[CHAOS HERO’S] SERIES 2
1
けだるい真綿のような疲労がじんわりと体をくるむ様にまとわりつく、その感触にシンジは酔う。待ち望んだ停滞期へそろそろと移動しているのだ。
軽い眠気があった。
眠れるかもしれない。シンジは、体に残る巨大量の力の残り香が中空へ霧散する様子を思い浮かべた。
既に、新月へ向け下降期にさしかかっているはずであり、ざわざわと体を行き来する賦活したエネルギーは稲妻そのもので、その残照でさえとろ火で身を焦がされる程の破天荒な性質を持っていた。
平穏な生活が脅かされるほどの横溢感であり、昼日中の怒張したファロスのように厄介そのものだった。
まんじりともせず四日めを過ぎるころ、ようやくゆるゆると通り過ぎるのである。
それも、力の方は後ろをたびたびに振り返りながら、未練たっぷりといった足を引きずりながらの退場という様子だった。
シンジは脳裏から赤い髪のあの少女の事を取りだし、彼女はいったい誰なのだろうか。と、考えていた。どうして、こんなに気になるんだろう。
ただひとたび、一期一会の邂逅であるはずなのだ。日本から離れた、しかも海上、太平洋のどまんなかでの邂逅だった。
しかも、青白い炎のような、満月の夜のできごと・・・。
まるで、銀幕の向こう側だ。シンジの脳裏を、底光する眼、あの時の異様なまでのたかまりを感じた、あの時の!月光に似たあの瞳・・・。翻る黄金色に輝くオーラをまとった長く赤い髪、そしてほっそりとしたその少女の肢体が行き来する。
シンジにとって、その少女を思い出す行為そのものが、ある種のスリルを覚える行為そのものだった。
二重化した意識の中を透徹した冷静そのもののもう一人のシンジが、覗きこんでいる。彼は、まるで少女には頓着せず、その少女により、波立たせる心の動きを追っているのだった。
意識の二重化現象は、シンジには平常時にも在り得る馴染みの深い感覚だった。
今、その向こう側のシンジは、TVの画面を食いいるように覗きこむ子供の様に、シンジ自身の動きを興味津々でうかがっていた。
彼自身、まったくそれは初めてのできごとだったのかもしれない。
渦まく、混沌そのものが、シンジの中に見てとれた。
それは、非常に他愛の無い、可愛らしい感情の動きだ。
ーーー目を奪われた。新鮮な瑞瑞しさがあった。
シンジは、出会いの瞬間から、唐突な別れまでのほんの数瞬だが、まったく事実と同じように、VTRの正確さで思い出す事ができた。
それを、幾度となく、くり返し、描いていた。
ある時は、翻った赤色の髪、その相貌をぴたりと止め、拡大化した。
ある時は、震えた彼女の声音に、震えるような何かを感じた。
ある時は、彼女のキリキリとした立ち振舞を思い浮かべてみた。
ある時は、彼女を自分の隣にならべて見た。
そして、彼女に対し、僕は・・・。
ある時は、ばさり、と翻る思考は、魔の暗さを持ち、シンジを打つ。
彼女は、僕が飛べる事を、知っているのだ・・・。
<悪魔小僧!>
耳なりのような、付き刺さる声音。
それは、彼女の鈴の鳴るような、流麗な声で放たれるのだった・・・。
『あなたは理解のできない化け物そのものなのよ!』
痛烈な声音が心の耳朶を打つ。
『魔の力を持つもの、悪魔小僧!』
ああ・・・!
くらりよろめく先にぽっかりと空洞が広がっていた。深淵であり、まるで底をうかがえない闇が満たされた地獄の空洞がシンジを捕らえる。
人間は空を飛べるんだ!
彼は、絶叫をした。薄いその胸のうち。
人間は、誰だって、飛べるんだ・・・。
シンジがじりじりとした思考の中、まんじりともせず視線を外へ向けた瞬間、甲高い警報が街を包んでいた。
シェルターへの待避を校内放送がややあせりを含んだ声で伝える。
シンジは慌ただしく動く人の波に揉まれるように、シェルターへ向けじんわりと疲労を感じてきた思い足を引きずりはじめた。
重力が強くシンジを地に縛りはじめた。
満月期はこうしてシンジの上を通り過ぎて行こうとしていた。
2
綾波レイが使徒と呼ばれる敵性体に対し、人造人間エヴァンゲリオン初号機により出撃、それを撃退し病院のベッドに縛られ、まだ1週間も経っていなかった。
戦闘時に負った傷は、激烈を極め、立って歩く事はもちろんのこと、エントリープラグ、あの人造人間の操縦席にただ座る事ですらできそうになかった。
当初の予測では、15年も音沙汰がなかった使徒が、これほどの短期間で現れるとは、誰もが予想し得なかった。その事実は、僅か数名の死海文書のタイムスケジュールを知る者のみ知り得たとして、1週間に満たない、中四日の登板ではいかんともしがたい。
綾波レイの負傷は、ネルフにとって痛恨事そのものだった!
彼女の乗るエヴァ初号機の修理は、形になる程度に行われていたのだが、事、人の体の事である。間違いもなく重傷を負った彼女は、ネルフ付属の病院の、その最上階にある集中治療室で、まんじりともせず、紅玉の瞳を中空に向け見開いていた。
彼女は、警報を聞いていた。細い思念の先で、『敵・・・』と、考えた。
行かなくてはいけない。彼女は、ナースコールに手を伸ばす。看護婦を呼び、身動きままならない自分を、エヴァの元まで運んでもらうのだ。
ナースコールのボタンに伸ばした先から、鋭い痛みが走りぬけた。
神経のすべてが火の様に思えた。
轟々と燃え盛るコークスに包まれ破ぜ散る痛みに押し殺した悲鳴が喉をついた。
「くっ」
彼女は唇を噛みしめた。
骨が軋んでいた。
実際に、彼女の身体は十数箇所に及ぶ骨折をしていたし、内臓へのダメージも深甚であり、今彼女が平静を保っているのですら、痛み止めのモルヒネの効果にほかならない。
とても、動ける状態ではないのだ。綾波レイはベッドに縛りつけられているべきで、その身体で何かをしようと考えるのは、自殺行為であるに等しく。
今、激痛にうめきながらも、彼女は、しかし、枕元にあるナースコールのボタンを押下していた。
たちまち集中治療室には医師と看護婦がなだれこんだ。何事かといった、言葉は何もなく、移動ベッドに抱えられ、点滴の栄養剤もそのままに、綾波レイは、彼女の考えた通りに、指示もなくに動いていた。
特務機関ネルフの総司令である碇ゲンドウの指示である事を、彼女は直ちに思い浮かべた。望むところだった。中空をさまよっていたレイの瞳は、強い光を放ち結ばれた。
移動ベッドは、エヴァンゲリオン初号機のあるケージにまっすぐに到着していた。
彼女の視線の先に、碇ゲンドウがたたずんでいた。
彼女は、身体を起こそうともがいた。片腕は骨折のため、わずかな運動もままならないため、もう片方の腕を器用に肘立てし、そして掌をついて身体を起こす。
そんな動作の一つ一つにすべからく注意を払う必要があった。身体中が錆びつき、軋み、金属音をあげているようであった。
例えば、指の感触ですら破裂する痛覚の彼方に霞んでいた。
「出撃」
静かに、低い声で、そう言うのが彼女には聞こえた。ひき結んだ口髭の奥が確かにそう動くのを確認していた。
「はい・・・」
ただ、やらなければならない、という感情が彼女を駆りたてる。
その焦燥に苦痛など物の数ではなかった。
命令は厳守されるもの。
彼女は思った。
わたしにはやくめがある。
彼女の身体は各部に強化プラスチック製の薄いギプス、そして包帯を巻きつけられていた。
その上から、エヴァンゲリオンとの同調を助けるプラグスーツを身につけられる。それは、担当の医師が行った。
彼は、無表情に、本来ならば、裸体に直接身につけるスーツを包帯の上から装着させた。入りきらない部分は鋭利なメスで切り割いた。
ともかくも、スーツを身につければ傷ついた身体をわずかでも補強してくれるはず。
医師は、しきりに気にしていた額の汗が、実は彼のまぶたの内から流れている事に気付かない。
看護婦は二人、彼女の脇に立ち、腕にモルヒネを注射した。
綾波レイは、エヴァンゲリオン初号機に乗りこんだ。
プラグに身体を固定すると、LCL溶液が隙間をうめるように、レイを包みこんだ。
あのひとはどこ?
レイはそう心の内につぶやいた。平坦な水面の如き心のその内側に、何かが細波を立てていた。
モニタースクリーンには、レイに厳しい視線を向ける赤木リツコが映っていた。
両手を羽織った白衣の両ポケットに突っ込んでいた。
その姿は、無造作そのものであり、両端をぎゅっと引っ張り、ぴん、と張った糸の様に凛とした緊張を発令所内すべてに張りめぐらせていた。
「レイ、落ち着きなさい。ハーモニクスが乱れているわ」
レイは、眼で肯いた。
発令所には、オペレーターが座り、それぞれに割りあてられたモニターをにらみ、自己を激しく律しながら職務に勤める機械たろうともがいていた。
誰もが、綾波レイの乗る、エヴァ初号機をまともに視界にいれる事はできなかった。淡々と、その中、伊吹マヤはモニターの中のシンクログラフに集中をしていた。
ともすれば、彼女は泣きだしかね無い恐慌に囚われてしまうのだ。
強大な『使徒』という大敵の接近。そして、痛ましい、子供、負傷している綾波レイを戦わさなくてはならない。
彼女はレイの状態を技術部、リツコの補佐的役割をかってでいてるその性格上、レイの特殊性や現在の状態をかなりの段階で把握していた。
マヤは必死に今を集中する事で、それらをすべて忘れようとしていた。だが、そう考えれば考えるほど、不思議な事に彼女の視界がパステル画のようになってしまう。
彼女は袖で目頭をすばやくぬぐった。
しかし、たちまち彼女はグッグッと反り返りそうな内圧に吹き出される、何等かの熱気によるものか、その両目は再び描いては指でこすったにじんだパステル画を映し出すのだった。
三度、袖で拭えば、背後からの叱責に脅えるように普段の何倍もの努力を払い、何分の一かの速度でコンソールキーボードに指を走らせた。
彼女は、どうして自分だけに地震が起こっているのだろうと、考え、その考え自体に不吉な黒い影を感じていた。
ああ、彼女はこれで死んでしまうのだ。
マヤの手は比重を重金属そのものに変えてしまった。
感じる震えが、実はおこりのように震えた自分のものである事をようやくに知った。
ほとんどの臓器が損傷しているのよ。安静にしていても、取り変えないと死んでしまう重傷なのよ。
彼女は、後ろを振り返った。まなざし鋭いリツコと、視線が絡み、彼女はそっと視線をはずした。
先輩はなんという眼をしているのだろう。
彼女は、言った。
「シンクロ率、20、いえ、18%。安定しません!」
最後の叫びは、彼女なりに、何等かの力をすべて封じ込めたものだった。
それを受けた赤木リツコは、受け流すように、レイの映るモニターに目を戻し、ただ一人、眼をそらす事なく見つめつづけた。
「目標、強羅最終防衛線を突破しました!」
青葉シゲルが叫んだ。肩まで伸ばされた長髪を振り乱し叫んだ。彼は彼なりに深い葛藤の中を泳いでいた。コールタールのように闇色で、しかも、おおよそねっとりとした重油をぶち負かれた嫌な海に例えられていた。
くそっ、ジョウダンじゃ無いぜ。なんで、こんな最悪の状態の時に限って、最悪の状態になりやがる!こんなになってても子供に頼るしかないのかよ!
「ミサトはまだ!?」
さしものリツコの声にもまた、感情が波打ちつつあった。
彼女ほど、絶体絶命を証明できる人間はいないのである。
焦燥から、彼女は背後を顧みた。
そこには、いちだんと高い位置にある空虚な席が頼りなく閑散とあるのみだった。
不意に彼女はたばこが吸いたくなった。
「連絡とれません!」
応じたのは、作戦部所属の日向マコトだった。彼は、作戦部の次席である。
汗かきである彼は、形容しがたい不安に形容しがたい冷たさの汗をにじませていた。
彼にとって、ミサトはただの上司という枠では括れない、いわば、カリスマの対象だった。彼は、ミサトを信望していた。どうしようもないほど、それこそ日向マコトの中では絶対の金字塔を打ちたてる。
彼女が居ない今ですら、彼は彼女を信じざるをえないのだった。
待ってます、葛城さん。それまでの雑事は僕に、任せてください。
胸ポケットには、定期入れが一つ入っている。几帳面な彼は、定期入れに紐を括りつけ、首に下げていた。その中には誰にも知られない彼だけの秘密が治まっていた。
彼は、それをポケットの上からそっと押さえた。
日向の眼が強い光を持ち、鬼気迫る。
彼もまた、誰も居ない司令席を見やり、彼の中の信望こそが正しいのだと確信する。
「戦時から出撃要請が入ってます!」
誰もが、白衣のポケットに手を突っ込み凝然と綾波レイの映るモニタースクリーンを凝視する赤木リツコを窺い見た。
彼女は、それを確認するように吐息を一つ吐くと、モニターに向かいはっきりと口を開いた。
「レイ、行けるわね?」
その場のすべての人間の皮下に氷塊が出現した。
身じろぎひとつできない悪寒に凝固する。
「はい」
誰もが、その言葉を知っているがゆえに、だからこそ、彼女の口からその言葉が出る事を恐れていた。
・・・例え、そうしなければいけないと解っていても。
3
碇シンジは、大気を響かせる耳ざわりこのうえない、音の嵐の直中で隔壁のその中へと人の波の中、漂う。
彼ほど危機感を喪失した人間はここには居ない。
嫌になるほどくり返し行われた待避訓練に浮き足だつようにシェルターへと向かう人々こそ、シンジにとっての奇異であり、彼にとって壕の中に逃げいる行為そのものは、別に誰かがやれ、といっているからやっているという、ただそれだけに過ぎず、その心は、既にその場にすら無かった。
彼の中の二重化は進み、彼は空の彼方へと思いを馳せていた。
シンジは人の波の中、立ち止まり、虚空へと顔を上げた。
一陣の風が空を舞い、彼を誘惑している様であった。
抜け落ちつつある力の残照からか、人いきれで踏み場の無い入口周辺ですら、まるで放電しているかのようにシンジを誰もが避けていた。
川床の砂や瓦礫が堆積した中州を思わせた。楕円形にシンジを取り巻き、人々は地下深く、分厚い合金と、鉛の隔壁の下へと移動して行く。
虚空、中空をさまようシンジの心は、どこへ移動しているのであろうか。
彼は、そのまま、不意に足を引きずり、非難勧告のサイレンの音に背を押され、地下住人への切符にパンチを押した。
実は、思い人こそ、彼のまなざしの先にあり。
空を越え、彼女が現れるまで後、半日を要する事になるのであった。
<つづく>