯共に戦い抜いた猛将である。そんな彼を曹操は非常に信頼し、その寝室にさえ自由に出入りが許されたという。
彼は戦場で左眼を失っていたが、これは呂布との戦いで負傷したものであった。そのとき突き刺さった弓矢を引き抜くと、なんと目玉ごと引っこ抜けてしまった。ところが彼は「親からもらった体の一部は捨てられない」と、それをその場で食べてしまったという。
その生涯は曹操の死と共に幕を閉じる。曹操の葬儀中に倒れ、そのまま息を引き取ったのであった。