一人の人間が生まれてから、この世界に触れ、やがて少しずつ世界を知り、成長していく中で、
どうしても目を背けたくなるものがある。
それはほとんどの人が、恐らくその人の歴史のある地点と共に置き去りにし、
二度と見ることもないまま時に埋もれていずれ本当に忘れ去ってしまうものだ。
だがもしそれが、ある日突然圧倒的な「宇宙」となって成す術もなく自分を包み込んでいるのに気付いたとき、
果たして人は立っていることができるだろうか。
そんな強い意志を、人が持つことができたなら……
無限の宇宙の重みの中で、もし「目覚める」ことができたとしたら……。
いのち、聞こえる
杉の木に覆われた、とある細い山路。どしゃ降りの雨の中を、一台の軽乗用車が駆け上っていく。
三月上旬のまだ肌寒さが残る空気に、車の後部から立ち上る白い煙が尾を引いている。
ワイパーが休むことなく動き続けるフロントガラスの向こうに、二人の男の姿があった。
運転席に座っているのは、色黒で短髪の中年男。目尻のしわが気さくそうな印象を与え、
ピンク色のワイシャツが妙に似合っている。
その隣には、パーカーを着た細身で長身の青年。寝不足なのか目元に隈が見て取れ、シートにぐったりともたれ掛かり、
ときおり大きな欠伸をしては目をしばたいている。
「……北島さん」
その青年が消え入るような声で言う。が、もう一人の男はどうやら聞いていない。
「……北島さーん」
「ん? どうした?」
運転席の男がようやく反応した。からりとした応答のし方をするその男に対し、
青年の方は呻くような声で不満を訴える。
「どうしたじゃないでしょ。一体どこまで行くんです? そんなに高く上る必要あるんですか?」
彼の名前は中井隆幸。K大学の法学部二年生である。朝の五時に突然かかってきた電話で叩き起こされ、
一日の休みが一瞬にしてふいになった彼は機嫌を損ねているらしい。
「ははは、まあそう腐らないでさ。実験そのものは何処でだって出来るんだけどね。
やっぱり来た以上、少しは楽しみたいじゃないか? 大丈夫、もう少しで見晴らしのいい所に出るはずだから」
答えたのは同じくK大学医学部教授の北島俊一郎。今日び珍しくなったアマチュア無線部の顧問をしており、
中井はその数少ない部員の一人という関係である。本人の人柄故か他の学生たちともすこぶる親密で、
よく部員のレポートを手伝っている光景が見られたりする。従って入部したての初々しい一年生たちも、
少し経てば「北島さん」と気軽に彼に声をかけるようになるのである。
「へえ、楽しみねえ。こんなことなら断っとけば良かった」
「何か言った?」
「あ、いえ……。でも北島さん、本当にこんな小さいラットに埋め込めるんすか? その……例の機械を」
後部座席に置いてある狭そうなケージを訝しげに見やりながら、中井が言った。
そのラットの方も、先程からまるで自分の運命を察しているかのように忙しなく動き回り、
何かに怯えているようにすら見える。
北島はラジオから流れる天気予報の音量を下げながら僅かに顔をしかめ、
「心外だなぁ。僕はこれでも医学部教授だよ。医師免許だってちゃんと持ってる。
それに、機械ったってせいぜい二センチくらいのかわいいもんさ。見るかい?」
そう言って上着のポケットから小さなフィルムケースを取り出した。中井はそれを受け取ると、
慎重に蓋を開けて中を覗き込む。
見掛けは補聴器そっくりに作ってある。北島の言ったとおり確かに直径二センチ強ぐらいのサイズに収まっており、
マイクみたく表面のケースに細かい穴が沢山開いている。そして何故かその中央には若干大きめの穴があり、
あとは細いコードが数本出ているばかりで、他には何もない。本当にこれだけで動くのかと少し不安になる。
「へぇ……こいつをネズミの耳にねぇ」
「そう。人の気配とか、視線を感じるのを補助する機械だっていうのは、前にも言ったよね。
所謂、第六感ってやつ。今まで学者の間では、やれ脳波がどうとか、量子論がどうとか散々議論されてきたけど、
どの説明も釈然としないものばかりだった。だから、僕はもう少し違うところに目をつけてみたのさ。
”ねんきん”って知ってる? 粘る菌と書いて”粘菌”。変形菌とも言ってね、
割とその辺によく居るんだけど、観察してみると不思議な生き物なんだよ。
普段は黄色いアメーバみたいな格好で移動してるんだけど、餌が無くなってくると周りの仲間と合体して、
そこから芽を伸ばして「子実体」っていうのになる。それが飛ばす胞子からまた新たにアメーバが生まれてくるんだけど、
まあそれは置いといて、その前の仲間同士で集合するところが不思議なんだ。
何しろ、離れた所にいる全く別の個体と意思の疎通をする。しかもそれだけじゃない、
何匹かの仲間が散らばってそこにいるとしたら、そいつらは最も短時間で集合できるある一点を目指して集まってくるんだ。
脳も神経も持たないただの単細胞生物に、かなり高度な計算をする能力が備わっていることになる。
でもって、この粘菌が他の仲間とどうやって交信をするのかというと、cAMPっていう物質を互いに分泌し合って
それを手掛かりにするんだ。ところが実は、このcAMPっていうのは動物の脳神経が情報伝達に使う物質でもある。
どうだい、何か感じないか? 元々粘菌同士が互いの存在を認知するために使うような代物なんだ、
ひょっとしたら、人が思考をする際ごく微量のcAMPが脳の外に漏れ出して、
それをたまたま他の人間がキャッチしてしまうってこともないとは言えない。
それが人の気配なんかとして認識されるんじゃないかって、僕は考えた。
そこでその物質を直接やりとりできる粘菌をセンサ素子として組み込んでやれば、
人の気配を検出できるバイオセンサーが出来るかもしれないってわけさ」
「じゃあ、この中にその粘菌が詰まってるわけですか?」
中井はしげしげとそれを眺めながら言う。
「なんか気持ち悪いなあ」
「まあ、この中からは出てこないから安心していいよ。
それで、こいつは人口内耳の要領で使用者の聴神経に直結されるから、当然一つの音として気配は認識されることになる。
ちゃんとその方向も分かるように作ってあるんだよ――ただしどんな音かは聴いた当人にしか分からないけどね。
まあ、音としては大分小さく聞こえるように設定してあるんだけど、それだけに僕の研究室じゃ騒音が多すぎてね。
近くに私鉄の線路まであるからうるさくて実験にならない。
そのためにこんな山奥まで来たんだけど……雷が鳴っている内はどうしようもないか」
そう言って北島はため息を吐いた。
一ヶ月ほど前、中井が最初に北島からその小さな機械の話を聞かされたとき、彼はそれの名前を口にした。
『UNIVERSE』――そう、北島はそれに「宇宙」と名付けていた。
また大げさな名前を付けたものだ、と中井は思う。
しかし彼はまだ――無論北島もだが――その機械の持つもう一つの「機能」を知らない。
中井はしばらくの間フィルムケースの中身に見入っていたが、やがて飽きたのか蓋を閉めて北島の許へそれを返した。
「これ、本当に北島さんが一人で?」
「ああ、ちょっとした趣味でね」
中井は感嘆というよりむしろ呆れかえった様子で頭を振り、助手席のシートを後ろに倒した。
*
彼が背もたれに体を預けて眠りについてから、十分ほど経った時だったろうか。
突然、中井は凄まじい轟音に叩き起こされた。
「な、何だ!?」
ラジオのボリュームを上げていくように段々と大きくなっていくその地響きには、
よく聴くと車のボディに小石か何かがぶつかるような音が混じっている。
「土砂崩れだっ!」
北島の叫び声と重なるように、裸の山肌から大量の土砂やら丸太やらが凄まじい勢いで滑り落ちてくる。
一瞬にして視界は全て土の色と化し、自分が今どこにいるのかすら分からない状況になった。
パニックになった北島のハンドル操作は乱れ、車体は狂ったように右へ左へと揺れ動く。
そして急カーブに差し掛かったところでついに道を大きく逸れ、勢い余ってガードレールを乗り越え向こう側に飛び出した。
「うわわわわわ!!」
二人を乗せた車は急な斜面――というより崖に近い――を猛スピードで斜めに滑り落ちる。
そのまま藪の中に突っ込み、傾斜が幾らかなだらかになってもまだその勢いは緩まず、
いたる所を杉の木にぶつけながら成す術も無く斜面を流されていく様はまるでパチンコの玉のようだ。
やがて大きな岩の出ている所に派手に片輪を乗り上げ、その勢いで横倒しになってようやく車は止まった。
「中井君、大丈夫か!?」
すぐに北島が下に向かって声を張り上げた。
「こっちは大丈夫。おかげでバッチリ目が覚めましたよ。そっち、出られます?」
「ああ、なんとかいけそうだ。それっ!」
シートベルトを外した北島は、頭上のドアを開けて外に這い出した。
車体がぐらついたことで一瞬身を竦めたが、すぐに身軽な動作で地面に飛び降りる。
続いて中井が自分のナップサックを持って脱出した時には、既に北島は車のトランクを空けて中の荷物を漁っていた。
彼は時たまこういった、その場の緊迫感を無視したマイペースな行動をとるので有名だった。
こんな時にもう……と心底呆れた中井だったが、雨音に混じって微かに聞こえてくる妙な音に気付いたとたん背筋が凍った。
慌てて車の底の方へ廻った彼は、自分の悪い予感が的中していた事を知った。
未だにつけっ放しのエンジンからは、ぽたぽたと黒い液体が滴り落ちていたのである。
「大変だ、オイルが漏れてる! はやく逃げて、北島さん!」
うろたえながら叫ぶ中井の大声が届いているにも関わらず、北島はその場を離れようとしない。
片手で相当な量の荷物を抱え込み、さらにもう片方の手をトランクの奥に突っ込みながら、
「くそっ、救急セットが……中井君、悪いが先に行っててくれ」
と他人が聞いたらひっくり返るような台詞を平然と口にしている。
流石の中井もこのときばかりは口がぽっかりと開いたまま暫くその場に固まっていたが、
やがてその痩せた体をわなわなと震わせ始めた。
「北島さん、いい加減にしてくださいっ! 早く逃げるんです!」
そう怒鳴ると、掴みかからんばかりの勢いで北島に歩み寄り、無理やり車から引き剥がそうとする。
それでも北島は動かない。一つでも多くの物を持ち出そうと、必死で荷物にしがみ付く。
そうしてもみ合っているうちに、北島が唐突にバランスを崩した。
慌てふためく中井。しかしこれだけ多くの重量物を背負っている北島を中井一人で支えきれるはずもなく、
果たして二人の男と諸々の荷物は仲良く斜面を二メートルほど下まで転げ落ちた。そしてその直後――。
ボウッという音とともに、車体が勢いよく燃え上がった。
その怪物が踊っているようにも見える激しい炎からは黒煙がもくもくと立ち上り、物言わぬ杉の木々と高さを競い始める。
中井たちの表情に見る見る恐怖の色が浮かんでくる。
「うっ……うわあ!!」
悲鳴をあげて一目散に走り出す二人。だが勿論北島が、地面に投げ出された荷物を忘れていくことはなかった。
*
「ふぅ、やっと終わった。これでとりあえず雨は十分に凌げるし、中の方が少しは暖かいだろう。
こいつを見捨てなくて正解だったね」
今しがた張り終えたテントの前で、ワイシャツに付いた泥を払いながら北島が言った。
中井も今度ばかりは、北島が無類のアウトドア好きであることを神に感謝したい気分だった。
二十分近くも雨風の下に晒され、体が完全に冷え切ってしまった彼らはいそいそとテントの中に潜り込む。
ビニールの地面に腰を落ち着け、いくらか体温が戻ってきた中井は深くため息を吐いた。
「しかし参ったなあ……あの崖みたいなところは登れそうにもないし、おまけに霧が濃くて方角もよく分からない。
携帯も圏外だし……そうだ、北島さん無線機持ってきてないですか?」
とりあえずその場で思いついたことを口に出してみたが、
「おいおい、そりゃないぜ。いくら僕とて二十万も出して買った無線機をこんな所にまで持ってきやしないよ」
と一蹴されてしまった。
再びため息。そしてふと思い出したように、
「そうだ、あの車! あの煙に誰かが気づいてくれれば……」
しかし北島は残念そうに首を横に振った。
「駄目だ。上空からヘリで見でもしなけりゃ、ただの山火事にしか見えない。
でもこんな天気じゃそんなに火は広がらないし、消防も動かないだろう。
それに家族には……というより誰にも、山に行くなんて言ってないんだ。
友達と釣りに行くって言ってある。君にしたって、誰も君の行き先を知っている人なんていないんだろう?」
「ええ、連絡している暇なんてなかったですよ」
沈黙が訪れた。二人はしばらくの間、無言のままじっと自分の足元を見つめていた。
中井の持ち物といえば、アパートから持ってきた小さなナップサックのみ――中身は酔い止め薬に文庫本、
それに麦茶のペットボトル一本。北島が持ち出した荷物も、ラットの実験に使う予定だった医療器具類ばかりで
食糧らしきものはほとんど見当たらない。
何日もテントの中で持ちこたえるのは絶望的と言えた。
この重苦しい空気を読み取ってか、先ほどこれも北島に救助されていたラットがケージの中を忙しなく動き回る。
北島は唐突に顔を上げると、傍らの水筒に手を伸ばした。
「味噌汁、飲むかい?」
中井の返事を待たずに中身を注いだ北島は、湯気の立つカップをそっと彼の前に差し出した。
「温まるよ」
「どうも……」
遠慮がちにカップを受け取った中井は、息で冷ましながらゆっくりとそれを一口啜った。
思えば一人暮らしをしている彼が、味噌汁を口にするのは存外久しぶりのことだった。
あまり飲んだことのない味だったが、何故かそれは中井に懐かしい気持ちを思い起こさせた。
「……これは、ご自分で?」
中身を飲み干し、カップを返し際に中井が尋ねた。北島は、微笑とも苦笑ともつかない微妙な表情を浮かべた。
「いや、……カミさんがね」
二人は再び黙り込んだ。気がつけば、雨の音はもうしない。雷鳴も聞こえなくなり、
どうやら完全に過ぎ去ったらしい。
「こうなったら、方法はひとつしかない」
北島が再度口を開いた。
「さっき車で移動していたとき、大きな工事現場を通りかかったよね。覚えてる?」
「ええと……はい」
中井は記憶をたぐりつつ答える。確かそのとき、何の工事かと訊いてあれは旅館か何かを建設しているのだと
北島に説明されたのだ。雨のせいで作業員の姿は見当たらなかった。
「ここからそう離れてもいないはず……直線距離で五百メートルあるかどうかだろう。
それに多分あそこはここと地続きだ。さっき通ったとき、横に見えてた地面がだんだんと下がっていく感じになってたからね。
崖沿いに進んでいけばその内たどり着くんじゃないかな。少なくともあんな崖をよじ登るようなことはしなくて済むと思う」
中井はぱんと一つ手を打ち、顔を輝かせた。
「おお、なるほど! なら早速行きましょうよ、雨も上がったことだし。
こんなところに居ても無駄に腹が減るだけじゃないですか」
「いや、それがなあ……」
北島は気が進まなそうに言葉を濁した。
「言ってなかったかな? 実はこの辺、熊の多発地帯なんだ。それもこんな林の中を五百メートルも歩くとなると、
かなりの危険が伴うことになる。それでも行くべきか、それともここに留まって様子を見るべきか……君はどう思う」
その瞬間、中井の表情から笑いが消し飛んだようだった。額に手を当て、うな垂れたまま一言も喋らない。
まあ仕方がないかと、内心北島は思った。今はしばらく休んで、それからもう一度考えよう――そう言おうと
口を開きかけたとき、
「じゃあ――」
中井の言葉がそれを遮った。
「じゃあ、その危険が予め分かればいいんですよね?」
「どういうことだい」
「熊が近づいてきたのを察知できれば少しは安全でしょう? あるじゃないですか、便利なものが――」
そのとき、北島は中井の言わんとしていることを理解した。そして信じられないという目で中井を見た。
だが彼の目が思った以上に真剣なのを見て、悩んだ挙句北島も心を決めた。彼はまるで拳銃でも取り出すがごとくおもむろに、
ポケットから先ほどのフィルムケースを覗かせた。
*
「中井君、おはよう。気分は?」
北島に軽く頬を叩かれた中井は、ゆっくりと目を開けた。
「いやぁ……少し頭がクラクラします。手術なんて受けたことがなくて……」
「まだ休んでいればいいよ。体と心の準備が充分にできてないと、ただでさえ危険なのだから」
「ありがとう……」
一度は再び眠りに就こうとした中井だったが、気が変わったのかおもむろに上体を起こした。
「外の空気、吸ってきてもいいですか?」
テントの外に出た彼は、大きく、ゆっくりと深呼吸をした。
雨に洗われた冷たい空気が肺を満たし、急速に意識がはっきりしてくる。
雨はすでに上がっていた。見上げる杉の葉の間からは日光が差し込み、
雑草や羊歯類に覆われた地面に美しい明と暗の対比を作り上げる。
時間はとっくに正午を過ぎていた。先ほどの味噌汁以外朝から何も食べていない彼の腹が、小さくぐぅと鳴った。
ふと気になって、右耳にそっと手をやる。確かに先程見た機械と、それを固定するテープの感触があった。
普通に着けている分には、ほとんど違和感はない。片耳だけイヤホンをしているのと同じような感覚である。
後ろでごそごそ音が聞こえたかと思うと、テントから北島が這い出してきた。
「やぁ」
「ああ、北島さん。もういいですよ、始めて」
背後の北島に向かって、中井はあっさりと言った。
「おいおい、ずいぶん唐突だなあ」
と北島は笑ったが、中井の表情は真顔のままだ。
「俺だって早く帰りたいんすよ。こんなところでロビンソン・クルーソーごっこは御免だ」
「……そうか」
自然と北島の表情も引き締まる。そしてポケットから一本の注射針を取り出した。
「今からこいつを『UNIVERSE』のスイッチ部に突っ込む。カチッという音がしたら、電源が入った合図だ。いいね?」
無言で頷く中井。その横に廻った北島はゆっくりと、そして慎重に、丸いプラスチック・ケースの中央に開いた穴に
針を差し込んだ。
しんと、感覚が研ぎ澄まされるような静けさが流れた。しばらくの間、中井は感心したように周りを
キョロキョロと見回していた。
どうだい、異常はないか――北島が小声で訊ねかけたそのときだった。突然中井の目は、何か恐ろしいものでも
見たように大きく見開かれた。
「ぎゃあーっ!!」
絶叫。そして今度は頭を抱え込むように耳を押さえ、地面にうずくまってしまった。
北島はうろたえた。何が起こっているのか分からず、しばらくはただ地面に突っ伏して震えている中井を
棒のように突っ立ったまま見下ろしていた。
「……中井君っ!」
我に返った北島は慌てて中井の側へと駆け寄り、
「大丈夫か中井君。今スイッチを切るからね」
と、手にしていた注射針を再び中井の耳元に近付けた。
が、すんでのところでそれを差し込むことはできなかった。その前に中井は奇妙な叫び声を上げて、
飛び退くように北島から離れてしまったのだ。
北島には最早訳が分からなかった。やめろだとか、助けてくれだとかいった言葉をしきりに叫びながら、
中井はまるで何かから逃げるように走り回った。そして急に立ち止まったかと思うと、
今度は自分の頭や拳を激しく木の幹に打ち付け始める。その様子はあたかも妖怪か何かに取り憑かれたかのように
北島には見えた。
明らかに、中井は中井にしか聞こえない何かを聞いていた。北島によって造り出されたちっぽけな機械が、
中井だけにもたらした悪魔の歌声によって彼は苦悶していたのだ。
やがて声が枯れ、息も絶え絶えになってまともに歩けなくなると、中井は再び地面にうずくまってしまった。
だがその機に北島は素早く彼の側まで歩み寄り、今度は確実にその右耳の硬いスイッチ部に針を差し込んだ。
血の気が失せた彼の顔面には、脂汗が噴き出していた。
「落ち着くんだ、もう大丈夫だから。一体どうしたっていうんだ」
すると中井は震えながら、
「あ、あっち……あっちの方、今……」
とある方角を指で示した。北島もその方向に目を向けてみたが、そこにはただ高く生い茂った雑草が風にそよいでいる
だけだった。
「大丈夫さ、何もないよ」
「すぐそこなんです――あそこの、あの陰で――あ、ああっ!」
北島は訝りつつも、何となく気になって中井の指差す方へと歩を進めた。胸の辺りまで伸びた草を掻き分け
向こうを覗いた瞬間、思わず声を上げそうになった。胸が悪くなるような光景が目に飛び込んできた。
猪の子供――生まれて二ヶ月くらいだろうか。中型犬程度の大きさだった――が地面に横たわっているのを、
数匹のカラスが囲んで、啄ばんでいる。まだ微かに息があり、激しい呼吸に波打つ身体を時々びくっと痙攣させる獲物の、
あるものは脇腹を、あるものは頬の肉を嘴でえぐって引き裂いては、忙しそうに喉の奥へと送り込んでいた。
「どういうことなんだ、これは……」
北島は独りごちた。気が付くと、中井が縋るような目でこちらを見ていた。
*
テントに戻った後も、中井の表情は恐怖で引き攣っていた。北島は、再度手渡された味噌汁のカップを持つ中井の手が
小刻みに震えているのを眺めながら、彼が落ち着きを取り戻すのを静かに待っていた。
「『声』が――」
北島は即座に反応した。中井が口を切ったのだ。
「『声』が、聞こえたんです」
中井は一気にカップの中身を空けると、長く尾を引く息を吐いた。そして北島の戸惑いの仕草も視野に入れないまま、
しばらくして再び自分から口を開いた。
「誰の声かなんて分からなかったし、そもそも言葉じゃなかった。ただ、何かを強く訴えかけていたのは確かです。
何かが、こう、激しく心に迫ってきて――それが、ずっと続いていました」
「もう少し具体的にならないかな? 変な表現だが、そう、例えば……幽霊みたいだった、とか?」
言ってしまってから、自分でも何て間抜けなことを訊いたものだろうと北島は後悔した。
だが中井は意に介す様子もなく、少し考えてから、
「さあ、そこまではどうも……。でも、『UNIVERSE』だってただの機械でしょう。
ただ中に粘菌が入ってるってだけで、そういうのとは……」
「そうだな、関係があるとは思えない。つまらないことを聞いて悪かった」
「いえ、いいんです。具体的に言うと、そうですね……恐いとか、痛いとかの感情が、
訳もなく突然沸いてくるんです。その声のようなものを聞いた瞬間……まるで、
他の誰かが感じたことがそのまま自分の中に飛び込んでくるみたいに」
それを聞いた瞬間に北島は、あの猪の子供のことを思い出していた。まだ中井には伝えていない。
今言おうかと少し迷ったが、これ以上語り合っても無意味なように思えた。ひとつため息を吐いてみせると、
「まあとにかく、その『声』のことを抜きにしても、そもそもこんなものを
人間の耳と繋げようなんて考えたのが間違いだったんだ。僕のミスだ、本当にすまなかった……」
その間中井はずっと黙って地面を見つめていた。しかしやがて決心したように顔を上げると、
それまでよりはっきりした声で言った。
「俺、もう一度やってみます……さっきのは単に何かのトラブルかもしれないし。このまま帰れないよりは……」
瞬間、できる限り明るい表情を繕っていた北島の顔から血の気が引いた。
とても信じられないという顔で、急き込んで怒鳴った。
「冗談じゃない! 何を言い出すんだ。さっきので分かったはずだ、あれは危険なんだ。
次こそは、本当に頭が変になったっておかしくないんだぞ」
「そうですね。でも、頭が変になるぐらいで済むならいいじゃないですか。熊に殺されるよりずっとましだ。
それにさっきは何の準備もなかったけれど、今度は違う。最初から覚悟してかかれば、案外耐えられるかもしれないでしょう」
北島は、いつの間にか自分よりずっと冷静な口を利いている中井に戸惑っていた。
普段滅多に見せることがない貧乏揺すりをしながら頭を抱え込み、
「中井君、何てことだ、君は……」
と弱々しく呟いた。程なくしてそれは頭を激しく掻き毟る行為へと変わり、
「分かった……だが無理はするなよ。僕にもう少し常識というものがあれば、
そんな危険な代物力ずくでも外すんだろうけどな。もし少しでもやばいと思ったら、静かに手で”×”を作るんだ。
分かったね?」
中井は力強くうなずくと、外へ出ようと腰を上げた。しかし北島はそれを制し、
「テントの中の方が、少しは例の『声』が妨げられるかもしれない。ここでやろう」
再び中井が腰を落ち着けると、北島は医療用具の入ったバッグから予備の注射針を取り出した。
「いいかい、三つ数えるからな。……一……二……三……頼む」
祈りと同時に押し込まれた針に、プラスチックが立てるカチリという小さな音。そして――。
「……っ!!」
声にならない悲鳴と共に中井の表情が歪み、再度頭を抱え込んだ。
こみ上げてくる何かを無理やり抑え付けようとするかのようにぐっと身体を固くし、小刻みに肩を震わせている。
呼吸が瞬時にして荒くなったのが分かる。北島はすぐに止めようとしたが、中井が拒むような仕草をしたので
少し様子を見ることにした。まるで必死に何かと闘っているようだった。
少しして不意に、ふっと、中井の身体から力が抜けた。ただじっと、動かなくなった。
そして今度は喉から嗚咽が漏れ始め、それもすぐに大きな呻き声に変わった。
まるでそれまでの間どこかに貯めていたかのように、次から次へと彼の目から涙は溢れ出した。
「中井君……」
北島はそれから中井が落ち着くまでの間ずっと、何もせず静かにそこに座っていた。何だか「見守る」のも
恩着せがましい気がして、中井と同じようにじっと下を向き、自分がまるでそこにいないかのように振舞っていた。
*
結局、中井の方から電源を切れというサインが出た。
しかし実のところ、北島は驚いていた。そのときには既に、中井は大方平静を取り戻していたからだ。
「ああ、味噌汁はもういいです。余計喉が渇く」
水筒に手を伸ばしかけた北島を制すと、中井は狭いテントの中で器用に横になった。
彼の身体は疲労しきっていた。全身の筋肉が凝り固まり、動かす度に音を立てて軋むような痛みが走った。
中井が目を閉じていたので、北島はてっきりすぐに眠ったものと思っていた。しかし少し経って、
彼はか細い声で話し始めた。
「北島さん、すいませんが、そいつを外へ逃がしてやってくれませんか? 腹が減ったって言ってましたから」
「な、なんだって?」
北島は思わず問い返した。恐らく聞き間違いだろうが、中井が何か妙なことを口走ったように聞こえたからだ。
「ネズミを、外へ逃がしてやって下さい。このままじゃ餓死しちゃいますよ」
「あ、ああ――いいよもちろん。もう必要はないし、荷物になるだけだからね」
空ろな目で天井を見つめる中井の方を訝しげに見やりつつ、北島はラットをケージから出し、
テントの外へ持ち出した。既に日は沈みかけていた。
「参ったなあ……夕焼けだ。明日も雨かもしれんぞ」
中に戻った北島は、ランプに明かりを灯しながら言った。
「どちらにしろ、今すぐ出発するのは無謀すぎる。明日、雨が止むのを待ってから行くしかないね」
「……そうですか」
相変わらず弱々しい声で中井は返事をした。
北島はまた何か喋ろうとしたが、すぐに言葉を飲み込んでしまった。
中井の据わった目を見た瞬間、急ブレーキがかかったようだった。それ以上話しかけてはいけない……そんな声が、
心の中で聞こえた気がしたのだ。
それでも幸い、しばらくして中井の方から話をしてくれた。例の『声』には大分慣れてきたということ、そして――。
「『声』の正体が分かりました」
「本当か!?」
静かに告げた中井の言葉に、北島は身を乗り出した。
「ええ……あれは、命の声です」
「……なに?」
北島は、中井の口から出た予想外の言葉に怪訝な表情を見せた。中井は構わず言葉を繋いだ。
「長いこと聞いているうちに、感覚で分かりました。これは、生き物の命が勝手に発散して伝えてくる、
波みたいなものなんだと。ただそれには感情のようなものが込められていて、まるでその命そのものが何かを訴えて
いるみたいなんです。
勿論ちゃんとした言葉として聞こえるわけじゃなく、動物の呻き声みたいな感じで――でも、
なんとなく何が言いたいかは分かるんです。
殆どが死ぬ瞬間の叫びだった。寿命で死ぬ瞬間、他の生き物に食べられる瞬間、
何も食べることができず餓死する瞬間、それに、他の生命を奪う瞬間――。
それも頭のいい動物だけじゃなく、小動物とか昆虫だったり、その辺に生えている植物の声もあれば、
目に見えないバクテリアみたいなやつまで、物凄い数のが一度に聞こえてくるんです。
想像できますか? 自分の体の内側からも聞こえてくるんですよ、あの声が!
一回呼吸する度に、恐ろしい数のバクテリアが自分の体内で死ぬ、その声が、全部耳に入ってくる!
みんなお前が殺してるんだ、お前が息をしているせいだと言わんばかりに、はっきりと!」
明らかに、中井は興奮し過ぎていた。少し色が戻りかけていた顔は再び真っ青になり、
呼吸も先程のように異常に荒かった。
「ああ、頭がどうにかなりそうだ……今までそんなこと考えた事もなかったのに、いきなり! いきなりこれだ!
分かりますか!? 胸が潰されるみたいですよ! こんな、こんなのって――」
そう言ったきり、中井はまた俯いてしまった。そのときちらりと見えた彼の顔には、苦悶の色が深々と滲んでいるのが分かった。
そんな中井にどう声をかけてやればいいかも分からないまま、ただこれからどうなるのかという
実体のない不安だけが、北島の中で延々膨らみ続けるのだった。
*
『ここは、どこだ……』
北島は寝ぼけ眼で周りを見回した。自分の今の状況を完全に思い出すまでに大分時間がかかった。
まだ夜は明けていないようだ。眠りに就いてからどれだけ時間が経ったか分からなかったが、
時計を確認するでもなくしばらくは目を開けたままじっと天を仰いでいた。
少ししてだんだんと目が慣れてきたとき、隣で中井が起き上がって何かごそごそしているのに気付いた。
外から幽かに差し込む月の薄明かりに浮かび上がった彼のシルエットは、膝を抱え込んでいるように見える。
『中井君……何をしているんだ?』
どうやら泣いているらしかった。時々背中を上下させる度に、嗚咽と、鼻を啜るような音が聞こえてくる。
しばらくの間、北島は何もせずにぼうっとその様子に見入っていた。すると突然、
中井の頭上に恐ろしいものが見えた。手足の生えた黒い大きな塊が、中井の肩に乗って上から
彼の顔を覗き込んでいるのだ。北島は思わず声を上げそうになったが、声が出なかった。金縛りだった。
黒い塊は中井を喰おうとしているようだった。だが本人は一向に気付く気配もなく、
ただしきりにしゃくり上げている。黒いものは次第に中井の頭に覆いかぶさっていき、
ついには肩の辺りまですっぽり包み込んでしまった。それでも中井は気付かない。
中井君、中井君と何度も叫ぼうとしたが、いくらやっても声が出ない。そうやってるうちに、
彼の身体はだんだんと黒い塊に飲み込まれていく。絶望的な気持ちでその様子をただじっと見つめながら、
そのうち北島自身もいつしか再び闇の中へと落ちていった……。
*
朝、目を覚ました北島はひどく慌てた。狭く息が詰まりそうなテントの中に、見回すまでもなく中井の姿がないことに
気付いたからだ。だが、それはすぐに収まった。テントを出るとすぐ目の前に、
手ごろなビニール袋を敷いて腰を下ろしている中井の背中があった。
すぐ近くまで歩み寄ってもまだ北島に気づいていないらしく、ただ気持ちよさそうに日の光を浴びている。
一晩中雨が降っていたようだが、今はすっかり晴れ上がっていた。
「やあ、おはよう」
北島がやや躊躇い気味に声をかけると、中井は驚いたように振り返った。
「ああ、おはようございます。すいません、『声』に聞き入っちゃってて」
そう言って、彼は手にしていた注射針を右耳に差し込んだ。今度は北島が驚く番だった。
「じ、じゃあ、君はずっとそれを――?」
無理もなかった。昨日はあれだけ『声』に対して激しい感情の変動を見せていた中井が、
まるで音楽でも聴いているかのように穏やかな表情でそれに浸っていたのだから。
「やっと……正面から向き合えるようになりましたよ。こっちの方が当たり前だと、やっと思えるようになった。
哀しくても、それが本来の生命なんだと、分かってきたんです」
遠くを見つめるようにしながら、中井は呟くように言った。北島の方はまるで見ていないようだった。
「彼らは、逃れることのできない三つの運命を背負って生きています。
いつかは死ぬということ、他の命を奪わなければ生きていけないということ、
それにどうあがいても、結局自分のためにしか生きられないということ……。
彼らには、人間と同じように――いや、恐らくもっと大きな――愛情があります。
それもとても広い範囲で、ありとあらゆる生命の鼓動に対して……また自分自身に対して。
しかし生きている限り、ここにいる限り、三つの運命には従わなければならない。
多分、それが最も正義に近いということを知っているから……それ以外に道がないことを知っているから。
そんな果てしない矛盾と悲壮さを持って、彼らは生きているんです……」
北島は半ば言葉を失っていた。昨日とあまりに様子が違いすぎる。思えば昨日から北島は、中井のありとあらゆる
表情を見せられてきた。人の心とはこうも劇的に変わるものなのかと、ただ呆然となっていた。
「でも俺たちはいつも、その運命から目を背けてきた。
だから最初、それが頭の中に無理やり入り込んできたときは本当に苦痛でしたよ。
でも、それをなんとか心で受け止められるようになってくると、また別のものが見えてくる。
ここに満ちていたのは、悲しみだけじゃなかった。それぞれの生命が、本当に色んな感覚でこの世界を捉え、
その瞬間ごとに色んなことを感じている。そしてその一瞬一瞬のためにこそ、彼らは生きているんだって。
その再確認が、今やっと済みました……もう大丈夫です」
北島は、疲労の溜まりきったその顔に安堵の表情を浮かべた。
「そうか……。ともあれ中井君、もう少し休んだら出発しよう。そうだ、君のペットボトルも残り少ないだろう。
そこに雨水を貯めたコップがあるから、飲んでいいよ。衛生上あまりいいとは言えないが、
脱水症状になるよりはるかにましだ」
北島の言葉に中井は頷き、テントに向かって踵を返すと、足元にあるコップを拾い上げた。
これは北島の水筒に付いていたものである。中井はそれをすぐに飲むことはせず、用心深げに中を覗き込んだり、
しきりに匂いを嗅いだりしていた。
その様子を見ながらふと北島は、昨日最初に『UNIVERSE』のスイッチを入れたときのことを思い出す。
あのときの中井の様子を、まるで何か得体の知れないものに取り憑かれたみたいだと、彼は思ったのだ。
「ひょっとして、まだ――」
「?」
そのとき中井が怪訝そうに北島の方を振り向いたので、北島は内心焦りを覚えた。
無意識のうちにずっと中井の方を凝視してしまっていた上、つい考えていたことが口を突いて出てしまった。
「俺の顔に何か付いてます?」
「い、いや、何でもないよ……」
それでも中井はしばらく訝るような目で北島を見ていたが、やがて向こうに視線を戻すと、コップの水に口を付けた。
その様子を見て北島は軽くため息を漏らし、自分も出発の準備にかかろうと腰を上げた。
――ひょっとしてまだ、取り憑かれたままなんじゃないだろうか。
たった今中井を見ていてふと浮かんできたそんな考えに、北島は自分で恐ろしくなった。
*
準備を終えた二人は、必要最低限の荷物と共にその場所を後にした。
彼らの歩いた行程に、道と呼べる場所は殆どと言っていい程無かった。幸い途中で熊のような大きな動物の『声』を
聞くことは一度も無かったが、代わりにそこかしこで木の根や雑草に足をとられ、
顔や手を擦り傷だらけにしながら歩くことになった。
だがその度に中井は、その先に待っているであろう人々の営みの雰囲気に期待を膨らまさずにはいられなかった。
人や都市といったものから全く隔絶されたこの場所の秩序に少なからず惹かれながら、
それでもやはり人間の世界が恋しかったのだ。絶対的な安心を得られるのは、そこでしかあり得ないという
思がどこかにあったのだろう。
既にどれほど歩いた後だったか、中井が最初の違和感を覚えたのは、ちょうど工事現場らしい重たい金属音が
少しずつ彼の鼓膜を打ち始めた直後だった。ぱっと顔に光が差し、きっともう近くですよ、
北島さんも聞こえるでしょう……そんなことを言おうとしたときだった。
明らかに異質と分かる何かが、周囲の音と『声』の入り混じる中にちらつくのを中井は感じた。
ノイズのように入り込んできたそれは『声』の一種のようにも思えたが、まるで何か全く別の意思の働きを
思わせるような不自然な響きを持っていた。だが勿論中井にとっても、今はそれよりすぐ近くに迫っているであろう
救いの鐘の音の方が大きな関心事であった。
しかし、そこからそう離れていない場所で……中井は、歩くのをやめた。それがあまりに唐突だったため、
後ろを歩いていた北島は危うくぶつかりそうになり思わず声を上げた。
「おっと! ……どうかしたのかい?」
中井は聞いていないようだった。そして今度はゆっくりと、一歩一歩慎重に足を踏み出し始める。
まるで正体の分からない何かを探るように――。
そして何歩か進んだところで、それは起こった。一度だけ、全身がビクッと痙攣するように震えたかと思うと、
中井はその場に凍りついた。北島がおいと声をかけようとした瞬間、彼の身体はふらりと後ろに傾き、
あろうことかそのまま倒れ掛かってきた。
北島は慌ててこれを支えた。中井は、気を失っていた。
*
中井は『声』と対峙していた。邪魔するものは何もなかった。
最初はばらばらに捉えられていた幾つもの『声』が、頭の中が整理されていくにつれはっきりした一つの
集合体のイメージとなって彼の脳裏に浮かび上がってきた。それは「森」に近かった。
だが実際はもっと抽象的なもので……『宇宙』? そう、『宇宙』と呼ぼう。
もはや、その『宇宙』そのものが『声』を放っているようだった。それは怒りを伴っていた。
何故怒っているのか、それは誰に対する怒りなのか、中井はもう少しで分かりそうだった。
そして、できれば共感したいと願った。しかし何故かそれは出来なかった。
何かとても辛いことのような気がした。
「今のお前にそんな資格はないよ……」
と誰かに言われた気がした。
*
「ああ、中井君。気が付いたかい」
意識がはっきりしてきた中井は、戸惑いの表情を浮かべた。自分が今いる場所がどこなのか見当もつかない。
見たこともない狭い天井から、四方の薄汚れた壁や自分の体にかかったタオルケットを眺めていると、
すぐ隣で北島が再び口を開いた。
「安心していい、現場の人たちの仮設休憩所だ。君をここまで運ぶのも、彼らに手伝ってもらった。……覚えているかい?
急に気絶したんだよ。本当に驚いたよ、一体どうしちゃったんだってね」
手が無意識に右耳へと伸びる。『UNIVERSE』のスイッチはどうやら寝ている間に切られていた。
中井は先程の夢のことを思い出してひどく憂鬱な気分になったが、表情には出さずに言った。
「いやあ、全く憶えていませんね。自分でも何が起こったのか……まあでも、今はこの通り全然平気ですよ。
それより、今何時ですか?」
「夕方の四時を回ったところだ。大分眠っていたよ……そうだ、腹が減っているだろう。待っていてくれ、
何かもらってくるよ」
そう言うと、北島は小さな部屋を後にした。
*
数分後、戻ってきた北島は手にしていたサンドイッチの袋を取り落としそうになった。
ベンチから中井の姿が消え失せていたのである。
トイレなら休憩所を出てすぐのところに簡易式のものがある。だが今しがた見たときは確かにドアは開いており、
勿論中に人の姿はなかった。
嫌な予感に苛まれた。やはり、中井を一人にするべきではなかった。『声』だの何だのとまるで悟りを開いたかのようなことを
言っていたが、結局それらは全て中井の理性が音を立てて崩れていく前兆でしかなかったのだ。
北島は今になって、ようやくその考えに確信を抱いた。
そうなれば、一刻も早く中井を捜した方がいい。そう思って踵を返したとき、ちょうど休憩所に入ろうとしていた作業員の男と
入り口のところでぶつかりそうになった。
「おお、すいません」
律儀そうに謝る小太りの中年男を、北島は知っていた。先ほど中井を運んでくるのに手を貸してくれた一人である。
胸のネームプレートには「山川」と印字してある。
「いやいや、こちらこそ気をつけずに――。ところで、彼を見ませんでしたか? ほら、さっき助けて頂いた……外の
空気を吸いに出て行ったきり、なかなか帰ってこないのですよ。道に迷ったんじゃないかと……」
その瞬間、男の顔から血の気が引くのが分かった。彼はおろおろしながら、
「そ、それは大変だ!」
と喚くように言った。オーバーな男だと思いつつ北島はなだめるように、
「まあ落ち着いて、日が沈むまではまだ時間があります。そう遠くへは行ってないでしょうし、これから他の人たちにも捜して
もらうよう頼みに行くつもりです。そうすれば――」
「違うんですよ、危険なんです。最近、この辺でよく猪が出没するんです。襲われたりしたら大変だ」
「ほう、猪ですか……」
それは初耳だった。しかし北島には「猪」というのがあまりピンと来なかったらしく、大した反応を示さない。
これに焦った作業員の男はさらにまくし立てる。
「親子です、親の方はかなりでかい。この辺を自分たちの縄張りだと思っているらしくて、今までに何人も襲われています。
今のところ大した怪我をした者はいませんが、次いつ現れるか……。とにかく急ぎましょう、
一人でいるとしたら相当危険です」
それから山川は、上司に知らせてくると言い残して走り去っていった。それを見届けた北島も彼と反対の方角に急いだ。
*
耳を劈くような、電動のこぎりのモーター音。夕日のオレンジの輝きの中、高く伸びた杉の木を一本ずつ、
体格のいい男たちが次々に切り倒していくのを遠くに眺めながら中井は立ち尽くしていた。
「そうか、お前たちだったのか……」
それは複雑な思いから発した言葉だった。素直に憤ることの決してできない後ろめたさ。分かりきっていたことに、
先程の『声』に触れるまで気付けなかった自分の無神経さと無責任さ……否、多少逃げていた部分もあったのだろう。
そのとき、中井の背後で聞き覚えのある声がした。
「おーい、中井君!」
『UNIVERSE』のスイッチは切ったままだ。振り返ると、北島が息を切らしてこちらに
駆け寄ってくるところだった。
「駄目じゃないか、勝手に出て行っちゃあ。作業員の人たちまで捜してくれているんだぞ。さあ、早く戻ろう」
中井が抜け出した理由を問うようなことを北島はしなかった。今は少しでも早く彼を家に帰し、
休ませることだけ考えるべきだと思った。
こんな山奥で遭難しもう生きては帰れないかもしれないという絶望感と、あのイカレた機械が中井にもたらしたであろう
不快な音が原因だとすれば、多分これは一時的なうつ状態に過ぎない。しばらく休ませて様子を見、
それで戻らないようなら自分が全てを公表して責任を取るつもりだった。
だが、中井は動こうとしなかった。再び前に視線を戻したまま、まるで北島の言葉が聞こえていないかのようにそこに
突っ立っていた。
北島も黙っていた。中井の方から何か言うまで待つつもりだったが、北島が思ったより早く彼は口を開いた。
「何で、ですかね……。何で、俺だけなんでしょうね……」
「何がだい?」
北島は優しく問い返した。中井の真後ろに立っていたせいで、その表情は分からなかった。
彼はその問いには答えず、語り続ける。
「彼ら、一生懸命ですね。ほら、あの木を切ってる人たち……すごく大変そうだ。でも、あんな作業に本当に意味が
あるんですかね。確かに旅館が出来れば人はお金を払って利用するでしょうが……それは
そこにあるから利用するだけで、もし無くても、その人たちが困るということはない。
そんなことのために、あんなに木を切って。人間って、何なんですかね……」
北島は戸惑った。今中井が言ったことに対し、どう反応すればいいのか分からなかったからだ。
言葉に詰まって内心考え込んでいると、
「無理に俺に合わせなくてもいいですよ。俺、別に怒ってるわけじゃないですから……」
そう穏やかな調子で中井が言った。その瞬間、北島は自分の心臓が止まったかと思った。
ともすれば、中井に腹の中を読まれているのではないかという気にさえなり、
気付けば自分でもおかしいと思う程に慌てていた。
中井はそんな北島には目もくれない様子で、依然ただ前を向いたまま話を続けた。
「だって、俺も含め、必要最低限の命しか取らずに生活できる人間なんているわけがないからです。
例えば、蚊取り線香を炊くなと注意して、納得する人はいません。蝶やバッタが死ぬのは可哀想でも、
ハエやゴキブリを殺すのは普通何とも思わない。家の中の鼠も同じですし、庭の雑草が伸びたら草むしりをします。
それが当たり前です。
それらをしないとなれば、少なくとも清潔で快適な生活は保障されないでしょうからね。理屈の上では可能でも、
今手にしている幸福を投げ打ってまでそんな生活ができる人がいるとは思えない」
今度は頭痛がするようだった。命の『声』の話が、まさかこんな展開になるとは考えもしなかった。
「普通の人間に『声』が聞こえないのは何故だと思います?」
「…………」
「この『声』は、『UNIVERSE』を通してしか聞こえないものじゃない。俺には分かる。
こいつは多分、最初からただ誘導の役割しかしていなかったんです。
一番初めに『声』を聞いたとき、何となく知ってるような気がした。だからこそ、あんなにも恐ろしかったんだ。
感覚を封印することで得られた快楽を、再び失うのが怖かったから……。
他の生物には、ちゃんと『声』は聞こえています。故に、彼らの生き様は常に死を見据えている。
死をすぐ近くに感じながら、その時そのときを全力で生きています。
しかし、人間はそこから逃げる術を発見してしまった。自分たちの安全を確保し、
時間を有効に使う方法を見つけていったが余った時間は自分を誤魔化すためにしか使わなかった。
安心できる場所を作るためそこにいた全ての生命を一度踏み均し、その先ずっと歴史を重ねるはずだった
幾つもの『宇宙』を無に帰すことまでした人間は代わりに何をしたか?
自分たちが必要なものを、必要なだけ自然界から調達できるシステムを作っただけ。
結局人はいつだって、”死”のイメージを自分たちから遠ざけるための空しい努力しかしてこなかった。
それが全てです」
相変わらず中井の表情は見えなかったが、全て見透かされているような感じは消えなかった。
それは北島を苛立たせた。何を勝手なことを言っていると、怒鳴ってやりたい衝動に駆られた。
しかし同時に、頭では何か全く別のことを考えていた。
「なのに、俺にだけは聞こえるんですよね……本当に馬鹿げてる。全く、俺一人にどうしろって言うんだか……」
「じ、じゃあ――」
北島が、急に中井の話を遮った。何故か居ても立ってもいられなくなり、とにかく何か口に出さなければ気が済まなかった。
「じゃあ君は、これからどうしていくんだ?」
中井は一人、笑いをこらえるような表情をしたかと思うと、その場でくるりと向きを変えた。
そして一言も喋らないまま、何事もなかったように北島の横をとことこと通り過ぎていった。
複雑な思いの北島が中井を追おうと振り返ったとき、遠くで誰かが大声を出すのが聞こえた。それは段々と近くなり、
北島には誰の声か分かるようになった。彼は息も絶え絶えになりながら走り、二人の前まで来て止まった。
「はあ、はあ、あなた、その人――」
「いやあ、申し訳ない。もうすぐ帰れるという安心感で、つい立ち話をしてしまって……」
先程の作業員だった。
*
辺り一面は開けていた。山の中腹から見える夕日は暗く、美しかった。カラスの鳴き声が、寂しげな響きを伴って山に
こだまする中を三人は何を話すともなく歩いた。
ふと郷愁にかられたのか、山川はその丸顔に噴き出した汗を拭きながらふいに身の上話を始めた。
「北島さんは、子供さんいらっしゃいます?」
北島は、一人いると答えた。
「そうですか……。家は二人いまして。上の娘がもうすぐ小学校なんですが、これが少し変わってましてねえ。
お笑い芸人のものまねをやるんですよ。ほら、最近よく出てくるでしょう、変な踊りとか掛け声なんかと一緒に
面白いこと言うの。私は止めさせようって言ったんですがね、女房が面白がって――」
山川はマイペースな調子で話し続けるが、実のところ北島は殆ど聞いていなかった。
先の中井との会話のことで頭が一杯だった。
「でも実は、私出稼ぎでしてね。たまにしか会えないんですよ。寂しくてねえ……あ、分かります?
それでこの間やっと携帯を買いまして、メールするようになったんですがこれがまた……ああ、すいません、
中井さんはこういう話退屈でしたかね?」
「いいえ、お構いなく」
中井は相変わらず相手の方を見もせず、ぶっきらぼうな口調で答えた。先程からずっと下を向いていたようで、
それに気付いた北島は心の中でため息を吐いた。これは暫くこの男の話に真面目に付き合わざるを得ないなと思った。
*
「彼女」はいきり立っていた。ついさっき大きな石にぶつけて怪我したばかりの脚から血が滴っていたが、
理由はそればかりではなかった。
音だ。あの甲高い、全身の毛が逆立つようなおぞましい音のせいだ。どこへ逃げても、
あの音は常に彼女から安心を奪おうとする。数日前、彼女の子供とはぐれたのもあれのせいなのだ。
あのときはすぐ近くで音がしたため、子供が怖がって逃げ出してしまった。
今もその音は鳴り続けている。気が遠くなりそうだった。ここ数日間何も食べていない。
疲労は心身共に限界に達しようとしていた。
不意に、開けた場所に出た。音から遠ざかろうとしているうちに林から出てしまったのだ。早く戻らなければ、
しかし音のする方には帰りたくない……そう思いながら立ち往生していると、ふと嫌な感覚が全身を貫いた。
反射的にその感じた方を見る……やはりいた。彼女が最も恐れる生き物――一見ひ弱そうだが、
武器を隠し持っているかもしれない。それで一度殺されかかったことがある――それも三つもいる。
こちらに向かって歩いてくる、三つとも余所見をしていたようだがそのうち一つが彼女に気が付いた。
それはこちらを見て大声を上げた。瞬間、彼女の恐怖は最高潮に達した。背後からはあの恐ろしい音、
そして前方には敵……元々不安定だった精神がさらに極限へと追い込まれ、
ついに彼女の身体は完全に防衛本能のみによって支配されることとなった。
彼女は雄叫びを上げた。今叫んだやつはこちらに背を向けて駆け出した。怪我をした前脚が痛んだが、
構わず全力で突き進む。横の二つはもう目に入っていなかった。敵はそれほど走るのが速くない。
急速に距離が縮まっていく。そしてそれがすぐ目の前まで迫ったとき――彼女はそれに飛び掛った。
*
それは一瞬だった。山川が叫び声を上げ、不審に思った中井や北島が前方に何かいると気づいたときには彼は
逃げ出していた。
直後何かが風のように二人の前を通り過ぎ、次に見たとき山川は地面に仰向けになって倒れていた。
二人共しばし呆然となった。
「や、山川さん!?」
「馬鹿、大声は駄目だっ」
北島は中井を制しながら、未だ目の前で起きたことが完全には信じられなかった。まさか本当に猪と遭遇するとは夢にも
思わなかったのだ。
山川はかなりの距離を飛ばされていた。高々と跳躍した猪の前足が背中に命中し、
文字通り弾き飛ばされた彼の身体は顔面から地面に激突した。そして身体が地面と垂直になるぐらいまで
首が折れ曲がったかと思うと、そのままゆっくりと横に倒れた。目を覆うような光景だった。
向こうはかなり興奮しているようだった。そしてまるで悪夢のように、それは中井の悲鳴に反応した。
かの巨体がさっと二人のいる方向に翻る。二人は息を飲んだ。
「落ち着くんだ。いいか、背を向けて逃げちゃ絶対に駄目だ」
北島が言ったが、もはやその必要もないように思えた。鼻息荒い猪の、その狂気で靄のかかった目は執拗に
こちらを睨みつけ、今にも飛び掛らんと輝いている。
中井はどうにか助けを求められないかと周囲を見回した。人影は全く見当たらなかったが、
少し離れたところにドアを開け放された大型トラックが一台停まっているのが見えた。
猪とほぼ反対の方角。中井は咄嗟に、北島の制止を振り切りそのトラックめがけて駆け出した。
何も考えてはいなかった。北島を助けようと思ったわけでもなく、ただ中井自身が助かるためだけに行った賭けだった。
走っている間一度も振り返らなかったが、背後から恐ろしい勢いで気配が迫ってくるのを感じた。気が遠くなるような思いが
しながら、中井は走った。そして無我夢中でトラックの運転席に飛び込んだ。
間一髪だった。中井が座席に飛び乗った直後、ドンという音とともに車体全体に衝撃が走った。
肝を冷やしつつも慌ててドアを閉め、ロックをかける。反対側のドアが閉まっているのを確認すると、
中井は座席にへたり込んだ。
我を忘れた獣はしばらくの間ドアに体当たりしたり、奇声を上げたりしていたがやがてその音もしなくなった。
一瞬北島の方へ行ったのかと心配したが、疲れたのかただふらふらとした足取りでトラックの周りを歩いているだけの
ようだった。
これが本当に猪か、と中井は思った。恐ろしい風貌をしている。灰色がかった剛毛に覆われた、ごつごつした筋肉の塊には
そこら中に生々しい傷痕があり、そこから四本の脚が生えている様はまさしく化け物のようだ。実際の大きさはせいぜい
一・五メートル程度だろうが、それよりもふた周りは大きく見える。口の両端から湾曲して飛び出している牙も普通
よりやたらと大きく、あれが真っ先に襲い掛かってくると思うと中井は背筋がぞっとした。
サイドガラスの向こうに、尻餅をついている北島の姿が見える。しかし助けに行こうにも
車内から出ることはできないし、それに今なら自力で逃げられるだろうと思えた。
今はそれ以上に気になることがあった。
中井はポケットから注射針を取り出すと、恐る恐る『UNIVERSE』のスイッチを入れてみた。
嫌な予感は当たっていた。仰向けに倒れた山川の方からは、哺乳類が発するような強い『声』は既に感じ取れなかった。
だがそれに対する中井の感傷は、自分でも驚くほど淡いものだった。心をどこかその辺に置き忘れてきたのでは
ないかと疑わしくなるぐらい、何も感じない。ただ生命の『声』を聞き、それに共感しただけだというのに、
ひょっとして自分はこの三十時間余りでとんでもなく酷い人間になってしまったのではないだろうか……。
そんな言い知れない虚無感に苛まれながら不運な作業員の亡骸を眺めていると、
やがて思いもかけない方向に考えが行く。いつか得た真理の矛盾――全ての生命が『宇宙』の中で
本能の命ずるままに生きるのが最も正しいとするなら、例えばたった今、山川の身に起こったことはどう説明するのか?
それはつまりその秩序――今『宇宙』の中で何より確かなその秩序ですら、完全ではないということ……。
今、中井にはあの『宇宙』の『声』が聞こえている。そして今なら、それが言わんとしていることも分かる。
不完全な秩序、それを支えるのがお前達の使命だと――ずっとそう言っていたのだ。
その役割のためにこそ生まれてきた「種」なのだからと。
だが、中井はそれを理解するほどに怒りが沸いた。この世界で恐らくたった一人、自分だけにこんな『声』が聞こえて、
一体何になるというのか。結局それは、中井に対して何の解答も与えてはくれなかったのだ。
『人間って、何なんですかね……』
そのとき、唐突に聞こえてきた誰かの大声で中井は我に返った。北島だった。必死に何かを叫んでいる。
不審がりながらサイドガラスの向こうの光景を見た中井は唖然とした。
ずっと山川の方に気を取られていて気付かなかったが、北島は未だにさっきと殆ど変わらぬ場所に
座り込んでいたのである。
何やってんだ、と思わず絶叫しかけた。よく見ると、北島の足で何か光るものがある。
ガラスだった。恐らく、先ほど猪が突進してきたとき踏んだ空き瓶か何かの破片が飛んできたのだろう。
人の手ほどもある破片は北島のふくらはぎに深く突き刺さり、暗い色のジーンズを血でさらに黒く染めていた。
北島は片足を引きずりながら移動を試みたが、足場が悪すぎた。すぐに足を取られて転倒してしまう。
その様子を見て猪は再び一気に戦意を高揚させたようだった。目標物である北島を真正面に見据え、
力強く地面を蹴ると凄まじい勢いで飛び出していく。
「北島さんっ!」
全てがスローモーションのようだった。殆ど動けない状態の北島に、茶色い影が一直線に向かっていく。
絶望が二人を支配しかけたそのとき、猪の影が突然宙に浮いた。
二人とも何が起こったのか分からなかった。猪の肢体は地面すれすれのところを
まるで鼻で逆立ちするような格好で半回転し、そのまま背中から落下して短い距離を滑った。
地面に横たわり四本の脚を激しく振り回して苦悶するその様子を見て、中井は初めて異変に気付いた。
猪の前脚の一本は関節の下辺りでばっきりと折れ曲がり、そこから大量の血が流れ出ていたのだ。
走っている途中何らかの理由で、脚が折れたらしい。だがその理由を考えさせる間もなく、猪は再び体勢を立て直した。
残った三本の脚で器用に立ち、北島の方へと向き直る。まだ襲いかかる気らしかった。
何とか助ける方法はないのかと焦った中井は、いきなり片手を振り上げるなり、
クラクションを滅茶苦茶に鳴らし始めた。いやに派手で耳障りな音が山にこだましたが、しかし意味はなかった。
向こうは耳が少し動いた程度で、殆ど反応がない。中井は思わず、ハンドルの縁に苛立つ拳を叩き付けた。
そのとき不意に、ハンドル横のイグニッションキーが刺さったままなのに目が留まった。
考えている暇は無かった。気付いたときには右手を伸ばし、キーを捻っていた。
トラックのエンジンがかかる。ギアを入れ替え、車体を回頭させて猪の方へと向ける。
一瞬、向こうがこちらを振り向いた。が、すぐに北島に視線を戻してしまう。
「やめろ!」
しかしアクセルを踏もうとした中井の足は、そこで止まった。それ以上はどうやっても動なかった。
このとき初めて、自分が何をしようとしていたかに気付いたのだ。
焦りと自戒が入り混じった複雑な思いに囚われた。
手負いの獣は北島の目の前まで迫っていた。片足で逃げようにも、相手が三本脚ではどうしようもない。
もはや突進してくる恐れこそないが、自由に逃げられない北島を噛み殺す程度なら充分できそうである。
むしろその『声』から感じ取れる異様な興奮は、放っておけば必ずそうするだろうという
確信を中井に抱かせるものだった。
「……どうすればいい?」
と独り問う。そのときふと突然、中井の脳裏に全く関係のない映像が幾つも、
水泡のように浮かびあがってきた。それは次々と数珠のように繋がって、
瞬く間に彼の頭を駆け抜けていく。
北島が、苦手な英語の課題を親身に手伝ってくれたときのことや――このときは確か真冬で、
次の日北島は中井の風邪が移って寝込んでしまった――壊れた無線機がなかなか直らず、
他の学生達と一緒に徹夜で作業したとき……遅くまで残っていたら終電に乗り遅れ、
アパートまで車で送ってもらったとき見た満月の丸さ……。
それは本当に一瞬のことだったが、それでもその印象は鮮やかに中井の心の中に蘇り、広がっていった。
ちっ、と一つ舌打ちをし、これだから駄目なのだと思った。こんなに脆くて、
頼りなくて、臆病な生き物だから――。
そのときだった。また一つ新たな『声』が、中井の右耳を介して聞こえてきた。森に溢れていたどの『声』とも違う、
先の『宇宙』が発するものとも別の何か。どこか懐かしい感覚を伴っている。
中井はすぐに、それが自分自身の『声』だと気付いた。そして感情の激しいせめぎ合いの中で、
何よりも強くその存在を主張するものを見つけた。それは
今まで様々な「誰か」に対して中井が抱いてきた、そして今目の前にいる北島や、
それを今にも喰い殺さんとしている猪に対してさえも抱いている感情――「救いたい」――。
ああ、なんだ、何も難しく考える事などなかったのだ――その瞬間に中井は思った――何がどうあれ、
人間にはこの『声』がある。ただ悲しいとか、可哀想だけではない、あんな猪やら犬畜生には存在しない感情なのだ。
それだけでいい。充分じゃないか。少なくともそれは、『宇宙』の進化だとか理想の世界なんかより
ずっと確かなものなのだから――。
中井は再度ハンドルに手を掛けると、きっと前方を凝視した。獣は未だに怒り狂い、その矛先を北島に向けている。
その二者が、ちょうど横に並んで見える格好である。それを見ながら中井には、
あの恐ろしいまでの闘争本能が何故か、今になってひどく悲しく思えた。
「――済まない」
小さく呟くと、今度は躊躇なく、中井は力一杯にアクセルを踏み込んだ。
青く巨大な車体が、前方めがけて急発進する。凄まじい加速でシートに身体を押し付けられながら、
中井は懸命にハンドルを握った。
血だらけの猪と、北島のシャツのピンクとが急激に迫ってくる。衝突の直前、
その浅黒い顔が一瞬だけこちらを振り向いたような気がしたが、猪に狙いを定めるのに手一杯で
よく分からなかった。その後の一瞬が、とてつもなく長く感じた。
衝突の瞬間は、思ったよりも静かに訪れた。腕から伝わる鈍い衝撃と共に、フロントガラスにどす黒い赤が飛び散った。
一際強い命の『声』が俄かに中井の耳を貫いたと思うと、まるで糸が切れるように、ぷつりとそれは途絶えた。
一気に、色々なものが萎んでいくような気がした。喪失感と、胃が沈むような倦怠感だけが残った。
脱力した中井の足は既にペダルから離れ、ブレーキを踏むのも忘れていた。トラックの車体は、
ただその惰性によって走り続けた。
――でも、結局はこういうことしか出来ないんだな、俺も……。
それは中井の心に渦巻いていた不安が、絶望へと変わり始めたしるしだった。
こんなことをして、責任を取れる立場に果たして自分はいるだろうか。それすら疑わしいのに、
これで他人のことまで全て受け持ってしまったに等しいのだ。何て無責任なことをしたのか。
あれだけ煩かった『声』が色あせ、力を無くしていく。それは中井自身の意思がさせていることだった。
彼の耳はとうの昔に『声』に慣れてしまっていたのだ。恐らく、もう完全に『声』を意識から排除する
ことさえできる。心が、再び閉ざされようとしているのだ。
目を閉じ、耳を塞ぎ、その鼻腔にさえも栓をするように、中井は全ての感覚を遮断しようとした。
感じることを一切拒んだ。途中誰かが彼を呼んだような気がしたが、それも聞こえなかったことにした。
もう『声』など聞きたくなかったのだ。聞いても意味が無いとさえ思った。
だが、それでも決して止もうとしない『声』があった。他の『声』の気配が完全に意識から消え失せてからもなお、
それは執拗に中井の心に迫り続けた。
不可思議だった。何故この一つだけ――そう思ったとき急に、まるで視界が開けたようにはっきりと、
その正体が中井の目の前に忽然と浮かび上がってきた。まるで鏡を見るように……そう、鏡!
さっきと全く同じだ。他でもない、それは中井自身の『声』だ。中井の命が、もっと世界を見たいと欲しているのだ。
持ち得る全ての感覚で、『宇宙』を感じたいと望んでいるのだ。
それと重なるように、そこいら中に溢れていた『声』が堰を切ったように中井の意識の中へと雪崩れ込んでくる。
命の意味である「感じること」を否定し続けることは不可能だと、彼の理性もが妥協したのである。
そしてふと中井はその中に、聞き慣れた『声』――何かしら「救うべきもの」の『声』があるのに気が付いた。
それから感じ取れるのはただひたすらに強い恐怖。しかもその恐怖は、時間とともに次第に
大きくなっていくようだった。
確かに「救える」という予感があった。しかしだからと言って、中井は自分のその直感を心の底から
信じる気にはなれなかった。その時できると思っても、現実が突然裏切るかもしれない……それが
何より恐ろしかったのだ。
だが結局、中井は耐え切れなかった。おずおずと、まるで何かに怯えるようにしながら、彼のまぶたは開かれていった。
全身の感覚器がぼんやりと、再び現実を捉え始める。――ああ、まだトラックが止まっていない――。
しかしすぐに、事態はそれどころでないと悟った。フロントガラスの向こうに、
あの『声』の主の姿が見えた。トラックが未だ衰えぬ猛スピードで突っ切っていく、
その真正面に「それ」はいたのだ。
中井は慌ててブレーキを踏み、同時にハンドルを思い切り左に切った。シートベルトをしていない彼の身体は
瞬時に浮き上がり、右のドアに激突した。車体は大きく向きを変える、しかし勢いは殺しきれずそのまま恐ろしいスピードで
横滑りしていく。全力でハンドルにしがみ付きながら、必死の形相で中井は叫んだ。
「止まれえーっ!!」
*
辺りに爆音が轟いた。あまりの出来事に、北島はしばし放心状態だった。脇にある林に突っ込み無残に変形した
大型トラックの方をただ呆然となって見ていた。
やがて音を聞いた作業員たちが何事かと駆けつけてきた。北島ははっと我に返る。
「中井君!」
だが、傷を負った脚ではまともに歩くこともできない。中に人が乗っています、早く助けてください――そう大声で
周りの作業員に叫ぶしかなかった。するとその中の一人が北島のところに駆け寄ってきて、黙って肩を貸してくれた。
中井の身体は二人がかりで運転席から降ろされ、地面に横たえられた。
右のこめかみの辺りから流れ出た血の帯が、彼の耳から頬にかけてを完全に覆い尽くしているのが見える。
だが幸い意識はちゃんとあるようで、薄目を開けて周囲の状況を確かめようとするように
瞳をきょろきょろと動かしていた。
「これ……私のためにやったのか?」
肩を震わせながら北島は問うた。作業員に囲まれ、傷の応急手当を受けていた中井はようやくその姿を見止め、
血の気の失せた顔面を彼の方へと向けた。その顔が、力無く微笑んだように見えた。北島は思わず激昂した。
「答えろ中井っ!」
周りにいた男達は驚き、彼を抑えようとした。中井はうるさそうに顔をしかめ、
作業員たちの腕を振り解こうと格闘する北島に言った。
「怒鳴らないで下さいよ、北島さん。頭がガンガンする……」
北島はそれを無視した。中井のその青ざめた顔を見るほどに胸が痛み、思わず叫び出したい衝動に駆られた。
「君はっ! ……君はどれだけ、悲しみを背負い込んだら気が済むんだ……」
そう言って俯く北島をよそに、作業員たちは中井を運び出す準備を進めていた。
誰かが持ってきた毛布を担架代わりにして持ち上げられながら、中井がぽつりと呟いた。
「良かった……生きてる。あいつ、生きてるや……」
北島は訝しげに中井の方を見た。「あいつ」とは先程の猪のことだろうかと一瞬思ったが、
それなら今北島にも見える場所で完全に動かなくなっている。それに『UNIVERSE』も
あれだけの血で覆われればもう駄目だろうし、恐らくは先程のショックで頭が混乱しているのだろうと思った。
そのとき、不意に向こうから二人の男の声が耳に入ってきた。
「お、おい、猪だ! 猪がいる、ほらあそこ!」
「あ? 本当だ……って、何だまだ子供じゃねえかよ。そんなに騒ぐこたないだろ」
「だってよお、立て続けに人が襲われてんだぜ? こりゃ何かの祟りだよ絶対」
「大丈夫だって、全く怖がりだなお前は」
片方の男がけらけらと笑う。もう一人の方の視線はトラックの向こう側、
つまり北島からは死角になる方を向いている。
彼の中で何か閃いたものがあった。車体側面を伝ってその男達のいる近くまで行ってみると、確かにいた。
生まれてからそう経っていないであろう、体長五十センチほどの猪の子供。かなり怯えている様子で、
北島が現れるとすぐに林の中へ逃げ込んでしまった。あのとき山川が「親子連れ」と言っていたのを思い出した。
「そういうことか……」
先程中井のトラックが不自然にクラッシュした原因はあれだったのである。それなら確かに筋は通る。
しかし気になるのは、先の中井が言った言葉の方だった。
『良かった……生きてる。あいつ、生きてるや……』
「何故だ? 何故あの場所から、猪の子が生きているのが分かった!?」
それは、北島にとっては俄かに信じ難いことかもしれなかった。しかし結局、彼がその真相を明確に知る
機会は無かった。
*
その後サイレンと共に警察と救急隊が到着し、中井と北島、そしてあの不運な作業員の男の亡骸が搬送されていった。
中井の右耳に張り付いたまま役目を終えた例の機械は、救急車が来る前に北島が何とか応急的に除去することに成功。
多少皮膚から導線が出てはいるものの、少し見た程度では分からない僅かなものだった。
そして二人共、一ヶ月の入院生活を強いられることとなった。中井は側頭部を五針縫う大怪我だったが、
後遺症は全く無いと診断された。
退院後は二人共大学に復帰する予定だったが、北島は学生を危険な目に遭わせたという理由でK大学上層部から
非難を浴び、はいそれならとあっさり自ら辞表を提出して周囲を驚かせた。その後別の大学に再就職し、
また今までと同じように教鞭を振るっている。
ある日曜日の朝。家族との朝食を終え、北島は居間で小説を読んでいた。縁側の窓からは、
日の当たる庭で妻と五歳の息子が草むしりをしている光景が見える。息子は庭に出て早々に転んで泥だらけになった顔を輝かせ、
小さな手で雑草の葉を鷲づかみにしては引きちぎり、それを捨ててはまた近くの草に取り掛かるという
動作を延々繰り返していた。
しかしそのうちに飽きたのか、今度は窓際で家の中をじっと覗き込み始め、北島と目が合うと、
「パパも来て、一緒に草むしりして! ねえ早く!」
とはしゃぎ出した。こうなるともう読書どころではないので、
「ようしわかった、今パパが行くぞ!」
そう言いながら読んでいたページに栞を挟み、支度にかかった。Tシャツと短パンに着替えながら、
北島はふとあの日のことを思い出していた。あの夕日に照らされた、中井の表情を。
「彼は、今頃どうしているだろうか……」
外では、息子と妻が楽しそうに笑っている。それを見て、ああ、自分にも護るものがあったのだ、
と今更のように北島は思う。
庭に出て、軍手を嵌めた。危ないので鎌は使わない。息子と一緒に黙々と作業をしながら、こんなとき、
彼ならどうするだろうと思う。こうして一つ草を毟る度、その命が上げる壮絶な叫びが聞こえてくるのだろう。
そしてそんな叫びが一つ聞こえるごとに、こういう平凡な幸せが音を立てて崩れていくのに耐えなければならないのだ。
とそのとき、
「パパ、あれなあに」
息子の声。とたんに、中井のことなど北島の頭から吹き飛んでしまった。顔を上げてみると、
その小さな指の差す先に一匹の蛙がいる。
「あれはカエルさんだなあ」
と北島が言うと、彼はますます目を輝かせ、
「あれ欲しい! 捕まえて来て」
「おお、いいよ。ええと……ママ、虫かごどこだっけ?」
< 了 >