わたしがこのメイルマガジンに投稿したいと思うのは単に面白いからではない。もちろん面白いし、自分が参加してより活性化するなら楽しいことであろう。だが、わたしが求めるものはそれだけでは断じてない。
革命・・・
そう、わたしは日本語という言葉に革命、いや日本語という概念を消し去ってしまいたいのだ。世間的には俵万智、個人的には椙山大の加藤主税教授など日本語保守派が全面的に良しとされる昨今の風潮であるがそれは果たして良いことなのだろうか?
ある新聞に「最近は日本語が乱れている」という書評が載っていた。だが「乱れる」ことの何が悪いのだろうか?それを論ぜずして先に方向性を置く行為はわたしには非常に危険な行動、盲目的、洗脳的にさえ見えるのだ。
言葉の用法が変移すること自体は少しも悪いことではないしむしろ我々が言葉を使って発展してきたこと、これからもそれを続けようと思う限り、言語空間の広がりに伴って変わらなければいけないだろう。だから本当の問題はその用法の広がりが一様でないことにあるのだ。
ネットに代表されるように時代は情報化社会へと足を踏み入れた。多くの知識人が想像するよりもかなり早く、そして急いだ分のギャップはいろいろ出ているわけであるがここでは他には目を瞑り特に情報の価値の相対的暴落に目をむけよう。
我々は今日を生きる為に働くようなことはあまりしない。大概の活動は明日のことも考慮に入れ、ひいては一生をどう過ごすかということを考えた上で今働く。そしてそのためには情報の扱いが重要である。我々は先を見る為に情報を収集する努力を払ってきた。そしてそれはメディアというものを生み出し我々はそれを崇拝させられていたのだ。
だが、それももう昔の話である。このネットという空間においてはどれだけ情報を取捨選択できるかが重要である。ネットではありとあらゆる情報がとても速いスピードで流れている。その情報をいままでの価値観で眺めていてはとても追いつかない。素早く本当に重要なものだけを選んで、そうして初めて適量が得られるといっても良い。つまり情報というものが与えられるものではなく個々の選択する権利内の出来事になってしまったのである。
そして言葉と情報の関係は切っても切れないものである。ある一つ情報の形態が一つの言葉の用法に集約されれば非常にわかりやすい。だれもがその用法で一つの働きを指すのだから。ところがアプローチ権が個に移った今では用法の解釈 は多様化している。そこで必要なのは決して「時間的一貫性」ではない!必要なのは我々を原点とする繋がりを持ちうる範囲に同様の言語空間を置こうとする働きでありそれが先に置かれてこその一貫性である。
ただ、そこに含まれる落とし穴にも気がついて欲しい。言葉とは、元来上で述べたことが主になるわけであるが、だからこそ、「多様な解釈」があり、それが豊穣を生むということに!
我々がするのは乱れなのか、豊穣なのか。そう、それを考えて欲しいからわたしは投稿する。
