6.【行き着けのカフェ】 〜あらすじ〜 「隊長の人となりを知るのは隊員としての任務」。そう称するグリシーヌは、親友 の花火を引きつれ、大神のアパートへ潜入した。出だしは順調、次々に秘密のアイ テムを発見し、大神に対する理解を深めていく二人。しかし、そこへ神出鬼没のロ ベリアが現れてからは事態は一変する。同じ華撃団隊員でありながら、性格が水と 油のグリシーヌとロベリアはすぐに言い争いを始めたのだ。さらには、部屋の主で ある大神が帰ってきたことで二人は絶体絶命の窮地に立たされる。なんとか大神に 見つからない内に退散することができたグリシーヌと花火だったが、調査は否応な く中断を余儀なくされてしまった。しかし、その翌朝、大神の行き着けのカフェ近 くの物陰で待ち伏せを計る二人の姿があった。 ◆「まあ、なんだ…… 好きなわけだ」 秋の催促で夏はその席を譲り、巴里はすっかり涼しくなっていた 空は相変わらずの鉛色 街路樹は既に色づいているが、掃かねばならぬほど落ち葉は多くない 巴里18区にあるモンマルトルの丘は近代美術史上において名だたる芸術家を育んで きた場所である その名の通り、丘の上にあって坂が多い為に家賃が安く、貧乏な画家・詩人・外国 人が集まっていた 多くの芸術家達と街とが融合して醸成された空気が、さらに新たな芸術家を引き寄 せていたとも言えよう ピカソ、ユトリロ、シャガール、モディリアーニ、ロートレック、ルノワール、ゴ ッホ 彼らは皆、この街でその青春の一部分を費やし、情熱を燃やした者達である ある者は名を成して街を去り、またある者は一生報われることなく貧窮の内に生を 終えた 特殊部隊巴里華撃団隊長・大神一郎が居住するアパートは、そんな芸術の気風あふ れる地域の只中にあった かといって、芸術家として身を立てるべく、ここに移住してきたわけでは全然ない 彼の場合は、単に、シャノワールに近いという理由で日本大使館が用意した物件に 住んでいるだけで、家賃も公費である 芸術方面に素養があるわけでもなく、大神が関心があるのはもっぱら巴里の治安安 寧に関してであった それ故、この日、大神が朝食をとるために行き着けのカフェへ向かうまでの途中、 幾人か著名な芸術家とすれ違ったが気がつかなかった 当然、向こうも気がつかない 大神が行き着けにしているカフェ『ジネディーヌ・ジダン』は、この界隈で一番大 きく、また繁盛していると評判の店だ 出入り口から並木道の通りに沿ってオープンテラス席が設置されており、朝、正午、 晩は多くの人で混雑する だが、食事時には満員になるこの店も、その直後の時間帯だけは、うってかわって 客の姿がまばらになる 今しも朝食の時間帯を過ぎた所で、席には、ぱらぱらと客が点在して座っているに 過ぎなかった その出入り口から最も離れた位置のオープンテラス席に、大神一郎と加山雄一が向 かい合って座っていた 加山雄一は大神の海軍士官学校時代からの友人で、かつては、帝国華撃団・月組の 隊長として、当時、帝国華撃団隊長だった大神をよく補佐してくれた 互いの信頼も厚く、いわゆる莫逆の友というやつだ 遠く巴里の地へ赴任した大神を、はるばる日本から加山が訪ねてきたのは先日のこ と その時は、大神がモンマルトルの街を半日ほど案内しただけで、公用のある加山と 別れざるをえなかった 帝都に帰るまではもう会うこともないだろうと思っていた矢先、カフェで新聞を読 んでいる所へ、加山が不意に現れたのだ 他愛のない会話を交わし、軽い物を注文すると、席を共にする 後は互いに気を使うこともなく、注文したメニューが到着するのを待っていた…… そんな二人の様子を物陰からじっと伺う影が二つ いつもの通り、グリシーヌ・ブルーメールと北大路花火の二人組である 昨日の失敗にもめげず、日を改めて出直してきたのだ 「よいな? 手はずどおり動くのだぞ」 「え、ええ……」 グリシーヌの肩越しの視線に花火が答える グリシーヌが何かを発案し、それに花火が付きあわされるというのが、この二人に おける行動パターンである グリシーヌが懐から赤い液体の入った瓶を取り出した 香水ではない 「これはブルーメール家秘伝の“惚れ薬”だ これを飲んだ者は、たちまち、最初に見た者に惚れてしまうという恐るべき秘薬 だ かつては、我が母もこれを使い、父の心を我がものにしたという……」 グリシーヌは自慢げに花火に言って聞かせた ブルーメール家秘伝の惚れ薬……ブルーメール家本家に秘蔵される『世界○見え』 なる書物に記された古の調合法に従って、グリシーヌ自身が精製したものである グリシーヌは薬の効能について花火に得々と語った しかし、話は半ばから大きく脱線を始め、両親の出会いから結婚、フランスの歴史、 さらにはブルーメール家の伝統の素晴らしさと、延々続けられた つとめて感情を表さぬように聞いていた花火であったが、その心は大きく揺れ動い ていた 昨夜、邸に帰ったグリシーヌから大神への想いを打ち明けられた時、花火は正直、 驚いた あのプライドの高いグリシーヌが、平民……それも異邦人に想いをよせるなどあま りにも意外だったからだ だが、よくよく考えてみれば頷けることである 敵を見れば勇敢に戦いを挑み、人々の為ならば自らの犠牲をも厭わず、任務に忠実 かつ信義を重んじる彼らは似たもの同士なのだ そう考えれば、グリシーヌが大神に親近感を覚え、尊敬が次第に愛に変わっていっ たとしても、そう不思議なことではない 「…………だぞ 聞いているのか?花火」 「え? あ……ご、ごめんなさい ボーっとしていて……」 「大丈夫か? では、もう一度、手はずを確認しておくぞ これから二人で隊長のテーブルへ行き、相席を頼む 首尾よく席に着くことができたら、お前は隊長の気を数秒間、他へそらしてほし い 隊長を後ろに振り返らせれればベストだ その間に私が隊長の飲み物に薬を落とす その後は、悪いが、何か理由をつけて花火には退席してもらいたい ふふ……我が親友に惚れられてしまっては、私も困るからな」 屈託もなく、そう言ってのけるグリシーヌを花火は羨ましく思った なんとか、この無邪気な友を止める手だては無いのか? 恐らく、こう言えばいい……「惚れ薬など使うのは卑怯だ」と この一言だけでグリシーヌは己を恥じ、薬などに頼ることをやめるであろう だが、その一言が……簡単な一言が花火には言えなかった ■[第二話] 自分が密かに慕う男と親友との恋の架け橋を演じる……そんな、ありがちな役廻り に花火は陥っていた 無論、お嬢様育ちのグリシーヌに、そんな心の葛藤が存在しているなど推量できる はずもない かつて、花火とフィリップの関係を暖かく見守った自分と同じように、この恋を応 援してくれるものと信じ切っていた 「あの男……邪魔だな」 あの男……加山雄一は新聞を広げ、時々、珈琲を口にふくんでは巴里の朝をまった りと楽しんでいる 完全に腰を落ち着け、当分、その場を離れそうもない 「邪魔をするのなら仕方あるまい 花火、“アレ”を出せ」 数瞬、二人の間を流れる時間が止まった 「……アレ?」 「わからぬか? “アレ”と言ったら“アレ”しかあるまい! “アレ”を“ナニ”する“アレ”だ!」 「アレをナニするアレ???」 「違う! 携帯用の弓矢のことだ いつも持ち歩いておろうが……」 弓矢といっても、弦の長さが30cm足らずのオモチャのような物である 「持ってるけど、どうするつもりなの?」 「決まっておる それで奴を狙うのだ」 「そんな……私にはできないわ!」 「もうよい 私が狙うから、それを貸せ」 花火から弓矢を受け取ると、グリシーヌは新たに別の瓶を取り出した その茶褐色の液体は瓶ごしにも臭ってきそうな色をしていた 「それは何?」 「これはブルーメール家秘伝の“下剤”だ かつては、我が母もこれを使い、お通じが良くなったという…… まあ、そんなことはどうでもいいか」 「なんでも持っているのね」 「うむ…… 今からこれを矢じりに塗り、あの男に射る 見事、矢が命中すれば、店内のトイレに駆け込むに違いあるまい」 「でも、グリシーヌ……」 「しっ!…… 集中するから少し黙っていてくれ」 下剤って内服薬じゃなかったの?……そう言おうとした花火の言葉は、グリシーヌ に遮られてしまった ※この弓矢にはモデルがあります 昔、大ヒットした映画『ブッシュマン』に出てきた主人公ニカウさんが属するア フリカの少数民族サン族 そのサン族の男性が女性に求愛する際、相手の臀部を狙って、このミニサイズの 矢を射るそうです 花火が持っているのはそれと同型 しかし、何故、彼女がそんなものを持ち歩いているのかは謎 ■[第三話] 花火はグリシーヌの弓の腕前を実際に見たことがない 小動物を殺生する狩りに馴染めない花火が、グリシーヌからの誘いを断っていたし、 グリシーヌの方も日本の弓道には左程興味を示さず、花火の稽古を見守るだけだっ たからだ 花火は、しゃがみ込んだままで準備を整えるグリシーヌを波立つ心で見つめた 「…………」 グリシーヌは瓶の蓋を開け、中の液体を矢じりに満遍なくふりかけると、膝にのせ ておいた弓を改めて手にした そうして視線を加山に戻した時には、既に獲物を狙う狩人の顔になっていた その斜め後方では、合掌した花火が、矢が外れることを神仏に祈っていた ミニサイズの弓がわずかにきしみの音をたてて孤を描く 息を止め、引き締まった表情で、グリシーヌは慎重に狙いを定めた チャンスは一度きり、替えの矢はない 精神が標的ただ一点に集中した時、グリシーヌは弓手を離す だが、所詮は模造品 気合とは裏腹に、矢は蛙が跳ぶようなだらしのない放物線を描いて、あさっての方 向に飛んでいってしまった グリシーヌは大きく舌打ちし、祈りの通じた花火は顔を輝かせる しかし、グリシーヌの執念の籠もった矢は、代わりに、花壇にとまっていたカラス の尻に突き刺さった 突然の痛みに驚いたカラスは一声甲高く叫ぶと、翼をはためかせて舞い上がった すると、急にカラスは便意に襲われ、出すものを出す 半固形のその物体は、まるで計ったかのように、加山の食べさしのクロワッサンに 着弾した 大神と加山の両人とも、この非常事態に全く気付いていない 想定していなかった成り行きにグリシーヌと花火は激しく動揺した (……このまま黙って見過ごすべきか……それとも教えるべきか……) だが、二人にそのような逡巡を与えようともせず、加山はクロワッサンに手を伸ば して、そのままかじりついてしまった 「……!!」 「……!!」 あっと思った時には遅く、声をあげる暇もなかった それでも、すぐには気がつかない しばらく動いていた口が止まり、加山の眉間に皺が寄る 手にしていたクロワッサンに顔をむけ、目がまじまじと異物を注視する やがて、その存在を確認した両目がまんまるに見開かれ、次第に鼻息が荒くなって いった 心なしか、クロワッサンを持つ手がわなわなと震えている そして、脳がその正体に思い至ったとき、加山は口を押さえて駆け出していた 「おい! どこへ行くんだ!?」 友人の突発的な行動に、大神は驚いて椅子から飛び上がった 加山はそれには答えず、一目参に店内へ走っていく 大神は呆気に取られて、それを見送ることしかできなかった 大神の席からは建物の壁が邪魔になって店内の様子は伺えないが、入り口から垣間 見えるボーイや客の視線から判断するに、どうやらトイレに駆け込んだようだ ゆったりした時間を楽しんでいた他の客達は、この騒動に一様に眉をひそめる 中断されていたアコーディオン演奏が再開された 「何なんだ、一体……」 わけのわからぬ大神は仕方なく席へ腰を下ろした 一方、グリシーヌは心の中で快哉を叫んでいた (好機到来!) 予定とは違った形ではあったが、どうにか邪魔者は排除することができた グリシーヌは花火の手をとり、茂みの影から飛び出した ■[第四話] (作戦が成功すれば、私と隊長は晴れて恋人同士になれる…… そうしたら、また一緒に森へ狩りに行こう 先のデートでは失態を演じてしまったから、今度こそ、華麗に馬を操る姿を見せ て隊長の心象を改めさせてやるのだ 私の凛々しい姿に隊長も胸を熱くするに違いあるまい) 既に、グリシーヌは作戦成功後の甘い夢想にひたっていた 苦労を知らぬ人間の羨むべき楽観思考である (どうしよう……どうしよう…… このままでは大神さんが……) グリシーヌに手を引かれる花火はパニックに陥っていた 何か引き止めの声を上げようとするが、それは全く言葉にはならず、ただ、「あう あうあ」という呻き声にしかならなかった 動転する花火をよそに、グリシーヌは力強く大神の元へ歩みを進めていく その後ろ姿には何の迷いも見られなかった 大神は、ふと、こちらに近づいてくる二人組に気がついた 見知った顔である 読んでいた新聞を二つに手折り、微笑みながらその二人に声をかけた 「やあ、メル君……シー君……」 メイド服が愛らしい、グラン・マ直属の秘書メル・レゾンとシー・カリプスが偶然、 オープンテラスを通りがかったのだ 「おはようございます、大神さん」 「あーーー大神さんだぁ! カフェでいっちょまえに新聞広げていると、いっぱしのパリジャンに見えますよぅ ひゅーひゅー」 グリシーヌと花火は、咄嗟に通行人の影に隠れて、メルとシーの背後を通り過ぎて いた 「う、うぬ! よりによって、このような時に通りがからなくてもよいものを!」 グリシーヌが歯ぎしりする傍らで、花火は九死に一生を得た気持ちで胸に手を当て ほぅっと息をついた ■[第五話] グリシーヌと花火は、花壇の茂みに身を隠して、大神達の様子を窺うことにした 大分、会話が弾んでいるようだ 「大神さん いつも、こちらで朝食をとってらしてるんですか?」 メルの落ち着いた澄んだ声は、朝の耳に心地よい 「ああ、そうだよ アパートの窓から見える位置にあるし、値段も手頃だしね 君達こそ、なんでこんな所を歩いているんだい?」 「ナポレオンがまたどっかに行っちゃったんです 私達、ナポレオンを探している所なんですよ」 ナポレオンとは、シャノワールのオーナーであるグラン・マが飼っている雄の黒 猫のことだ この猫は、人間の女性には気を許すが、男性には全く懐かないという困った気性 を持っている それで大神は何度か痛い目を見ていた 大神には、ナポレオンがどのようにして人間の男と女を的確に判別しているのか 不思議であった 「そうなんですよぅ 昨日の夜から姿が見えなくて、オーナーがメルと一緒に探してこいって……」 シーがメルの腕に抱きつくようにして言った この少女はいつも快活であるが、少々、舌足らずな口調が特徴的だ 「またかい? でも、猫が外を出歩くのは当たり前のことだし、わざわざ探さなくてもその内、 戻ってくると思うけどな」 大神は前々から思っていたことを口にする そういえば、グラン・マが、ナポレオンの首に紐を結んで、犬のように散歩させ ている光景を目にしたことが幾度かあった 中高年の中には、何故か、猫に紐をつけて散歩させる人が稀に存在する グラン・マもその一人だ 大神はいつか、その理由について聞いてみようと考えていたものの、果たせずに いた シーも小首をかしげて、困ったような顔つきをする 「そうなんですよねぇ 私もそう思うんですけど、ちょっとでも長い時間、姿を見せないとオーナー が不安になるらしくて…… あ〜あ、見つからなかったことにして、このまま大神さんとお茶したいな」 その横着な思いつきを、メルがすかさず、たしなめた 「何を言っているの、シー そんなわけにはいかないでしょ」 「は〜い メルが一緒じゃ無理だよね」 元から期待していなかった様子のシーは肩をすくめた 「大変だね 俺も手伝おうか?」 「いえ、お構いなく 行くところは大体決まっていますし、いつものことですから……」 「大神さんが一緒だと、ナポレオンが逃げていってしまいますよぅ アハハハハハ」 シーが声を立てて笑った 「こら、シー 大神さんに失礼よ」 そう言いながらも、メルもクスリと笑いを漏らす 「じゃあ、私達、これで行きますね」 「また、後でね……大神さん!」 「ああ……シャノワールでね」 別れを告げ、メルとシーは、通行人の群れの中に消えた 大神は二人の後姿を名残惜しげに見送る 一陣の薫風が吹き去った思いであった ■[第六話] (よし、邪魔者は消えた 今こそ……!) メルとシーの姿が見えなくなったのを確認して、グリシーヌは腰を浮かせた しかし、一難去ってまた一難というべきか グリシーヌの思惑を外すかのように、この日に限ってカフェには大神の知り合いが 多く通りがかった 「よう!隊長さんじゃねえか! 昨日は整備につきあわせちまって悪かったな おかげで助かったぜ」 「おや、大神君じゃないか こんな時間にカフェで朝食とは優雅だね 僕かい?……大使館から抜け出して鳩にエサをやりにきたんだ」 「大神君! 本官は今、泥棒を追っているのだが怪しい奴は見かけなかったかね?」 「やあ、大神君 久しぶりですね コクリコは元気ですか?」 「ああ、大神さん…… エリカさんを見かけませんでしたか? ええ……ちょっとまた、心配事がありまして……」 「おお、大神 ちょうどよい所にいたざます 実はまた道に迷ってしまったざます ブルーメール邸はどちらの方角ざますか?」 タレブーまで…… (そうだ!!) その時、グリシーヌの頭の中を稲妻が走った (あらかじめ、隊長がオーダーした飲食物に薬をしこんでおき、隊長がそれを口に したのを確認する…… その後で、あの者達と同じように、私もさりげなく隊長の前に現れれば良いでは ないか!) 我ながら素晴らしいアイデアであった さりげなく大神の前に現れることは、グリシーヌにとって得意中の得意である 惚れ薬の仕込み役には、花火に廻ってもらおう 主役を引き立てることこそ脇役の務めなのだ 早速、この作戦を花火に打ち明け、協力を求めた その内容を聞いた花火の顔が青ざめる 花火は作戦のアラを探し、なるべく婉曲的な表現を用いて実行阻止を狙ったものの グリシーヌの「とにかく、やってみよう」という言葉にあえなく撃沈されてしまっ た 「では、頼むぞ 作戦の成否はお前にかかっているのだからな」 全幅の信頼を置かれたその言葉を背に受け、惚れ薬を手にした花火は泣くに泣けな かった ■[第七話] 親友から惚れ薬の仕込み役を頼まれ、断る術を持たない花火は、心ならずもそれを 引き受けるしかなかった さらには、仕込みに成功した後にOKサインを送るという段取りも、グリシーヌによ って一方的に決められてしまっていた しかし、この場所から店内に入るには、どうしても大神の背後を通らねばならぬ 手持ち無沙汰なのか、大神は、先程まで加山が読んでいた新聞を広げていた 意を決し、気づかれぬよう足音を忍ばせ、つま先立ちでそっと大神の後ろを通りす ぎる花火 振り返られれば終わりという状況でひやりと服の下を汗がつたう なんとか虎の尾を踏むことなく虎口を脱することのできた花火は、そそくさと店内 に入っていった カフェの中は、狭い入り口に似合わず、意外に広かった 入ってすぐに重厚な木製のカウンターが奥まで続いており、店内を二分する格好と なっている 座席が据え付けられていないので立ったままで注文するタイプのものだ 曇りガラスで遮光した窓側には丸テーブルが五つ、それぞれ二つの椅子が対面で備 えられており、複数の客が席を占めていた カウンターと席の間がそのまま通路だ 奥には『トイレ』と書かれた扉があった(……加山はまだ中にいるのだろうか?) 入り口に立ったままでは大神に見つかる可能性があるので、カウンターに沿ってそ のまま奥へと進む カウンターの内側では、カフェの女主人エヴァが忙しく立ち回っていた その動きには瞬間の遅滞もなく、くるくると踊るように注文をこなしていく できあがった注文品はカウンターにのせられ、順次、ボーイの手によって運ばれて いった その時になって花火は、はたと気がついた そういえば大神の注文品が何なのか全く確認していないではないか…… 「はい、エスプレッソ 外の日本人ね」 ボーイに向けられたであろうエヴァの声とともに陶器製のカップがカウンターの上 に置かれた はっとなって見回すと、エヴァは焼きプリンに焦げ目をつける為に背中を見せてお り、ボーイは新たな客の注文をとっている その他の客も、誰も花火を注視している者はなかった ■[第八話] 花火は今、人々の関心に空いたエアポケットの中にいた 大神が注文したエスプレッソは、ほんの数歩先の位置にある 体をずらし、客の視線を遮断した後に薬を垂らすことなど造作もなかった (どうしよう……どうしよう…… チャンスは今しかない) 未だ心の整理がついていない段階で突然訪れた千載一遇のチャンスに花火は惑う この機を逃せば、程なくしてカップはボーイの手によって大神のテーブルへ運ばれ てしまうであろうことは火を見るより明らかだ だが、頭ではわかっていても、瓶を持つ手が……手が……動かなかった (大神さんが惚れ薬を飲めば、大神さんとグリシーヌは恋仲になる 私は……私は、それを祝ってあげよう…… かつて、私とフィリップの仲をグリシーヌは祝福してくれたのだから……) かつてフィリップがまだ存命だった頃の思い出が走馬灯のように蘇る 両家から婚約を認められ、人生最良の日々に華やぐ二人 グリシーヌは、二人の仲の睦まじさをまるで我がことのように喜び、祝福してくれ た かけがいのない友情と思いやり そこには確かに、互いへの厚い信頼があった そして、今、グリシーヌが女としての幸せをつかもうとしている 今度は私がそれに協力しなければならないのだ しかし…… (でも……ダメ! やっぱり、私、できない!) 花火は自分の身勝手さに心で泣いた 「ごめんなさい……ごめんなさい……私、こんなで……ああ……」 花火は口の中で詫び言を述べる いっそ、惚れ薬を入れたふりを装って店を出られれば、こんな楽なことはないだろ う だが、それでは、グリシーヌの信頼に対して、これ以上ない裏切りを犯してしまう ことになる 義務と拒否、友情と慕情がせめぎあい、葛藤し、花火の胸を焼く 周りがどんどん暗く、狭くなっていった 「お嬢さん、大丈夫?」 はっと顔をあげると、目の前に女主人エヴァの丸顔があった 「…………」 「顔色が悪いけどお薬もってきてあげようか?」 エヴァは放心状態の花火にいたわりの笑顔をむけた 「いえ…… もう大丈夫ですから」 「あらそう じゃあ、ご注文は何にします?」 「え?」 「何か欲しいものがあるからカウンターにいるんでしょ?」 「そ、それじゃあ……」 花火の心に浮かんだ言葉は一つしかなかった 「エスプレッソを……」 「はーい じゃあ、特別にすぐ作ってあげるからね」 ■[第九話] そんな苦悩の色が濃い花火のもとに近づく影が一つあった 「花火 なーにをやっておるか……」 「ひっ……」 花火はか細い悲鳴を上げた 一瞬、心臓が本当に止まり、花火はその衝動で軽く咳き込む いつの間にかグリシーヌが真横に立っていたのだ 「今は自分の好きなメニューを注文している場合ではないぞ 我らには何よりも優先すべき作戦があることを忘れたか?」 「ご、ごめんなさい」 花火の謝罪を受け、グリシーヌはふっと息をつく 店内に入る→大神の注文品のある場所まで歩く→惚れ薬を入れる グリシーヌの脳内スケジュールでは、店内に入ってから惚れ薬を仕込むまで十秒と かからぬ作業であるはずだった それが予定より一分以上も超過し、遂にしびれを切らした彼女は、自ら出向いたの である グリシーヌは、合図がないまま漫然と待っていられる程気の長い女ではない 「まあよい…… 隊長がオーダーしたものはどれだ?」 花火は返事に躊躇したが嘘はつけなかった 「このエスプレッソよ……」 と斜め向こうにあるエスプレッソを指差した 「そうか、よし」 グリシーヌの語尾に力がこもった 「はい、お嬢さん エスプレッソね」 そうこうしてる内に、花火のエスプレッソが二人の前に置かれる 続けてボーイへの叱咤の声が飛んだ 「ほら、何をもたもたしているの? 外の日本人への注文品がまだ残ってるわよ」 件の大神のエスプレッソは初めの場所を動くことなく、ボーイに運ばれるのを今か 今かと待っていた だが、グリシーヌは何故か、全く関心がないかのようにそちらの方には見向きもし ない (惚れ薬を入れないのかしら? 早くしないと運ばれて行ってしまうというのに……) 先程までは惚れ薬を入れるか入れないかで懊悩していたばかりで心の矛盾を感じな がらも、花火は心配になった 一体、グリシーヌのこの余裕は何なのだろうか? 花火は、左隣でカウンターに両腕を組むようにして置いている親友を見守った 「花火 例のアレを渡せ……」 グリシーヌが囁いた 最初は弓矢のことかとも思ったが、話の流れからして惚れ薬のことだろうと推測し た 花火の手からグリシーヌの手へと惚れ薬の入った瓶が移動する グリシーヌはその栓を抜くと、何を思ったか花火のカップをとり、惚れ薬を一滴垂 らした ボンッと小さい爆発音と共に白いキノコ雲が立ち上る それもほんのわずかな時間で空中に溶け、すぐにエスプレッソは以前と変わらぬ黒 い水面をたたえていた やがて、盆を空にしたボーイがカウンターにやってきた グリシーヌと花火の背後を通り過ぎ、大神のエスプレッソを盆に載せる それでも、グリシーヌは微動だにせず、カップの湖面を見つめ続けていた 花火は固唾を飲んでグリシーヌの行動を注視した ボーイがグリシーヌの背後を通り過ぎようとした時である グリシーヌの右足がついと伸ばされ、ボーイの足をひっかけた 突然、足をとられたボーイはバランスを崩し、前につんのめった くるりと半回転したグリシーヌは、ボーイの手から離れた盆を素早く掠め取る 次の瞬間、大神のエスプレッソと花火のエスプレッソが入れ替わっていた 目にも止まらぬ早業で息を飲む暇もない 注意を集中していた花火にしてやっと目の端で追えたほどである 誰もがボーイの転倒に目を奪われていて、グリシーヌのすり替えに気づいた者など いなかった 「大丈夫か? 客の注文を運んでいるのだから充分気をつけよ」 グリシーヌは、床に四つん這いになっているボーイを見下ろしながら、傲然と言い 放った ボーイは、礼を述べながらグリシーヌから盆を受け取り、騒がせたことを周りの客 に丁寧に謝罪する そのカップからは、珈琲は全くこぼれていなかった そのあまりの鮮やかさに、目の前に大神のエスプレッソを置かれても、花火はグリ シーヌの顔から目を離すことができなかった 「ん、どうした 早く飲まぬか おまえが頼んだのであろう?」 ■[第十話] 惚れ薬の仕込みは成功した フィナーレは、大神がエスプレッソを飲んだ後、ヒロインのグリシーヌが満を持し て登場すれば幕となる 満座の観客から拍手喝采を浴び、主役の二人が口づけをかわす大団円を脳裏に描い たその時、入り口に向かおうとするグリシーヌの背後でドアが開いた 「う〜〜〜気持ち悪かった」 加山雄一、その人である ようやく吐き気がおさまり、トイレから出てきたのだ すかさず、グリシーヌは背中でドアに体当たりをかます どんがらがしゃーんとトイレの中で派手に転ぶ物音 この男は一度ならず二度までも邪魔をするのかと、グリシーヌは本気で怒っていた (そういえば、ここは……) グリシーヌは、このトイレが巴里華撃団地下本部へ直通する緊急用シューターであ ることを思い出し、ドアの横に巧妙に偽装されたボタンを押した それに呼応して、トイレの中からズゴゴーと水洗の轟音が流れる 再びドアを開けてみると、加山の姿は消えていた ■[第十一話] こんなことをしている場合ではない グリシーヌは韋駄天の速さで入り口まで駆け戻り、顔だけ出すようにして大神 の様子を確認した 遅れて花火もグリシーヌの下に顔を出す 「お待たせしました……」 「うん、ありがとう」 ようやく大神のもとへエスプレッソが到着した だが、大神がカップに手を伸ばそうとしたその時、 「大神さん!おはようございまーす!!」 背後からいきなり大声をかけられて、大神は目玉が飛び出そうなほど驚いた 赤い修道服を来た少女……エリカ・フォンティーヌが現れたのだ 「おはよう いい朝だね」 まだギンギンと木霊が響く耳をおさえながら、大神は振り向いて挨拶を返した 「はい〜〜 あれ?なんですかこれ」 エリカの視線がテーブルに置かれたエスプレッソに釘付けになる 「ああ、これは俺の……」 「……ひょっとして、私が来ることを予感して、先に注文しておいてくれたんです か? エリカ、大感激ぃ〜〜〜!!」 と言うが早いか、着席すると、カップをかっさらうようにして珈琲を飲み始めてし まった (あ、あ、あ、ああああああああああああああああ〜〜〜!!!!!) グリシーヌは声にならない声を発した 怒り、呆気、落胆、恨み、笑い あらゆる感情がないまぜになって、グリシーヌは自分の気持ちをどう扱っていいの か、わからなかった 「エスプレッソをもう一つ頼む」 大神はボーイに言った もはや、エリカに対しては、珈琲を先に飲まれてしまう程度では全然動じなくなっ ている大神であった 「あ〜〜美味しい〜〜」 「ハハハ、良かったね」 ふと、大神を見るエリカの目がきょとんと座った 「ど、どうかしたのかい?」 じ〜〜と自分を見つめるエリカの視線に戸惑う大神 エリカの不審な挙動を見て、グリシーヌは激しく狼狽した (まずい! このままではエリカが隊長に惚れてしまう!) 思ったが、どうすることもできない あのエリカが暴走すれば、このまま大神の部屋まで押し掛け、同棲まで突っ走りか ねない 「大神さん……」 「な、なんだい?」 「目の下にクマができていますよ どうしたんですか?」 「ああ……なんだ、そのことか 昨日はちょっと部屋が寒くてね よく寝られなかったんだ」 「ふ〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん 風邪には気をつけて下さいね……」 口が留守になっている間に、カップからこぼれた珈琲が修道服のスカート部分に湯 気を立ち上らせていた 「エリカ君……熱くないの?」 「へ? あ、熱っつ〜〜〜!!」 慌てたあまり、エリカは道衣を脱ぎ始めようとする 「エリカ君、それはまずいよ!」 「やだぁ! 大神さんのH!!」 「そ、そんな……(何もやっていないのに) エリカ君、ごめん!」 大神は、コップの水を珈琲のかかった部分にかけた 「ごめん、火傷はできるだけ早く冷やさないと症状がひどくなるから…… 濡れた服は修道所で着替えてきたほうがいい 帰ったら、火傷した箇所をよく冷やしておかないといけないよ」 「うう〜〜〜冷やっこいけど、ありがとうございます〜」 「風邪をひかないようにね」 「は、はい……はっくしょん!」 「大丈夫かい? さあ、俺のベストを羽織って…… 送っていくよ」 「えへへ……ありがとうございます なんだか得しちゃったかも……」 そんな二人のやり取りをグリシーヌと花火は注意深く観察していた 「……?」 「……?」 何も変化がないではないか ある意味、いつも通りのエリカであった ■[最終話] (効果がなかったのか……?) グリシーヌは目の前に瓶をかざした 秋の太陽を受け、瓶に刻まれた幾何学的な模様が、キラキラと複雑な輝きを見せる ここはカフェから東に少し歩いた所、水辺の橋の上 眼下にはセーヌ川に流れ込む支流が悠然と流れていた グリシーヌは、瓶の蓋を開けると、そのまま中身を全て川に捨ててしまった 残った瓶は、偶然そばを通りがかった少女にあげた 「いいの? グリシーヌ」 「ああ…… 考えてみれば、あのような薬に頼るなど私らしくもない 好いた男なら、我が魅力で惚れさせるまでよ それに、隊長が真に私の婿に相応しいかも改めて見極めておこうと思うしな…… 焦らずとも時間はたっぷりとあるのだ」 「そうね それがいいわよ…… 邸に戻って、私たちも朝食をとりましょう」 「うむ」 木の葉の舞う並木道を、二人は仲良く並んで帰っていった その後、セーヌ川で大量の魚が、相手の見境なく求愛行動を示していた事件に気づ くことなく…… (今回は残念な結果に終わったが、花火には、また次の機会に協力してもらうとし よう まだ、色々と作戦を考えてあるしな…… そうだ! 今の内、父上と母上に、隊長のことを将来の婿最有力候補として紹介し、了解を とっておかねばなるまい…… 善は急げだ 早速、今日にでも手紙を書いて送ろう) 隣を歩く友人にそのような思惑が有るとは知らず、今は心の中でほっと安堵のため 息をつく花火 彼女の気苦労は絶えない -------------------------------------------------------------------------- ★この作品の感想を下さい → 感想送信フォーム(簡単&匿名)