(1)「因幡・伯耆のみち」
まずは大前提を確認。
鳥取県の東半分が因幡、西半分が伯耆(ほうき)である。
米子を中心とする伯耆は、地勢的には西の出雲と関係が深いため、鳥取県でも西と東で随分と性格が異なるとは、よく聞く話だ。
話がずれるようだが、島根県の津和野は山陰の小京都として有名で、幕末・明治期には西周、森鴎外なんて有名人を輩出している。この津和野は江戸期のほとんどを亀井家が拝領していたのだが、この家の祖亀井茲矩の時代は、因幡の鹿野を領していたらしい。
豊臣政権下で鹿野の領有権を与えられた亀井茲矩は、戦国武将としての知名度はかなり低いが、それもそのはず、元々が織田、豊臣、徳川といったメジャーリーグに所属していた武将ではないという。あの尼子家再興の運動で有名な山中鹿介の娘婿として、彼と行動を共にしていたらしい。山中鹿介は言わば織田家による中国攻めで、不運にも捨て駒にされたが、尼子再興軍の一部を率いていた亀井茲矩は、当時、秀吉と行動を共にしていた為、上月城の一件では難を逃れのことができた。
わたしは二年前、家族で鳥取市から米子市へと鳥取県を横断したが、すでに本書の内容は忘却の彼方だったので、今本書をぱらぱらめくってみても、わたし自身の記憶と絡むことがなにもなくて悲しい。
著者が遙拝するに留めた三仏寺投入堂(←国宝)には、いつか一度行ってみたいとは思っている。(わたしも遙拝しかできないだろうが…)
(2)「梼原街道(脱藩のみち)」
檮原(ゆすはら)とは、四国山脈の西方にあって、愛媛県との県境にある高知県の町名であり、幕藩体制でもそのまま伊予と土佐の国境であった。サブ題名にあるように、坂本龍馬をはじめとする土佐の郷士の多くが、ここを通過して脱藩した。土佐は四国の他の三国(讃岐、阿波、伊予)とは四国山脈で分離された立地にあり、県境の檮原はもともと伊予文化の影響を多分に受けていたようだ。「檮原は土佐のチベットやきに」などと言われたらしいが、文化的にはむしろ高知城下(御町)よりも都びていた面もあったらしい。
そういったことも影響していたのか、もちろん檮原にも関所はあったが、幕末では見て見ぬふりしていたというのだ。よく判らないが、伊予にさえ抜けてしまえば、そこから先(例えば長州へ)は自由に行けたようだ。
坂本龍馬は沢村惣之丞とともに脱藩する際に、檮原の那須家に厄介になり、当主俊平と養子の信吾等と一晩酒を酌み交わしたという。後に那須家のこの二人も脱藩したわけだが、この四人がいずれも明治を迎えられなかったところが凄惨である。
一方高知県佐川町は、幕藩時代は土佐藩家老深尾氏の領地だったが、この家中だった浜田辰弥は、後に田中光顕伯爵となった。この深尾氏と家中の関係なども、幕藩時代の主従関係といっても様々なことがわかって興味深い。
(2014/3/28記載)
|