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第三新東京市ぱられるふぃーばー

その6


 薄いカーテンから漏れ入るのは素晴らしい天気そのものだった。無地の開襟シャツに袖を通し、ブルージーンズを身に付ける。こんな日は何にも無くても浮き立つような高揚感に包まれる物で。
 僕が何をしているのかというと、掃除機のノズルを両手で持ち、轟音を唸らせながら隅々まで目を走らせる。開け放たれた窓から入り込むのは、外の熱気と風だった。
 掃除をすると、さらにすっきりサッパリ清涼な気分になる。まるで、柑橘類、それも素晴らしく瑞々しいレモンをかじった・・・そんな心地好さがある。
 こんな日の早朝は、なんといっても掃除に限る。ジョギングも、ラジオ体操も、たんなる散歩でも、朝のまだ僅かに涼気の残る大気に、生命力に溢れたそのなかで行う全ての事には価値がある・・・僕は、そう思う事に決めている。
 何しろ、父さんも母さんも生活無能者そのものであって、家のこまごまとした家事のそのひとつを取って見ても、僕が居なくてはできないような無能ぶりであり。どうして僕が母さんや父さんのパンツの在処まで把握しなくてはならないのか、眉間を押えて嘆きたくてたまらない。これは、約一年ほどのミサトさんとの同居に於いて培われた自分のこうした家事能力の齎した感覚であり。
 ベランダに出て煙草のパッケージを取り出した。火を付け、小鳥のさえずり、風のそよやかな頬の感触を感じた。ゆるやかに煙は掻き消える。
「コラーーー!朝っぱらから何をやっとるか青少年!」
 びくりと震えて振り向いた。そこにはタンクトップにショートパンツというミサトさんの姿が腰に手をあて柳眉を逆立てているのであり。
「喫煙してるなんて知らなかった。こんのふっりょー。今の内から煙草なんて吸っていたらろくな人間に成長しないわよ。煙草は百害あって一理無し。肺なんか真っ黒の煤けたみたいになって、身体中から異臭に包まれて歯なんてまっ黄色で、指先までニコチン臭くなって、犬や猫がどうして喫煙者になつかないか知ってる?とてつもなく臭いのよ?シンジ君」
「は、はあ」 思わず手にした一本の、それもたった今まで口に咥えて赤々とした火の穂の灯った煙草がポロリと落ちる。風が巻き込みそれは、部屋のどまんなか、カーペットのその上へと舞い降りた。
 思わず目を合わせたミサトさんが騒ぎ立てる。
「きゃー!危ないじゃない。火傷したらどうするのよ!」
「その前に火を消して下さい!火傷より火事の方が素早いですよ。ほら、風が入り込んでます。カーペットに穴が開いて煙が出ますよ!」
「こ、こらー。火事なんて、イヤよ。私の家なんですからね」
「その前に、落ちた煙草を拾わないとダメです!危ないですから!煙が、あーもー燃えちゃってます!ミサトさん!手に持っているその缶を貸して下さい!」
「手、手に持ってるって、や、イヤよ。ビールの買い置き、シンちゃんが減らしてるでしょ。これ、最後の一本なんですからね。そんなもったいない事できない」
「減らしているだなんて、人聞きの悪い!僕は、お酒なんて、飲んでません!物凄い酒量のミサトさんが気付かないで飲んでるんでしょう!今朝だって、テーブルの上に何個の空き缶があったと思うんですか!アルコール中毒みたいになっても知りませんよ!」
「言うに事欠いて、アル中?・・・うっふっふ。シンちゃん言ってくれたわね。もう、こうなったら、再教育が必要ね」
 唐突に、ふっ、と落ちた煙草の火が消えた。気まずいのは僕であり。
「み、ミサトさん!だいじょうぶです!ええ、僕は、立派に大丈夫ですよ。ほら、ラジオたいそうだってできちゃいます。煙草の火も消えた事だし、朝ご飯にしましょう。何しろ、朝ご飯は一日の元気のみなもとです!ベーコンエッグはカリカリでしたね。それとも、朝風呂は如何ですか?お湯を張りに浴室へ行かないと・・・」
「・・・あ、リツコー?えー?まだ寝てたのー?・・・そんな事いーじないのー。あははははは。それより、シンちゃんが・・・」
「みみみみミサトさん!ごめんなさい!実は、昨日、妙にハイになってて、ビールを飲んだのは僕です!でも、二つだけですよ。本当です!」
 ほっほー、とミサトさんは肯いた。頬にチックが見えていた。僕は、懇願する。ミサトさんは素早くポケットフォンを手にしていた。それは何処か早撃ちに似ており。ここで、技術力だけはナンバー1である母さん・・・リツコさんが出て来る事は、ややこしくなると言うことにほかならなく。僕は、御免被りたくて堪らない。誰か、ほかに人体改造が好きな人でも募ってもらたい!
「さ、三本ですよ。やだなー。中学生がちょっとした好奇心から飲酒をするなんて、良くある話じゃないですか。理解あるおねーさん、そのミサトさんがまさかそんな事でうろたえてどうするんですか。僕に飲酒を薦めたのは、ミサトさんだって事、忘れたわけじゃないでしょ?まさか、ほんの14才。まだ、未成年のしかもローティーンに向かって、常習犯みたいに見られるのって苦痛です!苦痛そのものです!えーと。さあ、僕は掃除の続きだったな。それもまだ窓拭きが終わってないんですよね。あっ、お風呂にお湯をはりますから、ミサトさんは・・・」
「逃がすもんですか!この不良め、今日こそは総括してあげるわ!」
「い、いやだなあ。まさか、僕が逃げようしているだなんて、そんなふうに思われてるなんて・・・傷つきました。立ち直れない深い空洞に落ち込みました。ミサトさんがそんな目で僕をみているなんて・・・」
 三十六計逃げるにしかず。そんな場面は僕の場合にはよくあるものであり。
 ベランダから忍び足で背の高い、ミサトさんの脇を通り抜けようとした。ボソリと妙に低い声が聞こえた。「シンちゃん」と、僕の事を呼んでいた。突然に足が硬直した。不動金縛りそのものだった。ぎくりと筋肉が硬直し、ぎし、とも言わない。
「訓練したくてたまらないの?そう・・・」
「ぼ、僕が?あっはっは、まさか・・・。誰が好き好んで戦闘訓練をしたがる中学二年生がいるものですか。ただ僕は、つまり、誤解であって・・・」
「そう」
「・・・今日は、ネルフよ」
 え?と、間の抜けた返答をした。
「射撃の訓練。パレットガンを用いたシミュレーションを行います」
 横暴だ!と、叫びたかった。
「横暴です!今日は、待機も掛かっていない普通のごくごく一般的な休日を満喫できるところの休日、それも日曜日そのものです!労働基準局はいったいどーしたんですか!僕にだって休む権利があります!」
「命令の拒否は認めません。本日14:00よりシミュレーション訓練を行います」
 決然として、ミサトさんはそう言った。



 郊外の寂れたマンション群だった。奇妙な既視感は常のもので。明らかに時間を遡っている事を認識させられる。辺りには取り壊し工事の機械の音が響いており、こんなところにたった一人で住んでいる少女の事を考えざるをえない。真夜中に見る日本人形のような謂れの無い狂的な空間であるように感じた。総毛立つのを止められなかった。
 およそ、これほど無気質な風景は無かった。まるで、全ての木々を伐採した後の禿山のように荒涼としていた。
 僕はと言えば、ポケットの中の一枚のカードを想い浮かべて心そぞろであり。殆ど、不埒と化していた。塊といっていいほどの緊張に包まれているワケで。
 ゴーン、ゴーン、ゴーン。どこかで工事の音が聞こえる。ここは再開発地区であり、こんな寂れたマンション群であり、その破砕の音がマンションを飲み込むのは、まったく不自然さというものが無いのだ。たちまちにして、まあるい、巨岩そのものの破砕機でもって、数度の打撃で酸性雨によって蕩けたコンクリートは粉微塵となるに違いなく。
 太陽はいまだ頭上にあり、ご機嫌だった。
 肩が落ちようというものだった。このマンションの402号室には綾波が居るのだ。あの、うすよごれたマンションの、その一室で、簡素な、なにか病院を思わせるパイプベッドと、血塗れた包帯の詰まったダンボール。壁紙のないじかのコンクリートの壁・・・。
 そんな中にポーっとして、いるのだろうか?
 まったくの感情のないような無表情であり、服は学校の制服が数着というだけで。
 コップがわりのビーカーに、栄養薬らしきラベルの錠剤。
 壊れた眼鏡に一冊のダイアリー。
 綾波って、可愛いな。と、僕は思った。まるで、突然ひらめいた、そんな電撃ショックの唐突さで僕は綾波のマンションを見る。
「碇君?」と、呼ばれたことに気がつかない圧倒的ショックに違いなく。
 僕が、そこにお下げの彼女を見つける為には、彼女が僕の注意をかなり引く必要があり。肩を叩かれると、僕は弾けるように彼女を視界に入れた。タータンチェックの膝上のスカートに無地のブラウスを着ていた。
「ヒカリ・・・」
 僕がつぶやいたのは、それだけで。それが全てであって。
「え?」と、怪訝そうに眉を潜めた。可愛い一重が僕を見つめる。親しげに名前で呼ぶようなそんな仲ではない、というこわばった笑みを浮かべている。
 彼女を抱きしめたかった・・・。彼女の、その切れ長で、クリスタルそのものの瞳を独占したかった。
 力づくで彼女を奪い、僕のヒカリにしたい。
 彼女は、お弁当作ってきたわ、とはにかんで言うのだ。家庭的でお茶のいれかたがうまくて。
 彼女は僕の上に座ると、わたしたち一つよね、と言うのだ。彼女との交わりはそうやって始まる。互いに肌を知りあった仲でも、けして殿方の目の前で着替えたりしない。そんな女なのだ。朝には、必ず僕よりも早くに目を覚まして僕の大好きなナメコの味噌汁を作ってくれる。僕の好みを覚えて、けして忘れない。半熟卵のほうが卵焼きよりも好きだと知っているのだ・・・。
「洞木さん」
 僕は、そう言い直した。怪訝な面持ちがややかすれると、いつもの彼女の笑顔があった。
「どうしたの、碇君。こんなところで」
 わずかな緊張を感じた。それは、そのまま溝となるようで。
「ちょっと、綾波に、ね。洞木さんは?」
「あ、わたしは、溜まっていたプリントを届けようと思って・・・。綾波さん、ここのとこしばらく休んでいたでしょ。この間、学校にきたとき、やっと渡せるかと思ったんだけど・・・。机に入れていた分も、全部残っていたし・・・突然の警報でしょ。碇君だって、昨日まで休んでいたし・・・」
「ちょっと、野暮用で。・・・綾波、学校ずっと休んでたんだ。知らなかったな」
「碇君が転校してきてから、少し出てきてたのが久しぶりだったのよ。あの怪我、いったいどうしたのかしら、心配だわ。ここ二ヶ月まえくらいかしら、学校来なくなってたの」
「そんなに?・・・確かに包帯だらけだった。僕は、事故だったって聞いたよ」
「事故?」
 ヒカリは外していた瞳を僕に向けた。とり壊されていく建築物の何かを望んでいたような、瞳が憂いに揺れている。セミの合唱が耳うるさいくらいだった。かすかな風が、ヒカリの黒髪を撫でる。ポニーテールがなびく程度である。
 僕は、何故か饒舌になる。それは、ヒカリへの愛情ゆえなのだろうか。ともすれば、荒波のようになりつつある胸をなだめながら、ヒカリを見つめ続けていた。ーーー僕の女、というフレーズが脳裏にカルクボードのきらびやかさで縦に流れる。
 その未だ少女である彼女の肢体を抱きしめたい。
「碇君って、綾波さんの知りあい?」
 澄んだ黒曜石があった。それが、真剣なヒカリの瞳。
「うん」と、僕は答えた。
「僕が、あのロボット・・・正確には違うんだけどね、そのパイロットなんだ」
「綾波も、そう」
「僕らは、今、日本で二人きりの『チルドレン』」
「そう、呼ばれるパイロットなんだ」
 彼女はうつむいた。視線を外す。僕は、町の中に入り込むように、綾波のマンションに背を向けた。
 洞木さんが後方に、僕が歩いた分だけ遠くなる。
 ヒカリ、ヒカリ、ヒカリ・・・。

 ヒカリ・・・。


『たんぽぽ』の前を通る。
 喫茶店そのもののたたずまいは、洒落た内装を連想させるものであって。けして入りにくい場所ではないのだ。傷ついたときに羽を休めるとまり木みたいな気安さすら僕は感じる。ポケットの中のタバコのパッケージ。
 ドアベルが鳴る。がらんがらんと、ドアベルは鳴った。僕の中の空洞部分に反響し、虚空へとたなびき消える。そんな、寂寥が僕をいにょうしており。
 グリーンの無地のエプロン姿のマスターが、僕を迎えるはずで。
 僕は、ドアの前に準備中のプレートを見つけていた。多分、時間的に休憩時間に相当しているのだろう。
 そのまま、僕は郊外へと足を向ける。別に行く先に目処があったわけではなく。
 ただ、足に導かれるようにふらりとしていたに違いなく。
 僕は、いったい何をしているんだろう。ここは、僕の望む世界ではないのに。
  タバコのパッケージが薄くつぶれた。ぺしゃんこのクシャクシャになっていた。

 
「インダクションモード固定、いい?シンジ君。目標を良く狙って。標準が真ん中に重なったら、スイッチ・オン。じゃ、やってみて」
 目の前に使徒が現れた。三角形のがモニタ上でピピピと移動し、使徒の胸元の光球に重なる。僕が重なる。
 僕が、エントリープラグの中で希薄になる。


「バカシンジ!!」
 息を飲み飛びあがる。
 あれ?と、僕は思わず部屋を見回す。そこは僕の部屋のはずであり。そんな僕のぼうっとした頭を冷水を浴びせるみたいな過激なやり方で、つまり耳を引っ張りあげられたのは、目の端にふわりと流れる茜色の何かであって。
 僕は、唐突に、寝ぼけんな!と、その誰かに怒鳴られる。
「いまごろお目覚め?バカシンジ」
 ふんぞりかえったのは、アスカ以外の何者でもなく。
「何だアスカか、おやすみ・・・」
「こら!寝るなー!」
 布団を抵抗するまもなくはぎとられるんだ。
 ジジジ。ノイズが走る。
「きゃー!えっち、ちかん、へんたい!しんじらんないっ!」
 ビビビッ。歪む赤色の髪。
 ぴしー。ノイズ。
 唐突に変わる背景。
 それは、世界線を移動したにほかならなく。

 僕は、一人目を覚ます。
「ここは、何処かな」
 どこなんだろう。
 コポリ。と、息が頭上に流れる。電化したLCL。
 ジジッ。ノイズが走る。
 走る、ノイズ。



「てんこーせー!」
 え、と思って声に顔を向ける。薄い色の癖毛と、眼鏡、迷彩色の服が目に入る。手にはモデルガン。
 ケンスケだった。
「どうしたんだよ、こんな所で」と、ケンスケは何でもないように言う。
「いや、さっぱり何だかわからないんだ」僕は全く何がなんだかと言う状態であって。本当に混乱に見舞われていた。
「なんだよ、それ。ま、いーや。どうだい、オレんとこよってくか?」
 僕は、ただ肯いていた。


<続く>

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