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 第三新東京市ぱられるふぃーばー



 その8


 綾波の部屋までの記憶が欠乏していた。
 ともかく、僕は、どこをどうやってそこにいたったのかはともかくとして、当初の目的であるセキュリティーカードを渡しに戻ったらしい。
 どうも、そうらしい。
 既に僕は、玄関のドアを開け、中に侵入しているわけなのだが、つまり、そこに至るにあたって声をかけて入ったのか、そうでなくこっそりと入り込んだのかもまったく思い出せない。
 中に綾波が居たのか、居なかったのか。
 また、居たとしてどんな挨拶をしたのか。
 思い出せない。
 靴は入り口で脱いだようで、土足はしていなかった。
 何かの微粒子が舞う中を窓ごしの陽光が貫いてきりきりまいをさせていた。
 としても、当然ながら、きりきり舞いなどという踊りを踊るのにふさわしいのは、僕以外に無いはずであり。
 ベッドの横に小さい箪笥が在り、この一番上の引出には、綾波の下着がまとめていれられているのであって。
 どうしても周章狼狽した、そんな記憶がかすめ通る。
 淡い雪のような綾波が僕の背後に立ち、飾り気の無いバスタオルを首に巻いて、きょとんと僕を見、瞳を瞬かせる。なんて、そんな情景が、つまびらかに思い出されてしまうのだった。
 その上には・・・。
 はたして、むき出しに、無造作に置かれた眼鏡が置かれていた。
 それは、父さんの眼鏡であった事を何故か、僕は想起せずにいられない。
 思わず手にとってしげしげと眺めた。歪んだフレームと、ヒビの入った眼鏡のディティールは僕にとって、綾波を意味していた。
 それが、どういう事なのか、何てことは別に問題じゃなくて、ただ、この父さんの眼鏡のイメージを、綾波がいろいろな意味で、強く思っていた・・・。あれ?そんな記憶は僕には無いぞ!
 裸で膝を抱きしめる綾波のその横には光を透過しきらきらと輝くビーカー。
 のっぺりとした部屋。
 無表情。
「あれ?」
 綾波が僕のすべての視界を切って落し、様々な切り口であり、それは無数の窓を開き重なりあうように咲き乱れて行く。これ、綾波だよな。
 あ や な み。
 それは、以前見た、Windowsの錯乱に似ていた。黒衣の少女がくるくると回り、そして、僕に小首を傾げ微笑む。その連続した静止画はすべて咲き乱れ、重なりあうウチに連続写真の鮮明な動画として僕を熱望の渦に巻き込んだ。
 シンジはその少女の名前を暗い空のただなかで、ぽつりと輝きつづける若い星の様に、胸に灯らせていた。
 それは、どんなことがあろうとも迷いなく導く灯台の明かり。
 みゆき。
 轟とうなりを上げるように体中の毛穴から水蒸気を吹き出した、そんな苛烈なねつっぽいなにかに囲繞される。
 今、すべての視界に綾波が空間を切り咲くWindowsの幻視によりうめ尽くされた。
 そのなかであっても、瞬き続ける灯台の星は、うっそりとしたシンジの胸の奥底でキラキラと瑠璃色に燃えているのだった。
 空間を四角に切り割いて映像が結ばれる様は、Windowsと呼称するのがふさわしく。
 あのパソコンの画面で次々と重なりあうように表示される窓。
 それは、シンジの幻視では、そうとしか表現できない、完全な異空間であり、隔絶された別世界のもので、明らかに夢幻とは一線を隔していた。
 つまり、この眼前で展開される綾波は、すべて綾波そのものであって、その時々の綾波そのままであることを、僕は悟らずに居られなかった・・・。
 幻視そのものが、いったいどのくらい時間が掛かるとか、そういう事は良く解らないのだけど、僕が完全に世界から切り離された状態で、老人性の痴呆のように時間の概念が失われているに等しく。
 そのまま、じっと忘失しかけた様で、何分、もしくは、一時間から数時間か、時間が経っているのかは解らないが、不意に握られた手の感触は現実的な温もりを持っていた。
 無数の展開する窓がぴたりと留まり、全ての綾波が僕を見つめていた。
 その角膜が収縮し、焦点が合い、僕を見つめている事を知った。
「碇君」
 展開する窓のその全てに映る、陽に一度も焼かれた事の無い青白いぬめりを帯びたような肌、綾波レイが迫る。
 狂気。
 僕は、狂い掛けているのかな?
 いかりくん。
 全てのWindowsは近づくにつれ、一つに結ばれ巨大化した。
 もはや一人の綾波の、その瞳が眼前に迫り、首から上が間近で見つめあうように、僕を覗き込んでいた。
 ぬっとのびた手が、僕を抱いていた。
 息をするのも忘れ、あまやかな甘美感が広がるのを僕は知った。
 僕は、幻視ではなく現実の綾波を両手に抱いていた。
「あ、その・・・」
 ぎゅっと子供がしがみつくみたいに両手を僕の体に絡ませて、彼女は頬をこすりつけていたのであって。
 僕が、その幻視から現在へのとてつもない隔たりのあるなかで、邂逅をした、などと考えるまでには遠い、遠い、恐るべき距離が開かれていたのであって。
 やわらかな女の肌の匂いに蒸せあがった。
 すべてが、やわやわとまとわり付いてくるような快感だった。
 それは、僕が知っているものとはやはり、何処か違っていた。
 僕の女性経験はたったひとり、ヒカリに尽きる。
 ヒカリを抱きしめた時は、心地好い弾力と、太陽みたいな匂いがしたものだった。
 ・・・ヒカリのみが僕の女、そのものであるはずであり。
 しかし、僕はその甘美感にあらがうことはできなかった。
 許されない不実であるにも関らず、僕にはこのいたいけな少女をみすてる事はきっとできないであろう。そんな、予感めいた物に縛られていた。
 綾波の肌はしっとりと濡れそぼっていた。
 高熱に浮かされるような熱さに火照っているようで、それは僕も同じであり。
 僕は、両目をぐっと閉じると、両手に力を込め貪るように、彼女を抱きしめた。
 体が、芯が蕩けたように力が抜けていた。
 ぐっと持ちあがる力強さに総てが流されそうになる。
 油汗がにじむ中で、震え、僕は体中の神経を両腕に集中した。
 ぞっとするような温もりであり、僕はあらゆる意味で、自分の体温を塗り込めたい誘惑に駆られそうになる。
 綾波は、裸だった。
「あの・・・」
 いけないいけない。
 それは、狂奔する牛、だった。
 あー!と、口腔を最大に広げて叫び出したい衝動に駆られた。
 全身の細胞のそのひとつひとつが、まとわりつくようなこのやわらかな肢体に、くるみ込まれる快感を予想して身じろぎをしているのだ。
 触れあう中から、僕等は、あのとてつもない、声をかわしあった。

 いかりくん

<綾波の声が胸の内で響いていた>

 おもいだしたわ

 おもいだした?

 そう

 ぼくのこと?

 そうよ、あなたのことを

 ?

<それは、想、起、私、出、貴方、と総てが同時に流れ込んでくるようであった>

 あなたはここで眼鏡を掛けていたわ
 でもそれはわたしの大切な物だった
 わたしはとりかえそうと近寄り
 あなたから眼鏡を取り上げた
 でも、あなた、碇君はそんなわたしに動転して
 転んだ拍子につめたい床で

<それは>

「それは」
 左手が感触をおぼえていた。
 やわらかなそれは、女の胸の隆起以外のなにものでもない。
 ただそれだけだが、それほどのものは無いと思う。
 唐突に、ヒカリの程よい胸のその谷間に顔を埋めて眠った事を想い出した。
 ヒカリの肌は健康的な魅力で、押せば弾くような弾力に包まれていた。
 その胸はとても居心地が良かった。仰向けになっても形が少しも崩れないような硬さが心地好かった。両手でこねまわすにも、こねまわしがいという物があったのであり。
 覚えている綾波の胸は、それよりも遥かにやわらかかった。ねっとりと吸いつくような肌だった。
 僕はそれを確かめたくて、抱いた腕から手を滑らせ撫で上げた。
 思った通りの触感だった。腰からお尻に掛けての曲線が、総てがいとおしかった。
 それは、綾波から流れてくる熱っぽい想念がそうさせているのか、ともかくよくはわからないけれども、僕からも先程考えた事についても総て流れ込んでいるのだろうか、と考えると何か、とても済まない気持ちがあふれた。
 僕は、女をそんなに知っているわけではないから、だから綾波を抱きながら、ヒカリと比べるような事を思わず考えてしまったのだ。そのことが彼女に知られており、僕がヒカリ、と思い出すその総てが白熱灯の輝きをまとっているということも、僕に跳ね返る木魂のような思念から理解する。
 それでも、と綾波から僕へ、言葉が入り込む。
 それは僕をとてもいたわっていた。
 これほどはないと言うほど、多分、僕が今まで聞いた中で一番優しい言葉のイメージだった。
 綾波の思念は、淡い青色を帯びており端端が薄桃色に時折変化する。
 ボヘミアンガラスの様に繊細で、触れればたちまち汚れてしまいそうな危うさに満ちた美しさだった。
 手折れそうな、そんな脆さと、同義の、美しさであって。
 自分はまるで、コールタールみたいにどろどろと汚い渦で煮こごった人間だ。

<あなたはわたしにわらうことをおしえたわ>

 ちがうんだ

<それはとてもとてもきもちのいいこと>

 ぼくはけがれている

<ちがうちがうあなたはとてもあたたかい>

 ぼくはそんなんじゃないんだ

<あなたはちょくりつするきのようにまっすぐだわ>

 ちがうんだ
 ぼくはまっくろによごれている

<あなたはじゅんすいだわ>

 ・・・。

<あなたはつよいひかりをともなっているとてもあたたかいそんざい>

 ぼくはよわい
 ぼくはだれにもかてないんだ
 どんなにがんばってももっとすごいやつがいっぱいいる

<あなたはだれにもまけないものをもっているわ>

 それはなんだろう
 ぼくはひととはちがうぼくといういきものだ
 こりつしたただいっぴきのけむくじゃらの・・・

<あなたはけだかくうつくしいいきものなのよ>

 ぼくはちだまりにころがったしたいのようにむきりょくで
 じぶんのことしかかんがえられないほどきょうりょうで
 はじしらずなみさかいがないおんなずきで
 だからほらこんなにきれいなきみにどすぐろいよくぼうをかんじている

<わたしはあなたがすき>

 しんじられない

<あなたはなんどでもわたしにあいにやってくる>

 でもきみはいなくなってしまった!
 きみはすべてをつくり
 きみはきえた
 きみはきえた
 きみはきえた
 きみはきえた
   ・
   ・
   ・

<ダメ!碇君!!>

 するどい針のような想念に打ちのめされた。
 綾波の意識は激しく喚起した。
 僕は、雷に打たれたかのように、はっとした。
 僕はここへ至る前に、ヒカリと会わなかったか。
 いつ、ここに居たのか。

<ああっ、碇君。あなたは私に今すぐにあわなくてはいけない。直ちにあなたは私の元へ向かわなくてはいけない>

「綾波!?」

<あの娘はわたしがあなたをのぞむように、あなたを待っている。波に巻かれる小船のようにとても不安定な状態に追い込まれている>

<もう、時間が無いわ!>

<・・・碇君、楽しかったわ>

「待って!」

 綾波の温もりが消える。
 それは粒子状の光のようにさらさらと流れ、僕は部屋で目覚めていた。
 それが、夢だったのか、どこからが夢だったのかも解らず、僕は覚めやらぬ思いに汗を吹き出していた。ティーシャツと短パンを身につけていた。それは、汗で湿っていた。
 枕元の丸い目覚まし時計をつかみ、目の前で時間を確かめた。
 まるで、何でこんな時間にベッドに入っているのか理解できない。
 時計は、にわかに4時を示していた。
 何かを忘れているようなもどかしさに急きたてられ、僕は起きあがると制服のズボンのポケットを探した。
 指にあたる感触で、リツコさんに頼まれた事を思い出した。
 綾波のセキュリティカードだった。
 僕はそれを指でつまんでとりだした。
 無表情な綾波がじっとこちらを向いていた。
 それは、ふっと微笑むと小さく手を振り出した。
 想わず声を漏らしそうになり、まじまじとカードの写真を見つめる。
 まぼろしを見たのか、僕は眼をこすった。
 どのようにしてみても、そのカードの写真が動き出すなんて事はありえないはずで。
 キツネにつままれたように、僕はカードを机の上に置くと、服を着替えた。
 洗いざらしの固いジーンズと、Tシャツを着替えた。
 そしてポケットにそのカードを大事にしまうと、急に忘れては行けないはずの恐ろしい事を思いだした。僕はまがった鉄砲玉のように飛び出した。
 超高熱で焼かれる激痛が想起された。
 ねっとりとした大量の湿気を含んだ夏の大気がまとわりつき、悪夢のように手足に絡みつき力を根こそぎにして行く。
 僕は、走った。


<続く>

<第9話へ>




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