格付け
"The Mexican" * * (ガンドルフィーニにひとつ!)
監督:Gore Verbinski
出演:ブラッド・ピット、ジュリア・ロバーツ、ジェームス・ガンドルフィーニ
あらすじ:ヘマ続きの運び屋ジェリー(ピット)が、これまでのヘマをチャラにして欲しければ最後の仕事としてある銃をメキシコに取りに行くようにとボスから命令される。その銃とは製作者ののろいがかかっていると言われている名作「メキシカン」。運び屋から早く足を洗って欲しい恋人のサマンサはそんなジェリーをなじりながら一人、彼女にとっての希望の地ラスベガスに向かう。そこに現れたのが「メキシカン」の安全な運送のためにサマンサを人質にすべく雇われた殺し屋リロイ…。二人は「メキシカン」ののろいを打ち破ることができるか!
銃の扱いが見事な名優ガンドルフィーニが救い
ブラッド・ピット、ファンのE子さんにせがまれて夜の10時半から見に行きました。E子さんc。
正直言ってブラッド・ピットもジュリア・ロバーツもどうでもいいわたくひにはつらいかな、と思いましたがそれを救ってくれたのが殺し屋を演ずるガンドルフィーニ。アクターズスタジオ仕込み、10年の下積みを経験しているこの性格俳優はここ数年テレビの「ソナチネ」の名演技でひそかな注目を集めています。殺し屋が「プロ」として見事にカリカチュアされた映画としてリュック・ベッソン監督の「リオン」がありましたね。襲われることを恐れて夜もベッドで寝ない、観葉植物だけを友とする寡黙な殺し屋を演じたジャン・レノが良かったです。あと、半死の人間に硫酸を振りまく確か「パルプ・フィクション」でしたっけ?のハービー・カイテルの始末屋もまあ面白いキャラクター殺し屋でした。
ガンドルフィーニの良さは真実味ですね。複雑な心理を持つゲイの殺し屋、疑問をたくさん抱えながらも小さな哲学で落ち着いた殺し屋生活を営む、こういう人って実際にいるんじゃないかと思ってしまったんですが。あと、銃の扱いが見事です。本物の黒人の殺し屋リロイをホテルの部屋で撃った後、カーテンの影から出てきて銃をチャッと上げて弾を補充する。息を呑みました。(このシーンの緊張感は、やっぱVerbinsuki監督はどうかな。スピルバーグとかゼメキスと比べたら悪いですけど。)わたくひは、殺し屋とかFBI捜査官とかを見るたびに、もうちょっと自然に扱っててよねぇ、と思うのですが、ガンドルフィーニは自分の手のように自然。何度も何度も銃を持って練習したのでしょうか。あと、つかのまの恋人を見る目もちょっといやらしくて、ちょっと優しくて…女と男を見るとき(この殺し屋はゲイですから逆なんだけど)の目をこのように使い分けられる俳優はなかなか少ないです。誰かガンドルフィーニを主役として中年大恋愛映画を作ってくれないでしょうか。
かんじんのブラッド・ピットのことは本物ファンのE子さんに聞こう。
まず、ブラッド・ピットとジュリア・ロバーツは合わない、では意見が一致。Thelma and Louiseのジーナ・デイビスの方が合いますよね。ほんとの恋人でしたが。私ブラッド・ピット全然見たことないのかと思ってましたが、River Runs Through It と True Romance を見たことを思い出しました。The Devil's Ownのようなカッコイイ、デビル役より今回の映画のようなダメな役のほうが合っているというE子さんの意見にうなずかれるピットファンも多いと思います。
「菊次郎の夏」 * * *
監督:北野武
主演:北野武、子役は知りません、あと岸本加代子、吉行和子などが有名どころ。
ハリウッドにもばかやろーと言えるたけしの真実
サンフランシスコ近辺には劇場でもビデオ屋でも外国映画が極端に少ない。ハリウッドに地理的に近ければハリウッド映画が大勢を占めるというのは、例えば三重県と奈良県の県境ではヤマギシ牛乳が多い、とかそういうのに似ているのかもしれない。(本当にそうだか知らない)ちなみに以前住んでいたニューヨーク州のアルバニーではハリウッドの脅威は薄かった。
うちの近所の
New Releaseのセクションにあった外国映画はJose Luis CuerdaのButterflyと、このKikujiroのみ。KikujiroはSony Pictureの後押しで英語のオフィシャルサイトあり、シカゴ・トリビューンのお墨付きあり、とかなり有利な宣伝活動がされている。見ながら…う〜ん、これだけあまりプランのなさそうな、予算も低そうな映画を、あれだけ映画監督とし名声を博しながら、堂々とごく自然体で作れてしまう、そこがたけしのすごさのだろう、と思った。岸本加代子も吉行和子も台本渡されたの前日じゃないのぉ?アクターズスタジオなら口角泡を飛ばして言う、役の深まりとか、そんなものは全然感じられません。台本自体あったのでしょうか、と思います。最も大切な感動は、したでしょうか。長い年月の後に窓越しに母親を見つめるたけしはいい顔をしていた、それは思いました。子供の母親が別に世帯を持ったらしい場面を見つめる顔…これも真剣で、たけしは実はこういう人間なんじゃないかな、と思ってしまったのですが。つまり実は非常に真剣な。実は極めて愛情深い…。それゆえに人はばかやろーと言われながらついていくんじゃないでしょうか。そういう人がいるからたけしはこういうのを作れるんではないでしょうか。それだからこのようなピントの合っていないカメラワーク、全く練られていない画面構成、クサイ科白を
1箇所だけにとどめた(天使が困ったら助けてくれる云々)それだけが美点と言える脚本、軍団の子供か?と思われる子役でもハリウッドに食い込めるんじゃないでしょうか。でも…プロットとしては、お祭りのヤクザ、てんぐ、宇宙人(らっきょが良い味出していた、この人も軍団ですか?)、階段から落ちた…などすべてあまりにも月並みで、日本映画界にはなんだよ〜、もっとすごい人がいるじゃないよ〜、と思ったのですが。誰と言われても困るんですが。ウッディ・アレン他を感心させた小津、溝口、黒澤亡き今、誰なんでしょうねぇ。大島渚は何してるんでしょうか。
"The Butterfly" * * * * *
監督:Jose Luis Cuerda アメリカまで来たのはこの映画が初めてだそうです。
主演:Fernando Fernan Gomez (スペインでは有名な俳優、作家、詩人)
子役(名前は後で調べます。Manuel Lozanoというのがそうなのかなぁ。役の上では8歳。もうカワイイ!いやぁ実にカワイイ!これだけアップのパンに耐えられるというのはすごいですよ。お兄さんのサックスの練習を聞いている表情が好きだった。あと、本の挿絵でカワイイと思った少女にそっくりの女の子に、自分のお兄さんが恋をしたとき。「本で見た中国の女の子だ」て目を輝かせる兄に「ほんとだ。そ〜じゃ〜ん!」て、その言い方がうまい。)
プロットとはこういうのを言うんじゃなかろうか、の一品
時は1930年代、場所はスペインのとある村。共和革命成立後、スペイン内乱までの短い6年間の共和政府時代に起こったできごと。恥ずかしがりやで喘息気味の少年モンチョがはじめて小学校に入学。先生役ドン・グレゴリオを演じるのがスペインの大俳優ゴメズであります。感性の豊かなこの少年の世界をグレゴリオ先生が丁寧に丁寧に開いていってあげる。繊細なチョウチョの管が普段は巻かれているけれど、大事なときにはちゃんと伸ばされて花の蜜を吸うという説明のあたり、穏やかで普段は隠れているけれども政情に負けない自由に対する強い信念を持つこの先生自身を象徴しているようであります。この少年と先生とのやりとりの他に、先生に無理やりトリを押し付けようとする右翼の地主、先生の無宗教をそれとなくなじるカトリック神父(これらが後の反共和、スペイン内乱勢力となります)、共和党のポスターを仕事場に貼っている、仕立て屋を生業とするモンチョ少年の父親など、政治情勢がちらりちらりと説明されています。年寄りの「妻」である中国の少女とお兄さんのあまりにもはかない恋、結婚前のあやまちによる父親の私生児の出現、モンチョ少年の子供らしいキスなどどのエピソードも美しく自然に仕上がっています。圧巻は反乱軍に「アカ」の汚名を着せられて連行される共和支援者に先生も混じっていたという最後。夫が逮捕されたくないばかりにモンチョの母親は「先生に石を投げて!」と少年の耳元でささやきます。少年はあんなに大好きだった先生に「アカ!人殺し!」と叫んで石を投げつけるのです。
子供が政治の犠牲になる様を描いた映画としてもうひとつ好きなのが、ニキータ・ミハルコフの「太陽にやかれて」です。ミハルコフの実の娘の可愛さと政治のむごさがやはり強い対比で涙をさそわれました。このように劇的な政治の変化というのを日本もアメリカも戦後経験してはいませんが、政治家の嘘さ加減とバカさ加減の犠牲に子供もなっているという意味では究極のところ、同じかもしれませんね。
この映画を見てまた勝利と敗北ということを考えた。みんな大抵自分を敗北者のように思って生きている。平和な時にあっても戦いの時にあっても、我々は敗北者にならないと生きていけないところがあるだろう。この映画では主人公の少年の父親である仕立屋は、妻の強さに押される形で敗北者、裏切者となった。妻の方は自分を敗北者とも思っていないに違いない。自分の息子の命さえ救ってくれた恩人である先生に罵声を浴びせるという裏切りを、無神論者であるから当然の結果になったのだと考えることで正当化している。ここで敗北者でも勝利者でもないのは唯一子供だけだ。それとも子供はあるいは勝利者なのだろうか、ただ在るというだけで。その在りようを無垢な敗北だったと考えるとき、少年は大人になるのだろうか。
"Randez-Vous" * * * *
監督:Andre Techine
出演:ジュリエット・ビノシュ、ジャン・ルイ・トリンティアニ、Lambart Wilson
音楽:Phillipe Sarde
若いうちよ、の真実の愛
ジュリエット・ビノシュは「ボーイ・ミーツ・ガール」以後、大好きな女優。「イングリッシュ・ペイシェント」でのひたむきな看護婦役でアメリカでもメジャーになりました。
ニナ(ビノシュ)は、フランスの田舎からパリに数ヶ月前にやってきて舞台で演じる大根女優。男友達に体を与えて渡り歩く生活に嫌気が差してアパートを探している。その不動産屋に勤めるポールは一目で恋に落ち、その日たまたま男友達から追い出されたニナに自分の部屋を提供しようとする。しかしルームメートの破滅志向のクエンティンが反対。その夜ホテルに泊まるニナを襲って無理やりにキスをするのは、ところがこのクエンティンなのである。ニナは真面目なポールの愛よりも、深く心を病んでいるクエンティンにひかれ彼と関係を持つ。それをなじるポール。冷たい笑いを浮かべてニナのアパートを去るクエンティンは明かに自殺と思われるやり方で車に轢かれる。クエンティンの死の後で現れる、なぞの男。それはクエンティンがロンドンで若き俳優として成功し、本当の恋人とロミオとジュリエットを演じていたときその演出をした舞台監督だった。クエンティンは四年前、愛も成功も頂点に達したと悟ったとき自殺を企て恋人だけを失ったのだった。ニナはその舞台監督が演出する舞台のジュリエット役を得る。開幕の日が来た。クエンティンの幻に悩まされるニナはジュリエットを演じきることができるだろうか。「前衛ロミオとジュリエット」と評されるアンドレ・テキネ監督の作品。
自殺により完成する愛
本当の愛と自殺とはどこか似たところがある。いずれも終わらせなくてはならない運命を抱いているという意味で二者は共通している。結婚という打算でも、宇宙の深さに追われて、という必要性に迫られた恋でもない本当の愛というのは、十四歳という若さのうちしかできないものかもしれない。その若さで本当の愛を得、それを四年間のへだたりはあっても心中という形で完成させたクエンティンはあるいは真に生を生きた人間ではないだろうか。彼はまた仕事の上でもそれを完成させた人間だ。「愛したことのない君なぞにジュリエットが演じられるわけはない」というニナへの幽霊の言葉は実に本当なのである。クエンティンこそが本当の愛と本当の仕事をし、それを自殺で完成させることのできた数少ない人間なのだ。後に残るのは、結局定まりのない関係と仕事へのモチベーションを抱きつづけるであろうニナと、つまらない欲情と嫉妬にしか愛の形を見出せなかった平凡なポール、そして亡くなった娘への哀惜を抱きながら契約上の仕事をする苦悩の舞台監督家だけだ。
ところで、自分の肉体の美しさを頼りに渡り歩くことで宿を得る若いニナに、そういう生活にいつもあこがれていた若い頃の自分を思い出しました。もうしたくてもできないトシになった、それは悲しくはないけどあまりロマンのない認識であります。
301/302(1996年韓国) * * * *
監督:Chul-Soo Park
主演:Sin-Hye Hwang, Chu-Ryun Kim
近代的なソウルのマンションに住む二十代の女性二人をめぐるお料理ふんだんの映画。301号室には全情熱を料理に注ぐ離婚した女が、302号室には食べること、セックス、生に関わるすべてを受け入れられずにやせほそるフリーライターの女が住む。301号室は料理の腕を振るう相手がいない寂しさから凝った料理を302号室に運ぶ。それが全く食べてはもらえなかったことを知り、301号室が激怒するあたりから二人の本当の友情が始まる。302号室は、義父から受けた肉体的虐待、お金だけがすべての母親、可愛がっていた近所の女の子が肉屋を営む自宅の冷蔵庫で凍死する過去から立ち直れずにいることを告白。301号室は料理にだけ凝る愛や会話のない自分の結婚生活や前夫の浮気を知って夫の愛犬を料理した過去などを話す。「何でチョンチョン(愛犬)を料理したの?」と聞かれ、「だってそのレシピにぴったりの肉をいつも探していたんだもの」と無邪気に答える301号室。「じゃあ、あたしもチョンチョンみたいにおいしいかしら…」と服を脱ぎ始める302号室…。
監督のChul-Soo Park は、1948年生まれの韓国インディーズの大御所。この映画はサンダンス映画祭、ベルリン映画祭で上映されている。日本では福岡映画祭やケーブルTVで放映された様子。
料理をめぐる女同士の友情
はっきり申し上げて、好きです、こういうの。面白かった。耐えがたい存在の軽さという現実に料理にobsessすることでしか対処できない301号室が、結局最後までそのobsessionを解決できない、その発展性のなさが新鮮ですね。女が女に料理を運び続ける…これは吉本ばななの「キッチン」でも確かにありましたけど、これも新らしい。301号室は女同士の友情にも料理を通してでしか対応できないのです。初めて友情を抱いた302号室はしかし、なにひとつ食べられない。また自分の存在意義を否定された絶望…。しかし302号室は「私を料理して」と提案することで、友情と自殺の一石二鳥を選んだのです。女が他の女を料理することで完成する自殺と友情−これは全く新しいモチーフでしょう。
301号室を演じた女性は途中ものっすごい太りますけど、本当に太ったんでしょうか。1996年代の韓国インディーズが最新特撮技術を駆使したとも思えないのですが。もし本当に太ったんだとしたら、そのプロ根性に拍手を送りたいです。
*一番おいしそうだったのはイカの詰めもの。夫に丸無視されて一人空しく食べる手製の麺もおいしそうでした。