僕は「人工知能」をこう考える

HomeNext

第一章 SF作家と人工知能研究者の大きなギャップ

アメリカのハリウッド映画や日本のアニメ界において、人工知能(Artificial Intelligence、AI)はたびたび登場しては観客を楽しませてくれる人気者である。彼らは時に優しい心を持って人と心を通わし、また時には人類を滅亡へ導く脅威と化し、歩きまわり、言葉を話し、チェスを指し、感情を理解し、高速で計算をし、ネットワークと結合し、進化し、暴走し、自己増殖し、そしてときどきバッテリー切れで停止してしまう。彼らは間違いなく創造の産物であるが、私たちは誰でも彼らに対して非常に親しみを感じている。そして、多くの人が多かれ少なかれ、近い将来そういった人工知能が実際に実現するものだという淡い期待を抱いているのではないだろうか?

そもそも人工知能は、それに近い概念は以前から存在していたが、Artificial Intelligenceという現在の呼び名が最初に用いられたのは1956年のダートマス会議においてである。当時は、第二次世界大戦の副産物である"computer"の可能性に魅入られた科学者たちが、コンピュータを用いて人間の脳が行っているような高度な情報処理を行わせることができるはずだと意気込んでいた。彼らはコンピュータを人間の脳システムに見立て、人間の知的な行動をコンピュータのプログラムで実行させようとしていた。最初それは、ボードゲームを指すプログラムであったり、方程式の解を導くものであったり、数学の公理系から定理を証明するシステムであったりした。やがてこの「人間の知的な行動」の解釈は広がり、自然言語を理解し、大量のデータから法則を発見し、通常のプログラムでは地球の滅亡までかかっても計算しきれない問題を計算し、患者の症状から病気を言い当て、チェスの世界チャンピオンを倒すようになった。

その一方で、人工知能は映画やアニメの世界で、現実の研究よりも遥かに早いスピードで進化を遂げていった。彼らは、自在に手足を操り、自然言語を意図も簡単に理解し、ときには感情さえ芽生えさせ、あっさり人間のもつレベルの知能を獲得してしまった。完成された創造の世界の人工知能は、現実が追いつくのを今か今かと待ち焦がれているのである。

このことは、科学者が意味する人工知能と、私たち一般人が思い描く人工知能像との乖離を招いた。科学者らの意味する人工知能とは、Artificial Intelligenceの直訳での意味、すなわち「人工的な賢さ」の実現である。研究対象が主観的に“賢い”振る舞いを示せば、それは人工知能の研究として成立する。積み木問題や巡回セールスマン問題を解くプログラムは、こういう観点では正統なる人工知能の研究対象である。一方で、SF作家の暗示を幾度となくかけられてきた私たちにとって、こういった研究はどこがどう人工知能と関係しているのか、一見しただけでは理解に苦しむかもしれない。ややもすれば、科学者らは“自衛のため”人工知能という言葉の定義を自ら都合よく狭めてしまっているとさえ感じられる。しかし、いくらそういってみたところで、大学や研究機関で、限りなく人に近い身体と心を持ったロボットが今にも目を覚ましそうだという考えは、実際のところ極めて現実離れしているのである。

ここで、みなさんはどう考えるだろうか?悲観的に現実を受け入れるのだろうか?―――私たちは、単にSFの世界に踊らされていただけだ。現実にはそんなことできるはずがない。そもそも人工知能を直訳してみれば、賢さを意味するものの、心だとか身体性だとかいう内容は必要としていないじゃないか?そうだ、こう考えよう。コンピュータを用いて、人間が知的と思うような振る舞いを実行させる研究は、現に多くの実用的価値を生み出してきた。私たちは多かれ少なかれ、その利益を享受しているはずだ。彼らのアプローチは意味あるものだ。変な期待をするのはもうやめよう―――と。

だが悲観的になるのは少し待って頂きたい。科学者らも私たち同様、SFの世界観にどっぷりつかった人間なのだ。彼らも心の奥では、そのような高度な人工知能を思い描いている可能性がある。両者の認識が一見食い違っているように感じられる現状は次のように説明することができる。

人工知能という言葉がこの世に登場したのは先にも述べたとおり1956年のダートマス会議であるが、その後わずか50年足らずの間に、実に数多くのアプローチが提案されてきた。新たな方法論が提出されるたび、多くの研究者が群がってそれを試み、修正し、拡張し、あるいは別の方法論と融合し、何ができて何ができないのかを明確にしてきた。そうこうするうちに、SFレベルの人工知能こそなかなか実現しないものの、副産物として多くの技術・知見が得られてきた。やがてはその「副産物」のみを対象にした研究者がさらに大きな輪を形成し始め、ついには傍から見た人には「彼らは一体何がしたいんだ!人工知能とは関係ないじゃないか!」と思えてしまう状態となったのではないか。

つまり、人工知能という大木の主幹では、我々人類は確実に人の能力を内包する人工物へと近づきつつある。しかし、実用面を重視した応用研究である枝や葉が幹を隠すように覆い茂っているため、人工知能が「賢そうにみえれば何でもあれ」の状況を作ってきたのだと考えられる。

研究の一番核心の部分においては、純粋に人の知性を探求したいという情動に突き動かされている人々が存在すると僕は確信している。おそらく彼らはなかなか望む結果を出せないでいるが、決して副産物の有用性に目を奪われず、よりよいアプローチを日々求め続けているのではないだろうか。なぜなら、どんな有用な副産物であっても、真の完成された人工知能の有用性にかなわないばかりか、おそらくその人工知能は副産物の解いた問題すらより上手に解決できることが期待されるからである。そして何より、脳システムの情報処理のメカニズムを解明し、それをコンピュータ上に実装するというのは、21世紀の人類が抱える最大の科学テーマの一つである。

当サイトは、SF作家が描く人工知能像を頭ごなしに否定したりない。むしろ、究極の人工知能としての解を提供してくれる貴重な資源として捉えている。一方で、「人間の行う賢そうな振る舞い」の実現は、やはり人間そのものを志向しない限りは意味のないことだ、という立場をとっている。次章では、この考えが現実に実現可能かどうかを議論していく。


Home Next