蜀の名将
劉備 りゅうび
劉備は漢王朝の中山靖王、劉勝の末裔を自称している。
だがその幼少は貧困生活を送っており、むしろやぞうり売ることで辛うじて母と共に暮らしていた。だが、十五歳の頃に親戚の援助を受け、学問を学ぶ機会を得る。
若者に人気のあった劉備は、彼らを率いると黄巾討伐で活躍した。しかしその活躍をあまり評価されず、結局は与えられた役職を捨てて放浪の旅に出てしまった。
やがて曹操に攻められていた諸侯の元に援軍に駆けつける。ここでその才能を認められ、太守の地位を譲り受けた。しかし呂布の裏切りに遭いその地位を奪われてしまう。やがて曹操と共に呂布を打ち倒すが、今度はその曹操を暗殺しようとして失敗し、再び放浪する羽目になる。
その後諸侯の間を渡り歩くことになるが、諸葛亮を軍師に迎えるとようやく力をつけ始めるのである
まず孫権と同盟し、南に攻め寄せてきた曹操の大軍勢を見事に撃退した。このとき上手く事を運び、広大な領土を手に入れることができた。その基盤を元に西に勢力を伸ばし、曹操、孫権に次ぐ大勢力を築きあげるのである。
しかし、やがて曹操と孫権が手を結んで攻め寄せてくると、これに抗し切れず東の領土を奪われ、義兄弟の関羽失ってしまう。これに腹を立てた劉備が孫権を攻めるが返り討ちに遭い、その逃亡中に倒れて命を落としてしまうのであった。
諸葛亮 しょかつりょう
蜀の戦略の中心となった人物で、劉備を成功に導いた最大の功労者である。
当初、彼は田舎でひっそりと暮らしていたが、劉備の三度にわたる訪問を受け、ついに世に出て活躍することを決意した。その時劉備は大変喜び、「魚が水を得たようだ」と言葉を漏らしたという。
曹操が孫権の領土に大軍を率いて攻め寄せた時、彼は単身孫権のもとに赴き劉備と同盟させた上で徹底抗戦を主張した。また火計の際、これを成功させるための東南の風を予言し、これにより曹操を打ち破ることができたともいわれる。
劉備の死後はその子を補佐し、蜀の基盤を固めた上で魏に対して幾度か侵攻を繰り返した。しかしこれが成功することは無く、戦場にて病により命を落とした。
関羽 かんう
劉備の義兄弟であり、張飛の兄貴分である。立派な髭を蓄え、とても背が高かったという。生涯を劉備のために戦い、時には劉備を叱咤激励して元気付けた。
劉備軍が曹操に敗れたとき、劉備の夫人を救う為にやむなく曹操の捕虜となった。曹操は彼をとても気に入り、自分の部下にしようとしたが関羽は信念を曲げなかった。やがて戦場にて苦戦する曹操軍を救い、恩義を返すと再び劉備の元に戻った。
彼は配下の兵士をとても気遣い慕われていたが、反面同僚には手厳しく無理難題を押し付けたために最後には裏切られてしまった。
孫権に捕らえられた関羽は最後まで劉備を裏切ることを拒み、その首を斬首されて曹操の元に送られた。
張飛 ちょうひ
劉備の義兄弟であり、弟分である。酒乱で暴れん坊だが、戦場では一人で兵一万にも匹敵する武勇の持ち主だといわれた。
彼の酒乱ぶりは並みのものではなかった。ある時、劉備と関羽が戦場に出ている間、城を守るという大役を引き受けた。しかし酒に酔いつぶれ、油断しきっているところを呂布に襲われ、城に劉備の夫人を残したまま逃亡する羽目になってしまった。
部下の使い方も荒く、よく怒鳴ったり殴りつけたりしていた。そのため最後には部下に裏切られ、殺されてしまう。
だが戦場での彼は、一括するだけで曹操軍を退却させてしまうほどの豪胆な人物であった。