我思う 故に....

ここは私がふと思いついたことを、徒然なるままに書き記したところです


2001年10月10日

「帰属意識の暴走」

アメリカによるタリバンへの攻撃が始まった。
この件に関する報道を見ていて気づくことがある。
テロが発生したときの戦いの図式は
「テロリスト vs アメリカ国家」
テロに対するアメリカ国民の意識は
「テロリスト vs アメリカ国民」
タリバンがテロに関わっているとわかってからは
「タリバン vs アメリカ国家」
イスラム教徒の感情は
「イスラム教徒 vs アメリカ国家」
そして
「イスラム教徒 vs 非イスラム教徒」
段階が進むにつれ当事者の範囲が広がっていっている。

一方、アメリカではそこら中で星条旗が掲げられているという。
「愛国心」といえば聞こえはいいのだろう。
だが日本人にはかなり異様な状況に映る。
世界大戦時の「御国のために」というのが連想されるためかもしれ得ないが、感覚的に受け入れられない。

アメリカは移民の国であり、人種では統一した連帯感を生むことは出来ない。
そのため共通の敵が現れたときにこそ連帯しようとするのだろうか。


2000年12月01日

「20世紀も残り1ヶ月」

今年も残り1ヶ月となりました。
さらに20世紀も残り1ヶ月です。
しかし、20世紀の最後はあまり盛り上がってないですね。
やはり去年のミレニアムで2000年問題な盛り上がりをやってしまうと、世紀の変わり目なんてどうってことないのかもしれません。
まぁ、100年に一度の境目はほとんどの人が経験できても、1000年に一度の境目は滅多に経験できないものですから、比べるまでもないのかもしれませんが。


2000年09月21日

「ループ」

単行本化されたので、今更ながらに「ループ」を読みました。
最初出たときには、「リング」「らせん」の世界が仮想現実だった、という点だけ聞いていたので、あまり読みたいと思いませんでした。
要は、漫画でタブーとされている「夢オチ」みたいなものでしょ。
物語としては、一番やっちゃいけないことでしょう。

でも、やっと単行本化されたんで、3部作の最後を読まないのもすっきりしないと思い、読むことにしました。
読み終わった感想としては、「らせんでやめときゃ良かったのに」です。
読んでる途中も先が気になって仕方ないといったこともなく、なんかだらだらとしている感じしか受けませんでした。
「リング」「らせん」がホラーだったのに比べて、「ループ」はホラーではないですから。
ジャンルとしては何になるんでしょう?単に馨の行動を記録しただけの小説だった気がします。

「仮想現実」という「夢オチ」にも興ざめでしたが、他にも色々と気になるところがありましたね。
高山の死の直前の行動は完全に「リング」とは違うものになっていましたし、馨と高山の性格が違いすぎて同一人物とは思えないし、高山復活後の安藤との会話の場面も明らかに雰囲気が違ってますし。
3部作の割に、前作と矛盾した部分が多すぎるのが気になりました。
馨と高山の性格の違いについては、遺伝情報が同じだけで、育った環境などが違うため、と言われればそうですし、高山の行動の違いも、ガン化する結末に向かうパターンのものとガン化を食い止めたパターンのものの違いだ、といわれれば納得せざるを得ませんが。

そもそも、リングウイルスがループの世界にどうやって持ち込まれたかはっきりしてませんし、それが外(現実)から持ち込まれたコンピュータウイルスであるならばいくらでも対処の方法はあったと思います。
わざわざ、高山を復活させるために色々と外から干渉して小細工をするくらいなら、もっと直接的にワクチンを発生させてもいいのではないかと思ってしまいます。ウイルスが突如として超常現象的に発生したものであるなら、ワクチンが超常現象的に発生しても構わないでしょう。
所詮「仮想現実」なんだし。

映画化・TVドラマ化されたのが「らせん」までだったことや、単行本化されるのが遅れたことを考えると、世間的に見てもあまり評価が高い小説ではないのかと思います。
やっぱり、「らせんでやめときゃ良かったのに」。


2000年03月06日

「コンピュータは狂ったか?」

3月に入り、閏日に関する2000年問題も一通り終わりました。
問題はいくつか出たようですが、予想されたほどの大きな混乱は起きなかったようです。
まぁ、年越しの時にそれほど問題が起こらなかったので、閏日の方はマスコミもほとんど騒がなかったみたいですね。郵便局のATMはかなり話題になりましたが。

さて、2000年問題に関してよく「コンピュータが狂う」という表現を使います。
しかし、コンピュータ自身は狂っているわけではなく、あくまでも人間から見ると狂っているかのように見えるというだけです。
コンピュータは指示されたとおりに仕事をこなすだけであり、2000年を1900年と誤って認識してしまうのもそういう風にプログラミングされていてそれにしたがって動いているだけのことなのです。

本当にコンピュータが狂うようになるのは、人工知能が格段に発達して、自分の意志を持つようになったときなのでしょうか。


1999年12月21日

「ミレニアム・カウントダウン」

2000年まであと10日となりました。
今年はただの年の暮れというわけではなく、ミレニアムイベントや2000年問題などでいつもとは若干違っているように思えます。

とはいっても、不景気の影響かミレニアムのイベントもあまり盛り上がっていないようですが。
まぁ西洋ほど西暦にこだわっているわけではないし、和暦でいったら単なる平成12年ですから日本人にとってはあまり興味がわかないのかもしれません。

ミレニアムイベントは単なる一過性のお祭り騒ぎなので、関係ない人には全く関係ないかもしれません。
しかし、もう一つの2000年問題はほとんどすべての人に関係してくるでしょう。

2000年問題もマスコミが騒いでいる割には一般人の意識としてはそれほど関心がないようです。
アメリカなどでは大量に食料を買い込みシェルターで2000年を迎えるという人がいるようですが、日本ではせいぜい「預金通帳に記帳しておこう」だとか「飛行機に乗らないようにしよう」だとかそれほど危機感は持っていないようです。
何が起こるかわからないから心配してもしょうがない、とか、よくわからないからいいや、とか、どうせ国や企業が何とかしてくれるだろう、とか、そんな感覚なんでしょうか?

2000年になるとコンピュータが狂うとはいっても、日付(年月日)の考え方を使用してないものは全く関係ないわけです。
電卓が2000年になったら使えなくなるわけではないのと同様に、年月日の関わらないシステムは大丈夫なはずなんですが、問題はそれほど単純ではありません。

たとえば水道のシステムは年月日の考え方を使用していないので大丈夫、という報告があります。
たしかに水道のシステム単体では大丈夫かもしれないが、システムを動かすためには電力が必要であり、これは電力会社が関係してくる。
すなわち電力会社で2000年問題が発生して電力の供給がストップしてしまえば水道も危なくなってくる。
また水を供給するためには、水道管が必要だが、これが他の原因によって破裂などして供給が行われなくなることがないとは言えない。

結局こういうシステム間の関連にまで考えを巡らすと何が起こるかわからないとなってしまうわけです。
したがって最低限の生活ができる程度の準備はしておいた方がいいのかもしれません。
とはいっても地震などの災害に対する備えとそれほど変わるわけではないでしょうから、これを機に我が家の防災対策を見直すのもいいかもしれないですね。


1999年11月16日

「死とは」

死とはなんなのだろう。
「大辞林 第二版」によれば、

生物の生命活動が終止すること
とある。
では、生命とはなんなのだろう。
生命
生物を、無生物ではなく生物として存在させる本源。生命を物質の一形態として発生的にとらえる機械論的考え方と、これを実体として見る生気論的考え方とが伝統的に対立する。いのち。
などと、よくわからない説明になってしまう。
ようするに、現代科学では生命というものを明確に定義できてはいないらしい。

一般的にいえば、呼吸が止まり、心臓が止まり、血液の流れが止まり、全く動かない状態になってしまうことを「死」と認識している。
しかし、最近では「脳死」という言葉が使われるようになり、「脳死は人の死であるか?」という議論も行われている。
さきの一般的な定義でいえば、「脳死」状態であっても、呼吸器などの生命維持装置を付けている限りは、呼吸は停止しておらず心臓も動いているのだから、「死」んではいないということができる。
だが、その状態で「生」きていると言い切ることができるのか?単に「生かされている」だけではないのか?
そういった疑問も生まれてくる。

結局、「死」というものは、みんな何となく感覚的にわかっているようであっても、見方を変えれば簡単に揺らいでしまう曖昧なものなのだろう。
だからこそ、他人が見れば明らかに死体であってもそれが生きていると思っている人間にとっては解剖することは殺人であるのだろう。
脳死した人間から臓器を取り出すことを反対する人間がいるように。


1999年09月16日

「映画における特撮技術」

最近映画を2本見てきました。
「スターウォーズ・エピソード1」と「マトリックス」です。
「スターウォーズ・エピソード1」のほうは今更という感じですが、やっと見ました。
この映画には賛否両論があるようですが、ストーリー的にはかなりオーソドックスで、監督が「現代の神話だ」と言っているので、まぁその通りだろうと思います。
神話というのは、誰にでも受け入れられるよう、わかりやすく、多分こうなるだろうという通りに、話が流れていきます。
映像技術的な問題があり今までこの作品を作ることができなかった、というように確かに映像はすばらしいです。実写とCGが見分けることができないほど融合しており、それらを区別することが無意味とも思えるようです。
また、かなりアジア的な要素が多かったように思います。
ライトセーバーによるチャンバラをはじめとして、アミダラ女王の髪型は髷を結っているようにも見えましたし、衣装も中国の皇帝風だったり。
この辺は監督の趣味なんでしょうかねぇ。

「マトリックス」の方は、久しぶりにゾクゾクする映画を見ました。
ストーリーの方は、小説などではよくあるような話かもしれませんが、実際に映像としてそれを実現させてしまったものを見せられるとかなり衝撃的です。
バレットタイムをはじめとしてワイヤーアクションなど、特撮技術を駆使して仮想現実らしさが出ていました。
現実的に考えても、このまま仮想現実の技術が進めば、現実と全く同じように感じることができる仮想現実ができるのでしょう。
それが、人間にとっていいことか悪いことかは別として。

さて、今後特撮技術が進歩していくと、人間の俳優たちが全く必要なくなり仮想の俳優だけで映画が作られていくようになるだろう、といわれることがあります。
しかし、私はそうは思いません。「エピソード1」のクリーチャーたちも人間の動きをモーションキャプチャーで取り込んで作られているものもあり、「マトリックス」のワイヤーアクションなどは実際の人間がやるからこそ迫力があるのではないかと思います。
きっと、今後も実写と仮想がうまく融合しながらすばらしい作品が作られていくのでしょう。


1999年08月02日

「1999年8の月」

7月もあっさり何事もなく終わってしまいました。
まぁ、道路標識が落ちてきたり、都庁舎に雷が落ちて外壁がはがれ落ちたり、大雨が降ったりと、落ちる・降る現象はいくつかあったわけですが。
でも、説によっては、8月や9月といっているものもあるので、あと2ヶ月は、楽しめ(?)ます。

しかし、7月に何かが起こると言っていたノストラダムス研究家や自称予言者たちは、どういう言い訳をしてくれるんでしょうか?
やはり、「延期された」とか「私の力で止めた」とか言うんでしょうか。

ノストラダムス研究家といえば、これからどうするんでしょうねぇ。
一応、ノストラダムスの予言書には、1999年以降のことも書いてあるようですが、最大のイベント(?)である、「1999年7の月」がはずれてしまうと、このあとなにを言っても誰も耳を貸さないでしょう。
今度は、別の予言書を研究したりするんでしょうか。

なにはともあれ、今年のうちには大パニックになるようなことは起きないでしょう。
つぎは、2000年問題ですね。
(こっちは笑い事じゃすまないでしょう)


1999年07月07日

「空から降ってくるものは…」

7の月になりました。
1週間経ちます。
なにも起きません。
つまんないです。



なんて、急に何かが起こるはずはないのですが、ちょっとは期待してしまいます。

でも、「落ちてくる」という事件はいくつか起きてますね。
新幹線のトンネルでコンクリートの塊が落ちてきたり、首都高速で案内標識が落ちてきたり、三重では氷の塊が空から落ちてきたり、ここ数日申し合わせたかのように「落ちてくる」事件が起きています。
昔から、「”落石注意”の看板があっても、どう注意したらええねん」という話がよくされますが、本当に注意のしようがないです。
(”落石注意”の方は、落ちてくる石ではなく、落ちている石に注意せよ、というのが本来の意味らしいですが)

このまま、7月になにも起きなければ、これらの「落ちてくる」事件が、恐怖の大王だったなんて言い出す研究者も出てきたりして…。
(目の前で案内標識が落ちてきた人間にとっては、恐怖以外の何者でもないでしょうが)


1999年05月17日

「戦争における卑怯とは」

相変わらず、ユーゴへの空爆が続いている。
何度も「誤爆」を行い、民間人への被害が拡大しているというのにもかかわらず。
ニュースの映像で、ユーゴの人がこの空爆に対して「NATOは卑怯だ」といっているのを聞いた。
そのとき、違和感を感じた。
この空爆はいったいなんなのか?卑怯という言葉が使われるからには「ルール」が存在し、それを破っているから卑怯といわれるのではないのか?
戦争にルールが存在するかどうかは知らないが、他人の命を奪う行為に、卑怯も何もないのではないだろうか。
NATOは軍事施設のみを攻撃しているといってはいるが、そこに勤めている人間についてはどう考えているのだろうか。
軍事施設に勤めている人間は殺してもいいと思っているのだろうか。

所詮、戦争という異常事態でのことといってしまえばそれまでだが、やはり平和な国に住んでいる人間にとって理解しがたいものではある。


1999年04月07日

「その時何が起こるのか?」

2000年まで、あと270日を切りました。
テレビのニュースでもコンピュータの2000年問題の特集を組んで、各企業での対応などを報告していました。
多分、これからも節目ごとにこういった特集が組まれ、警告を与えると共にカウントダウンを行っていくのでしょう。

さて、実際に2000年になったときに、何が起こるのでしょう。
2000年1月1日になった瞬間に、年を2桁で認識しているコンピュータが1900年だと誤認する、もじくは99から100に繰り上がり桁あふれを起こす、という現象が発生するといわれています。
問題なのは、これらの現象が原因となって、どんなことが起きるのか、ということです。
単純にコンピュータ上で動くソフトウェアだけでなく、ハードウェアのチップ内のプログラムについても関連してくるため、その影響範囲は誰にも把握できないといわれています。
オフィスや家庭にあるパソコンが止まるだけでなく、為替取引に使われているホストコンピュータが止まったり、交通信号や鉄道の運行を制御しているコンピュータが止まったりすればかなりの被害がでることが予測されます。
現在では、身の回りの電気製品にコンピュータチップがほとんど組み込まれているようになっています。
これらに障害が発生すれば電気製品が使えなくなってしますことになります。
ビデオの録画予約ができなくなったり、携帯電話が使えなくなったり、炊飯器でお米が炊けなくなったりするかも知れません。
とはいえ、チップ内にカレンダー機構を内蔵して無ければ何の問題もないように思えますが。

何が起こるかわかりませんが、こころしてその時を待ちたいと思います。
(その前のノストラダムスの予言も気がかりだったりしますが)

追記:
「君といた未来のために」のように2000年直前で時間が戻って欲しいと願う、2000年問題担当者がでたりして。


1999年02月26日

「リング その2」

やっと助かる方法(おまじない)が明らかになりましたね。
原作と違い、ただコピーするだけではなく「まだ見ていない」「2人の人間」に見せなければならない。
原作でも、うわさが広まるにつれ、こうなるだろうということは載ってましたが、初めからこうだとは…。
この条件が加わることにより、増殖の速度は加速度的に増え、全人類がキャリアになるのに1年足らずで済んでしまう。
貞子の復讐もあっと言う間に終わることになる。

でも、ちょっと待て。そんなにうまくいくものなのか?
確かに計算上は、全人類の4分の1が死に至る、かもしれないが、よく考えると、机上の空論ですね。
だいたい、「見たらコピーして他の2人に見せなければ死ぬ」なんてものは強制される以外に見ないでしょう。
いくら助かる方法があるからと言っても、ふつうはそんな面倒なこと引き受けないですね。
見せようとしている人がよっぽど親しければ別ですが、自分が死ぬ可能性があるのに見る人はいないでしょう。
それこそ、「見れば死ぬという呪い」を信じれば見ないでしょうし、信じなければ次の人に見せることはしないでしょう。
だから、絶対途中で増殖が止まると思います。
今回だって浅川が見なければ4人で止まってた訳ですし(原作の場合)。

って、よく考えたらこれって「不幸の手紙」と同じですね。
信じている人間は無理矢理人に読ませようとするし、途中の誰かが信じなければ途切れてしまう。
だから、ビデオも全人類に行き渡る前にとぎれると思いますね。

でも、これが本当に助かる方法だとは限らないですよね。
原作でも「リング」では「コピーして他人に見せること」が助かる方法だったけど、続編の「らせん」ではそうではなく、「ウイルスを変異させ増殖すること」もしくは「貞子を復活させること」が助かる方法だったわけだから。
きっと、予想もつかないような結末なんでしょう。
でないと、おもしろくないし…。


1999年02月08日

「リング」

139181914152011351492311852311851
4152011351491411492315192125119111
未来のために我々のために何をすべきか

しっかし、このドラマはホラーというよりミステリーですね。
原作もオマジナイを探すという点ではミステリーっぽかったですが、もうちょっと差し迫る恐怖のようなものがありました。
やっぱり、期限が延びたことが原因ですかね。
1週間と13日じゃ気の持ち方が違うでしょ。
謎解きにも余裕が持てることから、ミステリーっぽくなっちゃったんじゃないかと思います。

私は、最初にTVドラマ化されたものが一番よかったですね。
95年ぐらいに高橋克典が浅川役で出演したもので、かなり原作に忠実に作ってありました。
脚本が飯田譲治(「沙粧妙子 最後の事件」や「NIGHT HEAD」の)だったこともあり、映像がかなり印象的でした。
特に呪いのビデオについては原作に忠実に作ってあり、おばあさんのところや最後の人の顔のところは、今でも覚えています。
これに比べると映画版はいまいちだったなと思ってしまいます。
今度のTV版はどんな結末を見せてくれるんでしょう。

ちなみに冒頭の言葉はエンディングに流れる数字の羅列を「らせん」での暗号解読法に基づき、解いたものです。
この言葉が結末にどうかかわってくるのか?


1999年01月04日

「ねがい・まじない・のろい」

新しい年が始まりました。
年始に神社にお参りをして、願い事をしてきた方も多いと思います。
神社で絵馬を書いたり、破魔矢を買ったりするのは願掛けであるのと同時に、ある種のおまじないであるともいえます。
おまじないと書くとよいことが起こるようにと行う願掛けという気がしますが、この「まじない」は漢字では「呪い」と書きます。これは別の読み方もできて、「のろい」とも読めます。
すなわち、「まじない」と「のろい」は元々は同じものなのです。

「世の中の幸せの絶対量は決まっていて、それが全ての人に不公平に振り分けられている」という考え方をどこかで読みました。
自分が幸せになるということは、その分他の誰かが不幸になっているということであるということのようです。
また、幸せかどうかは絶対的な価値基準ではなく、他人との比較で認識できる相対的なものである、という考え方もあります。
「自分は幸せだなぁ」と感じるのは他人の不幸を見聞きしたときであり、逆に「不幸だ」と思うのは幸せそうな他人を見たときであると。
結局のところ、自分が幸せになるための「まじない」と他人を不幸にする「のろい」は同じことの裏表であり、だからこそ、同じ漢字で表されるようになったのかもしれません。

願わくば、あなたの「呪い」が効果を発揮しないように祈っています。


1998年12月08日

「テクノロジーは魔法となり得るか?」

Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic.

「十分に進んだテクノロジーは魔法と区別が付かない」

これは、“アーサー・C・クラークの第三法則”といわれるらしいが、確かに現代のテクノロジーを「剣と魔法の世界」に持っていけば、魔法と間違われるかもしれません。
トランシーバーは遠くの者の声を伝える魔法となり、スタンガンは雷撃により感電・気絶させる魔法となる。
ただし、魔法と違うのは「機械」を使ってそれらを実現していること。
これらの機械は目に見えるため、魔法と違うことが明らかにわかりますが、目に見えないほど小さい機械を使っていたらどうでしょう?
いわゆる「ナノマシン」というものにより、声を伝えたり、雷撃を起こしたりすれば、現代の私たちでさえ、魔法と見間違えるのではないでしょうか。

一方、魔法では、機械を使わない代わりに「呪文」というものを使います。
「風の精霊シルフの力をもって…」とか「万物の根源たるマナよ…」などというような、魔力を持つものへの呼びかけや力ある言葉の詠唱によって、魔法という現象を起こします。
また、これらのように長い呪文を唱えることなく、「Light」「Fireball」といった魔法の名前を口にするだけで、発動させたりもします。

これらは、コンピュータの世界に置き換えるとごく当たり前のことだと気づきます。
すなわち、呪文の詠唱はプログラムのソースを書くことであり、魔法の名前を口にすることはすでにコンパイルされたオブジェクトを起動すること。
呪文が記述される言語が、精霊語や神聖語、古代語などと分かれているように、プログラムの言語もCやBASIC、Pascalなどと分かれている。
違いは文字による記述か音声による口述かですが、これも最近流行の音声認識装置を使えば可能になります。

これらふたつ、「目に見えない機械(ナノマシン)」と「コンピュータ内では魔法と同じことが行われている」をあわせると、「魔法が使える世界というのは、テクノロジーが進んだ世界なのでは」という考え方が生まれます。
その世界では、自己修復可能なナノマシンが至るところに存在し、音声により人の意志を認識し、それに従い「魔法」を発動させる。
ただ、人々がナノマシンの存在に気がついていないということは、いわゆる「ロスト・テクノロジー」というやつかもしれません。
剣と魔法の世界の設定によくある、
「かつて栄華を極めた王国があった。しかし、ある日突如として滅んでしまった。魔法や魔法の品々はその古代王国の遺産である」という伝説。
これを解釈すると、
「遠い昔にテクノロジーの進んだ国(世界)があり、そこではナノマシンと音声認識技術により、豊かで便利な暮らしをしていた。しかし、何らかの災害(天変地異や核戦争など)により滅んだ。わずかに生き残った人達は進んだテクノロジーを後世に伝えようとしたが、次第に廃れナノマシンとそれを利用した「魔法」のみが残った」
ありがちといえばありがちな設定ですが…

我々が住む現実の世界でも、もう少しテクノロジーが進めば、それは「魔法」となるのかもしれません。


1998年11月16日

「眠れる森で何が起こったか?」

ドラマ「眠れる森」も終盤に入ってきて盛り上がりを見せていますが、このタイトルよく考えるとおかしいと思いません?
このドラマの元となっている童話は「眠れる森の美女」なのですが、これは「眠れる・森の美女」ということで眠っているのは、「美女」であるわけです。
ところが「眠れる森」の方は、眠っているのは「森」なわけで、森が眠るの?となってしまいます。これは「A sleeping forest」という英語名を考えてもそうなっています。
と、ここまで書いたところで辞書を調べてみると、
「sleeping bag = 寝袋」
とあり、これを「眠っている袋」ではなく「眠るための袋」と考えると、「sleeping forest」も「眠るための森」となり、直季や実那子が眠っていたことを考えると、あっているのかなという気がします。

それはさておき、
「眠れる森の美女」のオリジナルがかなり残酷であることは知っていますか?
「眠れる森の美女」に限らず、一般に童話として知られているもののオリジナルはかなり残酷です。
「赤ずきん」では、赤ずきんは狼におばあちゃんの肉を食べさせられて、Hなこともされてしまうという話ですし、「シンデレラ」では幸せになったシンデレラは継母や姉を死ぬまで牢獄に閉じこめた、というような結末になっています。
「眠れる森の美女」の場合、呪いにより姫が眠りにつき、王子によって覚まされる、という話の骨格は同じですが、キスによって目覚めるというようなロマンティックな話ではありません。
王子は眠っている姫を犯してそのまま立ち去ります。姫は眠ったまま男女の双子を出産します。その双子の男の子が、毒のトゲの刺さった姫の指をしゃぶっていて、トゲを吸い出してしまい、姫は目覚めます。
目覚めた姫と王子は再び出会いますが、王子は妻の元へ帰っていきます。その妻は王子に隠し子がいることを知って怒り狂い、自分の子供を料理して王子に食べさせようとします。さらに、妻は姫をとらえて火あぶりにしようとしますが、危機一髪のところで王子によって救われます。
これじゃ、ミステリーではなくホラーですね。
ドラマが、オリジナルの方を元にしていたらかなり怖い話になったでしょう。

ドラマの話に戻って、真犯人はいったい誰なんでしょうか?
そろそろ対象が絞れてきましたが、私は最初から輝一郎が怪しいと思っています。あと、輝一郎の母親という線も増えてきましたが、第一話の最後で白い傘を持って立っているのが母親で、輝一郎の犯行を全て見ていた、というように推測しています。
もう一つ、ルール違反ギリギリの真相としては、二重人格者が犯人だという説。
実那子は幼児虐待を受けていたようですから二重人格になってもおかしくはない。刃物を持って笑っているあたりまともな人格じゃないような気がします。
輝一郎の方も母親からプレッシャーをかけられていたようですし、人格が分裂してしまったのかもしれません。その場合、目の前に現れた母親は、もう一つの人格による幻覚という可能性もあります。
まぁ、視聴者の予想を裏切るような結末らしいのでこれらもはずれているでしょうが。
ところで、オープニングで走っている二人の男(直季・輝一郎)のうち、直季の方は実那子を目指して走っているように見えますが、輝一郎の方は何かから逃げているように見えません?
このあたりにヒントが隠されているのかも…。


1998年11月04日

「愛とはなんぞや?」

「愛している」
この言葉を、簡単に、使わないでください。
「愛」と「恋」とは違います。
「恋は全てを求め、愛は全てを与える」
見返りを求めない、無償の想い、それが「愛」なのです。

−以上森本レオ風に

人が生きている限り、愛というものはついて廻り、文学・演劇・ドラマなどの主題としてもよく使われます。
最近も「愛」をテーマにしたドラマが放送されてます。
それらに影響され、「愛」についてふと考えたことを書き連ねたいと思います。

「失恋」という言葉はありますが、「失愛」という言葉はありません。
「愛」とは失われるものではないのかもしれません。

英語では、「愛」も「恋」も「love」と表現されます。
「love」と「like」の差は「愛」と「好き」の差で、「愛」と「恋」との差ほど微妙なものではありません。
「恋」という曖昧な感情は日本人だけのものなんでしょうか。

「愛」と「恋」では「愛」の方が崇高な気がするのに、「人」がついて「愛人」と「恋人」になると、どうしてこうもイメージが違ってくるんでしょうか。

いつか、本当の「愛」に巡り会いたいものです。


1998年10月26日

「パンドラの箱に残ったものは…」

「パンドラの箱」というのはかなり有名なギリシャ神話のエピソードの一つですが、簡単に説明すると、

プロメテウスが天の火を人間に与えたことに怒ったゼウスは、これを罰するために「パンドラ」という女性を作らせた。
パンドラは地上で最初の女性であり、このパンドラが地上に降りる際にゼウスから持たされたのが「パンドラの箱」である。
この箱には、あらゆる災いが封じ込めてあり、これをプロメテウスに開かせることにより罰を与えようとした。
しかし、パンドラはプロメテウスのところではなく、弟のエピメテウスのところにいき、箱はパンドラ自身が開けてしまう。
箱を開けた途端、封じ込められていた災いが飛び立ち、慌てて箱を閉めたところ希望だけが残った。

と、こんな神話なのですが、このエピソードから「パンドラの箱」というのは「開けてはならないもの」を示すようになり、また、パンドラが慌てて箱を閉めて希望だけが手元に残ったことから、「どんなときでも必ず希望はある」ということも示していると言われています。
さて、ここで残った「希望」というのは「いいもの」なんでしょうか?
「災い」を封じ込めた箱の中に「いいもの」が入っていたのでしょうか?
一つの見方として、神の慈悲として「希望」を与えてくれたということもいえるかもしれませんが、私はこの「希望」も「災い」の一つではないかと思います。
希望というのは「もしかしたらこうなるかもしれない」という期待を持たせておいて、ほとんどの場合は、期待は裏切られ精神的ダメージを受けます。
人間というのはプラスからマイナスへ転じる状況での精神的ダメージは相対的に大きく、立ち直れなくなるのもこういった状況でのことがほとんどです。
ゼウスはこのことを考慮して「希望」を「災い」として箱に封じたのではないか。
箱に残った「希望」は裏切ることを前提としたものではないのか。
そう邪推してしまう私は、ひねくれているのでしょうか…。


1998年10月12日

「ノストラダムスの予言は当たるのか?」

この秋の改編期に、いろいろな番組でノストラダムスの予言が取り上げられてました。予言の時期まであと1年を切ったということで再び話題になっています。
私もこの手の話は興味があるので、いくつか見たのですが、打ち上げた人工衛星(探査機)が落ちてくると言うのが最近の説のようです。
その時期が1999年8月。「予言じゃ7月じゃなかったけ」と思いますが、昔の暦とのずれで今の暦に直すと8月になるとのこと。
「ふーん、そういう見方もあるんだ」などと感心していたら、ふと疑問が生まれました。
予言ではなぜ「1999年、7の月」と、はっきり「7月」と言っていないのかという疑問。
まぁ、単に訳した人間の好みだったのかもしれないのですが、このことと先ほどの「昔の暦とのずれ」と言うことをあわせて考えて、ふと思いついた新たな説!

“予言の時期は1999年9月である”
それはなぜか。
9月は英語でSeptember。
「sept」とは「7」の意味で、本来「September」とは「7番目の月」という意味なのです。
(なんで「7番目の月」が「9月」になってるのかは、諸説あり、二人のローマ皇帝が自分の名前を入れたためとか、ローマ暦では3月から始まっていたためとか、言われています。)
というわけで、
「7の月」=「7番目の月」=「September」=「9月」
となるわけです。

原書の言語は様々なものが混じっているらしいので、英語との対応を考えて書かれたとも思えませんが、ま、勝手な説を唱えるのは自由ということで。
予言があっているか、はずれているか、一年後にはわかっているわけです。さて、来年の今頃はどうなっているのでしょうか…。