| 俺的宗教概念。 |
| このサイトに似合わず、ちょっと真面目なお話をば。これは完全に独りよがりなテキストです(^^;) 僅か16年しか生きてない、ごく普通の馬鹿ガキが考えてる事です。あまり鋭い突っ込みは勘弁。 自分は宗教というモノを”人生の道標”と捉えている。人が、生きていく上での、道標。 人の本能は、未知の領域に踏み込む事を恐れる。 踏み込む際には、必ず何かしら頼りにするものがある。 それは経験であったり、目的を達成する事への欲求であったりする。 それらが恐怖を上回った時にだけ、人は未知の領域へ踏み込む事が出来る。 人生というものは未知の領域だ。そこを歩く時、人は道標を必要とする。道標を得る事で、未知の領域はある程度未知では無くなる。 人生で初めて知る事ができる道標は親だ。もしくは周りに生きている人間。それらの人間の生き方に習って子は生きる。 そしてその道標たる親の生き方にもまた、道標は存在する。 道標が無い状態では自我というものは形成されない。自我というものは、他人がいて初めて成立し得るモノだからだ。 もちろん、ここで言っているのは「人間としての自我」という事である。 獣に自我なんてモノが存在するかは知らないが、人間として生きていく上で他人というのは必要不可欠だ。 人間は常に見られる事を意識する生き物であるから。 これら目に見える道標が、通るべき道を示してくれている内は人間は迷う事なく進んでいけるであろう。 しかし、誰も、例え親でも子に道を示してやる事の出来ない領域がある。 「死」。人間は死んだらどうなるかを知ることは出来ない。 人間は、「死」を恐れるように進化してきた。また「孤独」を恐れるようにも進化してきた。 本能的に、人間は「死」を絶対的な「孤独」と捉える。 科学的には、死んだ時点でその人の自我そのものが失われるのだから、孤独を感じる事はない。 だが、そういった事を頭で理解していても、本能的な感情には逆らう事は出来ないのである。 そういった恐怖を払拭するにはどうすればいいのか。答は簡単だ。道標を見つければいいのである。 そこで出てくるのが「死後の世界」、さらに仏・神の類である。人はそういったモノに道標(救い)を求める。 そう、宗教というモノは根本的には、死の際の孤独に耐え切れない人間が作り出した幻想に過ぎないのである。 やがて、死の際のみに必要とされていたであろう宗教と呼ばれる幻想は、その影響力の高さ故に、生きていく上でも必要とされるようになってきた。 それは一方では人間の精神(自我)をより発達させ、また一方では繊細かつ脆いものにしていった。 しかし、死そのものとは決別する事は無く、むしろ死を中心に人生というものを考えさせるような方向へと動いていく。 やがて人々は、生きていく先に「死」があるのではなく、「死」の為に生きていく、というようになっていった。 これは今、世界の三大宗教と言われているキリスト教・仏教・イスラム教だけでなく、 地球上に存在するであろう全ての宗教に共通して言える事であると思う。 では、なぜ根本的に同じである筈の宗教間で戦争・闘争が起こるのか。 簡単だ。みんな自分の人生を否定されたくないだけだ。 生まれてからずっと信じてきた道標が、間違っているなどと言われたくないだけだ。 実際、宗教自体人間の心の脆さが作り出した幻想であるから、死という目的地に到着するまで少し道順が違うだけに過ぎないのだが。 ここで出てくるのが、人間の醜い本能である。 ナワバリ意識に基づくであろう、自分の居場所を確保するために虚勢を張るという本能。 この虚勢は、自分と他人との道の違いを優劣に置き換えて、他人を蔑むという行為に及ぶ。 相手が反撃すると、自分の(心的な)ナワバリが侵されたと感じ、時には力でやり返す。この繰り返しだ。 この「力」は、初めは己の拳や脚だったのが、規模拡大と共にいつしかミサイルや銃になった。そして今に至るのである。 今の宗教戦争を無くすには、人間がもっと精神的に進化するしかないように思う。 しかし、それは容易な事ではないだろう。やはり、人間は滅びる運命にあるのか。 この滅びへの恐怖が、個人の死への恐怖を上回る事になれば、活路は開ける気がするのだが。 |
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2002/4/30 執筆