夢窓国師二十三問答より(二)
本源の心
池部素子
これがもし、違うところから出てきた実在世界ってものが、幾つもあるんだったら、人間は肺臓で息していますけれど、もしか気まぐれな実在があったら、くたびれたといったら「息は当分の間止めとこうじゃないか」なんて言うかも知れない。胃の腑に入って行くもんだけど、それがそうでなくて、どういう風になって消化作用が行われるか。また内臓の構造が違うかも知れない。
十人百千万人、人間である限りはみんな同じような所作事で、この身が保たれている。そういった、一つに統一されているもの。それだから、この全宇宙は、一つに統一された本源があるわけです。それがなかったら、この唯一の統一体っていうものが成り立たない。そういう不思議な本源と二つあるっていうこと。
「一つには白き黒きを知り、西東をわきまえ、よろず物を思いはかる心なり。その心はまことの心にはあらず、かりにその身にやどるなり。されば身につくる故に」。身に付いているから、身がなくなったら、その心もなくなる。「時々の程いできて、又うつりかわりうせて、しばらくもとどまることなし」。
それだから、今日は仲がいい友達だって言っていても、明日はそろばん勘定
合わなくなると、もうにらみ合いになりましょう。そういった、まことに当てにならないもの。よく自分自身でも、信じられないとか、当てにならないとか言いますね。そういったはかない心。
流れている水は、続いてるように見えるけど、もう先へ流れていった水は、流れて、あとからの水は、もう先の水とは別の水である。
ともしびも、炎がいつまでも続いているようなけど、薪とか油の力があって続いているんで、前の炎は消えて、あとの炎がそれに続いているだけの話。
本当に、この人世の移り変わりの中に働いているものは、一切が、これ続いているので、そのものではない。
人間の息も、これ、今吐いた息と、吸う息と、その次の吐いた息、吸う息、これは別のものです。生まれて、死んで、生まれて、死んでしているわけです。刻々に生死が繰り返されているわけです。この毛穴からも息をして、新陳代謝しているし、今日の私と明日の私は同じように思っているけど、ただ意識が、ざっとそう思っているだけで、別である、という。
そういった心と、二つ目には、「我よ、人よの隔てもなく」。自分だ、人だ、っていう、隔てがない。そして、また、一念おこして、いいとか、悪いとか、そういうことも思わない心。 「生かしてやっている」って言うたのを聞いたことがない。黙って生かしてくれてる。姿を見たこともない。「おぎゃ」って言って生まれる以前から、本当に、親の胎内に宿って、最後の息が切れるまで、この私に付きに付いて、私を生かしてくれているけれど、ちっとも恩に着せられたこともなければ、姿を見たこともない、そういうお方。
然し、見えないけれど、それは確かにあるに違いない。この心は、この宇宙いっぱいに、いけいけのものであって、誰と言って、主であると言って、言われるものもない。また、出てくることも、消え失せることもない。移り変わることもない。しかも、誰も彼もの中に、それは生きて働いている。これが仏心というものである、と言う。みんな一つのいのちである
◯ ◯ ◯ ◯ ◯
みんな一つの
いのち(カミ)である
池部康白
大空一如を憶念していると、あの青空が自分の霊だという気がしてくる。黒住教祖の
「あめつちの心はおのが心なり。
余所にこゝろのあると思うな」
と云う歌がおもい浮かんで来る。
自分が見ている世界は、自分の心が見る世界で、自分の心が映し出した世界である。あらゆる物は、自分のいのちの延長である。青空も、樹々も、草花も、みんな自分のいのちと一つである。
この一つから、おのづからなる法則が生じて、調和を破壊する念いは、人々を不幸にし、苦しめるのである。つまり、利己主義の心を起こしたり、高慢な心を起こしたり、恐怖したり、不平に思ったり、他人を憎んだり、恨んだり、悪口して批評しては、うっぷんをはらしたり、持ち越し苦労や、取り越し苦労で、心を痛めたり、また、自己憐愍の感情に囚われたり、自卑の心で、ヤケクソになって、他に迷惑をかけたりするから、自分で自分自身を破壊する運命に突き落としているのである。
現象顕現の法則は、身・口・意の三業因によるから、結局、現象世界は心の影ということになる。
従って、最も大切なことは、想念を、いつも明るく、積極的に保つように心懸けることである。而も、人間は、外観の不快さに心を奪われがちで、実相を観ることが却ってすくない。要するに、霊的進歩を遂げるために、是非とも、神との一体感を深めることが必要であるから、自今念仏三昧を行修
しようと思う。
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