往年の銘機たち

 はじめて「マイコン」を見たのはいつだったろう?中学時代の友人宅に遊びに行ったとき(このときお互い高校生だったと思うが)、NECのPC-8001無印(今考えるとそれだと思っているのだが)を見せてもらったのが最初だと思う。カセットテープからプログラムをビービーガーガー読み込み、なんかBASICのゲームで遊んだ記憶がある。

 そいつの家は金持ちで、中学1年の頃も当時発売されたばかりの家庭用VCRがあった。たしかSONY製で40万円以上したはずだ。そのころはVHSなんてのはなくて、でっかいカセットが60分用で一本\10,000、30分用は半額かというとそうではなく\9,500もしていた。おまけにモノクロビデオカメラ(カラーは数十万していた)もあり、友人たちとお遊びでビデオ映画なんかを撮ったり、人形を動かしながらコマ撮り撮影でアニメーションを作っていた。


FM-7(FUJITSU)

 その数年後、「勉強に使えるから」と親にせびって買ってもらったのがFUJITSU Micro-7、通称FM-7である。専用のディスプレイ(デジタル8色、ほかにグリーンディスプレイなんてのもあった)もあったが、当時はテレビにつないで(RFだぜ!)40×25のキャラクタ、640×200のグラフィックで満足していた。FM-7自体は80×25までサポートしていたが、そうすると文字がつぶれて読めなくなってしまうのだ。
 フロッピーディスクドライブもあったようだが、そのころの主流はデータレコーダというオーディオ・カセットにデジタル記録する装置を用いて、いまのFAXのような音を響かせながら入出力をしていた。64KBのデータを読み込むのに10分以上かかっていたと思う。 当然、供給されるソフトもほとんどがカセットで、一応ソフトウェア・プロテクトがかけられていたりするが、せいぜいBASICのリスト表示ができなかったりするくらいだし、なんといってもアナログ・バックアップが取れちゃったりした。

 金のない学生には、今より安かったとはいえ、数千円もするソフトなんかおいそれと買えるものではない。当時はコンピュータを持っている友人なんかまずいなかったし、情報源は雑誌と、「パソコン・サンデー」というTV番組だけだった。今は無きOh!FMや今もあるASCIに載っていたBASICプログラムを打ち込んでは実行して楽しんでいた。パソコン・サンデーでは副音声でプログラムが供給されていて、それをアナログでカセットに録音し、FM-7に入力もできた。今考えると画期的なことだと思う。ただし、録音レベルなどデータの取り扱いが非常にデリケートだったけど。

 そのうち、パソコンでもワードプロセッサが使えるようになってきた。ただ、FM-7でそれをするには「漢字ROM」(\35,000くらいかな?)というものが必要だった。また、当然プリンタも。また、ワープロといっても、ちょっと漢字が打てるくらいのもので、変換は単漢字変換で、しかも音読みしか受け付けなかったりした。プリンタはブラザーの一番安いインパクト・ドット・プリンタを5万円くらいで買ったように思う。プリンタには当然漢字フォントなんて搭載されていないから、FM-7に装着した漢字ROMのデータをグラフィックとして打ち出すのだ。半ドットずらしで16ドット・フォントが印刷されたときには、うれしくて隣に住む爺ちゃんにも見せに行った。
 当時使っていたワープロソフトは「文太」というやつで、ツクモで買った。\10,000くらいだったとおもう。

 実際に勉強に使ったかというと、生化学の試験の前に一度だけ、構造式を覚えるためにBASICプログラムを自作して「役にたった」のは覚えている。
 ゲームは、電波新聞社の「マイコンBASICマガジン」(だっけ?)の別冊で、PACMANのダンプリストが載っていたのを買ってきて、一週間かかって打ち込んだ。ダンプリストを打ち込むなんて、今の若いユーザは知らないだろな。すんごくつらいもんだよ。で、結局動かなくて、電波新聞社に電話かけて何バイトか修正したらやっと動いた。


PC-8801FR(NEC)

 これは、爺ちゃんに買ってもらった。FM-7のとき、16ドットの漢字出力を見せたのが悪かったのか、死ぬまでコンピュータのことを「ワープロ」と言っていた。88FRにエプソンのVP-80K(\148,000だったかな?これに漢字ROMと変なROMカセットのようなものを追加した)、PC-KD852(という型番だったと思うが)もつけて、要するに当時のフルセットに近い状態だった。ソフトも一緒に買ってもらったが、CP/M-80とかTurbo PASCALとか、結局ほとんど使わずじまいだった。

 このころは、パソコン・ソフトのレンタル屋というのがあって、結局違法なんだろうけどずいぶんお世話になった。雑誌の「The BASIC」なんて、バックアップコピーの記事がすごく多かった。「ハッカー覆面座談会」なんてのが時々特集されて、BABY MAKERとかWizardとかRats & Starとか、コピーツールの名前が飛び交っていた。プロテクトの知識はこれで得たようなもんだ。

 PC-8801FRは拡張スロットが2つだけで、増設RAMボードとかもろもろ使おうと思うとスロット不足になるため、友達のPC-8801SRと交換した。ほとんど仕様は変わらなかったので、定価はSRの方が高く、またFRの方が新しかったがお互い不利益はなかったと信じている。

 このころは毎日ゲーム三昧で、特に日本ファルコムのゲームはよかった。初代のドラゴンスレイヤーは好きになれなかったが、XANADUやそのシナリオ2、イース、ソーサリアンはよくやった。ゲームそのものもよくできていたのだが、FM音源+SSGを駆使したゲーム・ミュージックに強く惹かれた。後でトラブってやめたようだが、古代祐三氏のサウンドはいまでもすばらしいと思う。そういえば、雑誌ポプコムのライターでジャック・ダニエル加藤というのがいて、XANADUとかの記事を書いていたと思ったが、今はなにやってんだろう?
 ほかにはまっていたのは、ASCIIの「キャッスル」、「キャッスル・エクセレント」だ。最近はMSXエミュレータなんかでまたやってみたりするのだが、やはり640×200ドットでやりたい。Windows用にリメイクされたら(されるわけないけど)即買うんだが。

 あと、ワープロも結構使った。試験対策を作成したり、母親からプリントの作成・印刷を依頼されたり。フロッピーベースになってやっと文節変換に対応した。高級なワープロソフトもあったが、その当時使っていたのは東海クリエイトの「ユーカラK2」だ。増設メモリに対応しており、安い割にサポートもよかったように記憶している。VP-80Kで24ドットの明朝体が出力でき、半角や1/4画の漢字も出せたと思った。外字を作ってXANADUのマップを作ろうとしたが、あまりにも大変なんで1面だけで終わった。


FM-77AV(FUJITSU)

 これが発売されたとき、Oh!FMの記事は急にカラフルになった。320×200ドットという制限はあったが、4096色出せるパソコンは他になかった。いまでこそたった4096色だが、8801シリーズだって最後まで512色中の16色(8色だっけ)しか使えなかったのだ。 しかもワイアレス・キーボードで、キー・スキャンもやっとまともになって、トリガーにFIRQなんて使う必要が無くなったのだ。もちろん、4096色を個人でフル活用するのは結構大変で、ビデオ・ディジタイザなんてのも出てたが、高価な代物だった。一番はじめのパソコンがFM-7でなかったら、きっと買わなかったと思うが、発売されてしばらくたってからついに買った。

 このとき買ったそうご電器YESのにいちゃんと友達になり、今も家族ぐるみでつきあいがある。だから買ったことに後悔はないが、その1ヶ月ほど後、FM-77AV40/20が発売され、ショックを受けた。AV40は640×400ドットの高精細モードがあり、320×200ならなんと26万色の表示が可能だったのだから。AV20だってAVとかわらない仕様で安くなってたし。
 キー・スキャンがまともになって、PC-88用の有名どころのアクションゲームなんかが移植され、グラフィックも美麗になった。結局同じゲームなのだが、やっぱり買ってしまった自分があわれだった。

 FMシリーズにはOS-9があった。モトローラの6809のために作られたBASIC09のプラットフォームとして開発された、マルチタスク・マルチユーザのUNIXライクなOSである。シェル・スクリプトでサブシステムに時計表示のプログラムを転送して、実行させたりくらいはなんとかできた。大学のマイコン研究会に入ったのもこの頃だ。


X68000 ACE-HD(SHARP)

 シャープがパソコンユーザに夢を見せてくれた「パーソナル・ワークステーション」X68000の2代目、マンハッタン・シェイプのおしゃれなパソコンである。
 楽しかった。とにかく、X68000の前に座っているだけで楽しかった。何でもできるような気がした。アセンブラに手を出したのもこのころだ。自分でプロテクトをはずしていたのもこのころだ。MIDIに手を出したのもこのころだ。イメージ・スキャナを買ったのも、MOドライブをかったのも、レーザ・プリンタを買ったのもこのころだ。ものすごく金をかけたが、とっても良い夢を見せてもらった。「まだ現役だ」というひともいるが、X68000がWindows上でエミュレートされてしまう時代だ。
 満開製作所の「電脳倶楽部」を毎月楽しみにし、Oh!Xを毎月むさぼるように読んだ。Thunder Force IIやスペース・ハリアー、アフター・バーナーを改造した。TeX/LaTexにも手を染めた。 現在このマシンは実家に置いてあるが、そのうち職場の自室に持ち込んで、当直の時には数多く集めたゲームをやろうと思ってる。


PC-386 noteA(EPSON)

 EPSONのモノクロ・ノートである。i386SXの16MHzで、メモリ・カードのスロットもついていた。今のPCカードとは全く互換性はなく、専用のものだったと思う。これははじめて職場に持ち込んだパソコンである。仕事で使う文書をLaTeXでコーディングして、自宅でX68Kにシリアル転送して、X68KのTeXでプリントアウトしていた。というのも、PC-98用のTeXを持っていなかったからだが、その後ASCIIからディスクつき書籍の形で発売された。それを使うために、2MBのRAMと120MBのHDDを増設した。ツクモで買ったのだが、HDDはnoteAで使えるかどうか店員に確認して買ったのに、サイズが合わなく、HDDケースを一部はがし、本体のふたを削って押し込んだ。しばらく調子よかったのに、そのうちHDDにアクセスに行くと数秒間止まってしまうという現象が出始め、まったく使いものにならなくなった。
 さらに、バッテリーもいかれてしまい、現在は部屋の片隅に置かれている。


X68030(SHARP)

 X68000ユーザはずっと、フル32bitバージョンの出現を待っていた。やっと発表されたX68030を私も買ったのだが、時代はWindowsになりつつあった。X68030になり、確かに処理速度は上がったが、一部修正をしないと動作しないソフトがかなりあり、難儀した。
 速度が上がった以外、基本スペックには変更が無く、その割には高価であった(シャープのこだわりも一因)のも68K衰退に拍車をかけたようだ。むしろ、クロックアップバージョンの16bit、RED ZONEの方が魅力的にさえ見えた。
 こいつはまだ、自宅のパソコンラックにのっているが、電源が入るのは一年に一度あるかないかだ。普通の用途にはこれで十分なんだけどなぁ。


PC-486SE(EPSON)

 苫小牧に一年三ヶ月出張に行ったとき、医局の隣の席にいた外科の先生と、放射線技師の小野君が486DX66MHzでWindows3.1を動かしていた。Windowsは3.0にさわったことがあったが、あまりに使いにくいので「だめだ」と思っていたのだが、正直言って感動した。
 17インチのディスプレーにも感動したし、小野君のエッチなAVにも感動した。だが、苫小牧に行く直前にX68030を買っていた私には、当時の最先端である486DX2は手が出なかったのだ。また、CPUに関する知識も浅かった私が、「Windowsが動く一番安いパソコン」で、「98または互換機」という条件で買い求めたのが、PC-486SEだったのである。ディスプレーはX68030用の3モード・マルチスキャンをそのまま使ったが、メルコのビデオカードを使って800×500の変則モードで我慢していた。RAMも16MB増設して17.6MBとし、それなりに楽しんだ。だが、Windowsとそのアプリケーションはどんどん重く進化する。
 札幌に戻ってから500MBの外付けSCSI-HDD(今は裸にされて職場のDOS/Vに内蔵されている)と17インチのホントのマルチ・スキャン・ディスプレイを導入したが、だんだん仕様に満足できなくなった。「はじめからDOS/Vにしておけば、少しずつアップグレードできたのに」と思った。


P5-120(GATEWAY2000)

 Pentium 120MHzが最高速の頃、そしてPCIコントローラにTritonが使われるようになり、EDO-DRAMとPB-SRAMがもてはやされはじめた頃、DOS/Vパラダイスに初めて足を運び、ついに手に入れた初めてのDOS/Vパソコン、GATEWAY2000のP5-120である。はじめからPowerWindows868が載っていたが、カタログでは864だったので契約時には#9のMOTION771を追加した。速かった。びっくりした。エッチなCD-ROMのAVIファイルが美しく再生された。
 なんといっても、GATEWAYの筐体が好きだった。だから、いまでもケースはそのまま使っている。うしろのネジを6本はずさないと内部にはアクセスできないが、あの威張ったようなデザインは大好きである。増設に増設を重ねられ、ついには心臓移植までされて、今やほんとにケースと1GBのHDDしか残されていないが、見た目はP5-120である。妻はずっとそう信じている。


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