戻ル

・価値観は人それぞれで微妙ではあるが異なっている。
 その事を否定する気はない。
 が、しかし主観のみで物事を判断するのはどうなのかと思う。

・確かに誰しもが初めてやる事には不安を感じる。
 その事を否定する気はない。
 が、それを理由にして物事を始めようとしないのはどうなのかと思う。

・人は自分に興味の持てない事には注意を払おうとはしない。
 その事を否定する気はない。
 が、立場ある人間が1つの視点のみで事象を認識してしまうのはどうなのかと思う。

・沈黙は金と言うが、それが通用しないこともある。
 あまりに無理なスケジュールと作業量で押しつけられた仕事のせいで体を壊した。
 劣悪な環境下で数年の間、就業を強いられため失明の危険にさらされた。
 その不平等な作業量に精神的な負担を感じ、精神を病んでいる。それは今も続いている。
 しかし、それを口にしないため、それに対する反応はどこからもない。
 たぶん、病欠を偽って有給休暇を消化しているだけと思われているだろう。
 私がその立場でもそう思わざるを得ないだろう。何百人いるともわからない人間の
 それぞれの日々の変化を気にかけ続けるほどの酔狂を持った人はいない。
 それのみが仕事でない限りは。
 だが、口にしたら何らかのケアはされたのだろうか?
 それはあまりにも格好が悪いので、大多数の人間が行っていないだけではないのか?
 世の中は言った者勝ちなんだろうか?
 雇用機会均等とは何が均等なんだろうか?
 権利を主張することと義務を果たすことの釣り合いは本当に取れているのだろうか?

・30世紀になったが、未だに人と人は理解しあえていない。
 それは同じ人間ではあるが、各個が同じ物ではないからだ。
 同じではない以上、価値観を一致させることはできない。
 また、同じではない以上、能力差が生じることは避けられない。
 しかし、能力差は努力をすることでいくらでも埋めることは可能だ。
 それは、同じ人間であるからだ。
 それでも、まったく同じ能力を各個に期待する事はできない。
 それゆえに、団体では各個の不足している部分を、他の秀でた部分で埋める事になる。
 これは間違ったことではない。
 人間は楽な方に進む習性がある。
 動物としての本能が、自身をストレスから解放させるためだ。
 自分の不足している部分を穴埋めしてもらった時、人はストレスを感じなくなる。
 だからと言って、努力をせずにいることは人間としてどうなのだろうか?
 この一致しえない人間の中には、生を受けてからかような自問自答を続けている者もいる。
 一致しえない人間の中には、一切考えずにいる者もいる。
 そのような人間には、そのことを指摘されることがストレスとなる。
 価値観が違う以上、そのストレスを他人が理解することはできない。

  言った者勝ちだったのか?

 個人の情報の提示が理解できない人には、ウェブ上で公開される情報の意味がわからない。
 しかし、出版物としてのそれは理解できる。それは古くから様式化された表現手段で
 あるからである。
 自分の理解できないものを完全否定することは、正しい行動なのだろうか?

 物事の審判を下すためには、可能な限り多様な視点から審判対象を審議する必要がある。
 しかし、ある1点からの審議のみで審判が行われることもある。