57-4 「〔(キ)自然法〕への帰依と並んで、これと同じように深遠ではあるが、論理的には矛盾するもう1つの確信も発達してきた。つまり、〔(ウ)人民〕こそがあらゆる正当な権力の淵源であり、政府は〔(ウ)人民〕の代理人であり、〔(ウ)人民〕は多数決により自己を表現して、その意志を実施に移す権利をもっているという確信がそれである。この〔(キ)自然法〕思想と〔(オ)人民主権〕思想との両面的価値が、〔(エ)個人の自由〕に関する諸問題を処理する際に最高裁判所が果たすべき適切な役割をどこに限定すべきかと言う問題を絶えず提起してきた。〔(ア)立法府〕は、州の場合であれ、連邦の場合であれ、いずれも〔(オ)人民主権〕の主題を表現する。他方、最高裁判所は、個人の利益のために憲法上の権限を執行するとき、〔(キ)自然法〕を語る声となる。憲法解釈の問題では、〔(イ)司法府〕に優越性が与えられているのだから、2つの相対立する主題間の衡量を、どこで、またどのようにして行うべきかを決定するものもまた最高裁判所である。これらの問題は、〔(ク)司法の方法〕に関するものであって分析は複雑なものになるが、しかし、根底的には、この解答によって、統治の仕事のうちどれほどが〔(ケ)政治過程〕と〔(ウ)人民〕に留保されるべきであり、また、どれほどが憲法のなのもとで裁判官たちに、そして究極的には合衆国最高裁判所に与えられるべきか決定される。」

57-25 「〔4国家〕秩序の一般の段階では、力は〔1法〕特に〔2憲法〕によって規律される。権力が権力として発動するためには、まず〔 2憲法〕によって組織された〔2憲法〕は、〔2憲法〕の認証を受けなければならない。この〔3 権力〕によって組織された〔1法〕は、〔3権力〕の下にある。この種の〔3権力〕は〔2憲法〕に背いて行使されることはできない。これに対して、〔4国家〕秩序の最高の段階においては、〔1法〕の上に力がある。その最高の力は、もはやいかなる〔1法〕によっても拘束されない。それは万能の力である。〔2憲法〕もまた、この万能の力によって作り出されたのである。この権力を憲法制定権力という。」

57-28 「法的規制措置の〔3必要性〕の有無や法的規制措置の対象・手段・態様などを判断するに当たっては、その対象となる社会経済の実態についての正確な〔4基礎資料〕が必要であり、具体的な法的規制措置が現実の社会経済にどのような影響を及ぼすのか、その利害得失を洞察するとともに、広く社会経済政策全体との調和を考慮する等、相互に関連する諸条件について適正な〔5評価と判断〕が必要であって、このような〔4基礎資料〕の〔5評価と判断〕は、まさに立法府の〔2使命〕とするところであり、立法府こそがその機能を果たす適格を備えた国家機関であるというべきである。」

57-43 「日本国憲法は、その基本原則の一つとして、三権分立制度を採用し、立法権は国会に、行政権は内閣に、司法権は裁判所に、それぞれ属するものとしている。〔A3このことは憲法自体が、立法・行政・司法に一定の意味・内容を予定し、これを行う権限を、それぞれの特質に応じ、別個の機関に分属させることを意図したものということができる。そこでいう立法権・行政権・司法権の意味・内容を明らかにすることは、憲法の解釈適用の上からいっても、必要欠くべからざるところといわなければならない。〕そして、〔B1立法権・行政権・司法権というのは、各国家機関が、それぞれ、立法・行政・司法を行う権限を意味するのであるから、そこでいう立法・行政・司法とは、いかなる作用であるかを明らかにしなければならない。〕ところで、〔C5ここで行政権といい司法権というのは、憲法自体が予定した一定の意味・内容を持った行政を行う権限及び司法を行う権限を意味するといってよい。憲法は、行政と司法とが、それぞれ異なった性質の作用であるからこそ、それぞれ別個の機関の権限に属させることにしているものと解されるのである。〕もちろん、〔D4行政と司法との間には、種々の類似点もあり、その区別の限界は必ずしも明瞭とはいえない。〕しかし、〔E2その区別の存在を否定することはできず、憲法もまた、この区別を前提として、前述の規定を設けているものといわなければならない。

57-46 「〔A3日本国憲法第76条第1項(司法権)の規定は、第41条(国会)、第65条(行政権)とあいまって、国家の統治機構についていわゆる三権分立の制度を採ることを定めるとともに、司法権が裁判所に専属することを定めたものであることは明らかである。〕しかし、〔B5日本国憲法には、司法権の意義・範囲について直接具体的に定めた規定はないから、司法権の意義については、従来の観念に従ったものと解される。〕すなわち、〔C2司法権は、基本的には具体的な法律上の争訟について法を適用して、ある事項の適法・違法を確定し、または具体的な権利義務の関係を確定する作用を行う権限であると解される。〕ところで、〔D4日本国憲法には、第32条(裁判を受ける権利)、第76条第2項(特別裁判所の禁止)、第81条(法令審査権)の各規定が存在し、他方、大日本帝国憲法第61条(行政裁判所)のような規定がない。〕したがって、〔E1法律上の争訟には、民事・刑事事件の他、行政事件も含むものと解される。

57-70 「法の生命は〔3論理〕ではなかった。それは〔5経験〕であった。その時代に感じられている要求、その時に有力である道徳的・政治的理論、意識的または無意識的な公の秩序についての〔4直感〕、更に裁判官がその同僚と共有している〔2偏見〕すら、人間を支配するルールを決定する際に、三段論法よりもはるかに重要であった。法は幾世紀にもわたる国民の発展史を具体的にあらわしているのであって、数学の書物の中にあるような公理や系のみがからなるかのごとく取り扱うことはできない。法が何であるかを知るためには、我々は法が何であったか、何になろうとしているかを知らなければならない。

57-73 保留

58-7 「軌道法の規定によれば、軌道を敷設して経営する運輸事業(以下「軌道事業」という)は、その経営権が国に留保されているところのいわゆる公企業の一種であるとの建前の下に、国以外のものがこれを経営することを得るためには、主務大臣の特許を受けることが必要とされているのであるが、〔A3国が軌道事業の経営権を自己の手に留保することが公共の福祉の見地から憲法の容認するところと解される〕以上、〔B4軌道事業の基本的な正確に縁由するものと合理的に認められる一定限度の義務負担を軌道事業の経営権と一体不可離のものとして、国が一方的に軌道経営者の地位を特定することもまた、国の権能に属するものと解されるし、また、軌道事業の経営権が特許を受けることによって国から与えられるものである以上、それは、軌道事業を経営しようとするものの申請を前提として、言い換えれば、その者の意志に基づいてのみ与えられるものであるといえる〕ことは当然である。してみれば、〔C1軌道事業の経営をしようとする者は、国によって特定された、このような軌道経営者の地位をその意志に基づいて取得するものである〕と解することができるであろう。したがってもし、〔D5軌道法第九条の規定によって、軌道経営者が国に対して負う特別負担の義務が、このような軌道経営者の地位を構成する要素として理解されるならば、この規定が日本国憲法第29条第3項の規定に抵触するかどうかという問題を生ずる余地はない〕であろう。けだし、〔E2日本国憲法第29条第3項の規定は、「私有財産は、正当な保障の下に、これを公共のために用ひることができる。」と規定しているが、この規定において私有財産を公共のために用いるということは、国が一方的な意志によってするものを意味するものである〕ことは、明らかであるからである。」

58-22 
 〔A統治行為〕という観念の母国はフランスだといわれていますが、その内容は時代とともにいろいろな変遷がありますけれども、次第にその範囲は狭くなってきているようですし、イギリスあたりでも、これと同様の観念は国王の大権に基礎をもつといわれています。そうすると、〔a統治行為〕というものは昔の絶対主義あるいは官僚国家の残存物という感じがするのですが、どうなんでしょうか
 次第に〔b権力分立〕の考え方が定着し、制度的に整備されてきたけれども、すべてが完全に分かれきってしまわないで根本に残った部分があるのではないかということですね。しかし民主主義の国家の場合でも、最終的な主権者である国民そのものに留保されていると考えるべき権力作用が残っていると考えれば、必ずしも〔c統治行為〕の考え方が行政権専断の名残であるともいえないのではないでしょうか。
 私は、〔d統治行為〕というものは、〔e権力分立〕の外にあるというより、やはり一般にいわれているように〔f権力分立〕の原理そのものから出てくるものだと思います。国の運営に関する基本的な事項の決定は、国民の意思を代表し国民からデモクラティックなコントロールを受けている機関に専断的に委ねられていると考えるのが憲法のもっとも基本的な原理である〔g国民主権主義〕に沿い、〔h権力分立〕の原理の要請するところだと考えています。
 裁判所の制度や訴訟手続きも、個人の権利や財産の保護を目的として発達整備されてきたものであって、このような政治的問題の解決には適していないですし、裁判官に強力な身分保障があってどこにも責任を負わない建前になっていることも、〔i統治行為〕を考える上で見逃せないでしょうね。このような問題については、裁判所に〔j違憲審査権〕の行使を認めるとしても、立法府や行政府の逸脱が極めて明白な場合に限るべきだと思います。」

58-28 「〔思想〕、所信又は感情に与えられる保護は、その意味が〔公開〕の阻止にある限りにおいて、ひとりにしておいてもらうという〔個人〕の一般的な権利の実現の一例にすぎない。それは暴行又は殴打をされない権利、〔拘禁〕されない権利、悪意をもって訴追されない権利、〔名誉〕を傷つけられない権利のようなものである。〔個人〕的な文書その他すべての〔個人〕的な作品をあらゆる形式における〔公開〕から保護する原則は、人格の不可侵の原則である。」

58-40 「もちろん、〔A2自由権と社会権は、その思想において基本的相違のあることも事実であるし、よって立つ価値観もかなり異なるものがある。また、その保障に際して相対立することも事実であって、特に経済活動の自由と社会権の関係は、一方を保障しようとすればそれだけ他方が制限されるという関係にある〕。しかし、〔B4日本国憲法は、かかる両権利を並べて保障し、調整・調和させる建前に立っている。自由権と社会権の両者を調和せしめ、両立せしめることが可能なのは、やはりこれらが究極的には同じ原理、同じ目的に立つからであろう〕。その意味で、〔C5社会権の保障も、国家が国民の生活をすべて保障し、すべて国民がその生活を国家に委ね、それを国家の責任にするというものではなく、あくまで個人の尊厳と自由に基づいて、個人の幸福はその個人自らの意志と責任において選択し、追及するものである〕ことを原則とし、〔D1ただ、そのために必要な物的条件が欠ける場合、国家がそれを補い、それを請求しうることを権利としたもので、そのことによって本来の自由の原理が生かさせる性質のものといえよう〕このようにみれば、〔E3自由権と社会権の区別は、内容的には相対的なもので、絶対的なものではないということができる

58-49 「議会の〔(ウ)意思〕が〔(ア)多数決〕で決せられるということは、必ずしもその〔(ウ)意思〕の成立のために総議員の〔(イ)過半数〕の〔(ウ)意思〕の一致が必要だという意味ではない。多くの場合においては、表決に際して投ぜられた〔(エ)有効投票〕の〔(イ)過半数〕によってその議会の〔(ウ)意思〕が決せられるとされる。そして、議員は、必ずしも表決に際して〔(エ)有効投票〕を投ずるように法律的に義務付けられているわけではなく、あるいは会議に欠席することにより、あるいはそこに出席しても棄権することにより、〔(エ)有効投票〕を投じない自由を与えられている。その結果として、〔(ア)多数決〕においてもその合議体の〔(ウ)意思〕の内容を構成する者は、必ずしも常に議員の多数者の〔(ウ)意思〕の内容ではなく、むしろその少数者の〔(ウ)意思〕の内容である場合も少なくない。」

59-4 「〔〕